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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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28/45

アレン士官学校に行く②

夜の闇が、士官学校の窓の外へゆっくりと降りてきていた。

講堂の高い天井に吊るされた照明だけが、白く老人たちを照らしている。

昼間よりも影が深くなり、彼らの皺や沈黙まで際立って見えた。

「若いの、すまんが一旦ここで終わりにしてくれ」

最初に口を開いた老人は、肩を回しながら苦笑した。

「老人にはそろそろキツイ」

別の老人も椅子へ深く腰掛け直す。

「昔なら徹夜でも語れたんだがなぁ……」

「今じゃ二時間座ってるだけで腰が死ぬ」

周囲で小さな笑いが起こった。

だが、その笑いの奥には、戦場を生き残った者だけが持つ疲労が滲んでいる。

「……あとはそこのバカから聞いてくれ」

そう言われ、男は露骨に顔をしかめた。

「教官、どういうことですか」

「そのままの意味だ」

老人は煙草を指先で弄びながら言った。

「今日はここの寮に泊まっていけ」

「え?」

「おいバカ」

老人が顎で男を指す。

「お前が使ってた部屋とカイの部屋が空いてる」

「そこを使え」

「誰も使っていないんですか」

「昔と違って候補生も減ったからな」

別の老人が静かに答えた。

「今の若い連中は、昔みたいに空へ命を賭けたがらん」

「いいことなのか悪いことなのか……」

誰かがぽつりと呟いた。

講堂の空気が少しだけ沈む。

その時、一人の老人がアレンへ視線を向けた。

鋭い目だった。

歳を重ねてもなお、空を見続けてきた者の目。

「若いの」

「……はい」

「お前さんは、まだアイツを追うのか」

アレンは一瞬だけ言葉を止めた。

脳裏に浮かぶ。

灰の中に埋もれた妹の腕、焦げた母の髪、崩れた父の輪郭。

そして――八芒星。

「……はい」

その答えに、老人はゆっくり頷いた。

「なら覚悟しろ」

講堂の空気が張り詰める。

「あの男は英雄だ」

静かな声だった。

だが、その一言には重みがあった。

「帝国の空を背負い」

「世界中に名を轟かせ」

「何千万もの命を救い」

「何千万もの敵を殺した」

老人の目が、遠い空を見ていた。

「だが同時に――」

一瞬だけ、言葉が止まる。

「あの戦争で、一番深く地獄に沈んだ男でもある」

講堂の外では風が吹いている。

窓の向こうで、帝国旗が夜風に揺れていた。

やがて老人たちは立ち上がり始めた。

「今日はもう終わりだ」

「若いの、また明日来い」

「話ならまだ山ほどある」

「バカ話なんか三日は終わらんぞ」

苦笑混じりの声。

その中で、一人だけ静かにアレンの肩を叩く老人がいた。

「眠れるうちに眠っとけ」

「まだ先は長い」

そう言って、老人たちはゆっくり講堂を後にした。

重い扉が閉まる。

残されたのは、アレンと男だけだった。

「……行くぞ、アレン」

「はい」

男はコートを羽織り直し、歩き出す。

アレンもその背中を追った。

講堂を出ると、夜風が肌を打った。

士官学校の敷地は広かった。

石畳の道、整然と並ぶ訓練棟、夜でも煌々と照らされる滑走路。

遠くでジェットエンジンの低い音が響いている。

訓練機だろうか。

夜間飛行訓練。

空には薄い雲が流れ、月がぼんやり滲んでいた。

二人が歩いていると、向こうから数人の候補生たちが走ってきた。

彼らは男を見るなり、目を見開いた。

「お、お疲れ様です!」

声が裏返っている。

男は面倒くさそうに片手を振った。

「そんな固くなるな」

「す、すみません!」

候補生たちは直立不動のまま頭を下げる。

男が通り過ぎるまで、誰一人顔を上げなかった。

アレンはその様子を見つめていた。

男は歩きながら煙草を咥え火を点ける。

赤い火が夜に滲んだ。

「相変わらず肩が凝る場所だな、ここは」

「……あなたは、ここでずっと?」

「十代の頃にな」

