アレン