短く答える。

「毎日飛んで、走って、学んで、また飛んだ」

そう言いながらも、その声はどこか懐かしそうだった。

廊下へ入る。

そこには数え切れないほどの写真が飾られていた。

歴代の候補生。

卒業式。

訓練風景。

戦果報告。

そして――アレンの足が止まる。

「……」

写真の中に、男がいた。

今よりずっと若い顔。

その隣には白銀の髪の女性。

凛とした瞳を持つ美しい女性だった。

さらに、その隣。

黒髪の青年。

深いダークブルーの瞳。

だが、その奥に鋭い光を宿している。

「……カイ」

男がぽつりと呟いた。

「こんなとこにもあるのか……」

アレンは写真へ近づいた。

三人は笑っていた。

肩を組み、制服を乱し、子供みたいな顔で。

戦争も地獄もまだ知らない頃の笑顔。

「写真ですか」

「ああ」

男は煙を吐いた。

アレンは写真を見つめ続けた。

この写真に写る、そのうち二人は今ここにいない。

一人は墓の下、もう一人は、世界のどこか。

「行くぞ」

寮棟は静かだった。

消灯時間が近いのか、人影は少ない。

遠くで誰かの笑い声が聞こえる。

シャワーの音、靴音、若い候補生たちの日常。

だがアレンには、その全てがどこか遠く感じられた。

男は廊下の奥で立ち止まる。

古い扉。

部屋番号のプレートは少し剥げていた。

男は鍵を回す、扉が軋んだ。

「……ここだ」

部屋の中は驚くほど綺麗だった。

最低限の家具、ベッド、机、ロッカー。

軍人の部屋らしく簡素だ。

だが、不思議と生活の気配だけが残っている。

男は窓際へ歩き、静かに部屋を見回した。

「変わってねぇな……」

アレンは部屋の奥を見た。

机の隅に古い傷がある。

誰かがナイフで刻んだような跡。

壁にはうっすらと日焼けの痕。

かつて何か貼っていたのだろう。

男はベッドへ腰掛ける。

「アレン」

「はい」

「お前はここのカイが使ってた部屋を使え」

「……え?」

「俺は自分のところ使う」

当然のように言う。

「いいんですか」

「どうせ空いてる」

男は立ち上がった。

「お疲れ様でした」

アレンが頭を下げる。

男は振り返らず片手を上げた。

「おう」

そして、そのまま部屋を出て行った。

扉が閉まる。

アレンはゆっくりと息を吐いた。

そして、ベッドへ倒れ込む。

天井が見えた。

白い天井。

何十年も前、ここで彼も同じ天井を見ていたのだろうか。

訓練に疲れ、仲間と笑い、未来を語り、空を夢見ながら。

アレンは目を閉じる。

彼を追い続け、世界を巡り、ようやくここまで来た。

少しずつ、本当に少しずつだが。

目的へ近づいている。

だが同時に、アレンは理解し始めていた。

黒翼とは単なる「英雄」ではない。

――地獄を生き残った男。

窓の外で風が鳴る。

遠く、滑走路の灯火が夜に浮かんでいた。

アレンは薄く目を開ける。

机の上に、小さな傷があった。

誰かが刻んだ文字。

掠れて読みにくい。

だが、かろうじて判別できた。

『飛び続けろ』

アレンはその文字を見つめたまま、静かに息を吐いた。

翌朝。

乾いたジェットエンジンの轟音が、窓ガラスを震わせていた。

アレンはゆっくりと目を開ける。

薄い朝日がカーテンの隙間から差し込み、古びた士官学校の部屋を淡く照らしていた。

遠くで訓練機が離陸していく。

低く唸るような音。

空軍士官学校の朝だった。

ぼんやりした意識のまま身体を起こそうとした瞬間、部屋の入口に人影が立っていることに気づく。

「ようやく目を覚ましたか」

男だった。

黒いコートを羽織り、壁へ寄りかかるように立っている。

片手には煙草。

窓の光が赤い瞳を鈍く照らしていた。

「……おはようございます」

アレンはまだ掠れた声で返した。

それから、ふと視線を落とす。

「それより……こんなもの見つけたんですけど」

男が眉を動かした。

アレンの手の中には、黒い革手袋があった。

指先には乾いた黒ずんだ染みが残っている。

男はそれを見るなり、小さく息を吐いた。

「……それ、カイのだ」

「やっぱり」

アレンは静かに手袋を見つめる。

「これ、血ですよね」

「ああ」

男の声が少し低くなる。

「多分……エリスたちが死んだ時の血だ」

部屋の空気が重く沈んだ。

男は煙草へ火を点ける。

赤い火が一瞬だけ揺れた。

「カイ、アイツ格納庫の壁を殴ってたんだよ」

煙が静かに流れる。

「血が垂れるくらいな」

男の視線が遠くなる。

「そのときのだ……」

男はアレンの手の中にある黒い革手袋を見つめていた。

長い年月を経ても乾ききらなかった血痕が、指先の皺に黒く沈んでいる。

「そいつを俺に渡してくれ。俺から返す」

「……わかりました」

男は手袋を受け取ると、少しだけ目を伏せた。

その表情は、昨夜までより幾分か軽かった。

何かを諦めたようでもあり、

逆に、何かを決めたようでもあった。

窓の外では、朝の訓練飛行が続いている。

低空を通過する訓練機のエンジン音が、古い寮の窓ガラスを震わせた。

男は血の付いた手袋を自分のコートへしまい込む。

そして煙草を一本くわえ、火を点けた。

紫煙が細く立ち上る。

「アレン、今日は忙しいぞ」

「どこに行くんですか?」

「教官どもに挨拶したあと、陸軍省と海軍省に行く」

「どうしてそんなところに」 

男は苦笑した。

「本当は他のところに行く予定だったんだがな。断られちまった」

男は煙を吐きながら廊下を歩き出した。

アレンも後を追う。

朝の士官学校は、昨日とは違う顔をしていた。

まだ若い候補生たちが駆け足で校庭を横切り、

整備兵たちが工具箱を抱え、

遠くでは教官の怒鳴り声が響いている。

まるでかつてと同じ時間が、今もこの場所だけ止まらずに流れ続けているようだった。

男がふいに口を開く。

「お前、前に聞いただろ」

「……何をですか」

「俺がどうして情報局なんかに行ったのか」

アレンは小さく頷いた。

男は歩みを止めない。

朝日が長い廊下へ斜めに差し込んでいる。

「俺は力が欲しかった」

その声は静かだった。

「カイを一人にしないぐらいの強い力が」

アレンは何も言わず聞いていた。

「あの日からアイツは壊れてた」

「けど、誰より普通に振る舞おうとしてた」

男は煙草を咥えたまま笑った。

自嘲するみたいな笑いだった。

「俺たち全員、見て見ぬふりをした」

その言葉に、少しだけ重い沈黙が落ちる。

「卒業式のとき、アイツが何したと思う」

「……」

「謝ったんだよ」

男の足が止まった。

廊下の窓から、青空が見える。

「死んだヤツらの親族全員に」

アレンは息を呑んだ。

「アイツは代表挨拶の場で頭を下げた」

男の赤い瞳が、遠い過去を見ていた。

「『私のせいで大勢を死なせてしまいました』」

低い声が廊下に落ちる。

「『本来ここにいるべきは私ではない』ってな」

アレンの脳裏に、

壇上で頭を下げる黒髪の青年の姿が浮かぶ。

帝国最高の士官学校その卒業式。

本来なら未来ある英雄として送り出されるはずだった若者が、

大勢の前で罪人みたいに頭を下げている。

男は小さく舌打ちした。

「あの時の無力感は忘れられねぇ」

「皆、わかってたんだ」

「カイの判断は間違ってなかったって」

「あの状況を維持しなきゃ、もっと死んでた」

「教官も、軍上層部も、同期も、みんな理解してた」

「けどアイツだけは理解してなかった」

男は笑う。

苦く、掠れた笑いだった。

「アイツ、自分だけは絶対に許さなかった」

二人は階段を下りる。

窓から吹く風が冷たい。

「式のあと、エリスの両親のところへ行った」

男の声が少し低くなる。

「直接頭を下げてたよ」

「雨の日だった」

「配属前日の夜だ」

アレンは黙って聞いている。

「たった一人で墓地へ行ってた」

「死んだ同期全員の墓にな」

男の視線が遠ざかる。

まるでその夜を今も見ているようだった。

「アイツ、あいつらが本来配属されるはずだった部隊章を持ってた」

「一つずつ墓へ掛けて回ってたよ」

「白い花を供えて」

男はそこで少し黙った。

喉の奥で何かを押し殺すみたいに。

「最後にエリスの墓の前で泣いてた」

煙草の灰が落ちる。

「謝ってたよ」

その言葉だけだった。

だがアレンには、その光景がはっきり見える気がした。 

雨の墓地、制服姿の青年、白い花、墓石を濡らす雨。

そして、崩れるみたいに泣きながら謝り続ける姿。

アレンは静かに呟いた。

「……優しい人だったんですね」

男は少しだけ目を細めた。

「優しすぎたんだよ」

その答えは、吐き捨てるようでもあり、

祈るようでもあった。

「英雄と呼ばれ悪魔、死神と恐れられるには、あまりにも」

外で再び轟音が響く。

銀色の訓練機が空を横切っていった。

男はそれを見上げる。

「あの頃の俺は馬鹿だった」

「力さえあれば全部守れると思ってた」

「誰も死なせずに済むと思ってた」

赤い瞳が細くなる。

「だから情報局へ行った」

「化け物になるためにな」

その声音には、もう怒りも誇りもなかった。

ただ、燃え尽きた灰みたいな静けさだけが残っていた。

講堂へ入ると、昨日と同じように老人たちは集まっていた。

朝の光が高い窓から差し込み、古い木床を白く照らしている。

壁には歴代の卒業生たちの写真。

勲章、色褪せた軍旗。

この場所には、何十年という時間が静かに積もっていた。

アレンは入口で立ち止まり、深く頭を下げる。

「昨日はありがとうございました」

老人たちは顔を見合わせ、一人がふっと笑った。

「若いの、いつでもまた来い」

皺だらけの手が軽く振られる。

「ワシらの話でいいなら、いつでもしてやる」

「ありがとうございます」

アレンが顔を上げると、別の老人が隣に立つ男を指差した。

「あと、そこのバカ」

「なんですか教官」

「ラグナーのバカはこっちでも探してやる」

一瞬、男が目を見開いた。

「……いいんですか、教官」

「当たり前じゃ」

老人は鼻を鳴らした。

「あれでも、あんなことの後でもワシらの可愛い教え子なんだ」

その言葉に、講堂の空気が少しだけ柔らかくなる。

「探してやるよ」

別の老人も頷いた。

「正直、お前たち203期生はワシらの誇りだったんだ」

静かな声だった。

だが、その重みはアレンにも伝わった。

「歴代でもあれほど優秀な連中はおらんかった」

「問題児ばっかりだったがな」

「特にな、このバカは酷かった」

「教官、まだ言うんですか」

「うるさいわ」

老人たちの間に笑いが起こる。

その笑い声には、懐かしさと、失った時間への痛みが混じっていた。

一人の老人がぽつりと呟いた。

「正直、こないだお前から連絡が来るまで、お前たちは死んだと思っていた」

男の表情が少し止まる。

「安心したんだよ」

講堂に短い沈黙が落ちた。

男は目を逸らし、困ったように頭を掻いた。

「……すみません」

「謝るな馬鹿者」

老人が杖で床を叩く。

「生きてるなら顔ぐらい見せに来い」

「そうじゃそうじゃ」

「何十年も音沙汰なしとか何考えとる」

「お前ら卒業してから急に消えるんじゃもん」

「ワシら老人の寿命考えろ」

口々に飛んでくる文句に、男は苦笑するしかなかった。

アレンはその光景を静かに見ていた。

老人の一人がニヤリと笑う。

「カイのバカを見つけたら、ワシらのところに連れてこい」

拳を握る。

「鉄拳制裁じゃ」

周囲から笑いが起きた。

「あの人に鉄拳制裁できる人なんているんですか」

アレンが思わず聞くと、老人たちは同時に鼻で笑った。

「昔はようやったわ」

「訓練機を壊した回数だけ殴った」

「校舎の屋上から飛び降りた時は本気で殺そうと思った」

「あれは着地成功したからいいじゃないですか」

「良くないわ!!」

講堂にまた笑い声が広がる。

その笑いの中で、男だけが少し静かだった。

赤い瞳が窓の外を見ている。

遠くの空で訓練機雲が白く伸びていた。

老人がふと優しい声で言った。

「……連れて帰ってこい」

「アイツはここから始まったんだ」

「なら最後ぐらい、帰ってくる場所が必要じゃろう」

男はしばらく黙っていた。

やがて小さく息を吐き、短く答える。

「……はい」

その返事は、昔の候補生へ戻ったみたいに素直だった。

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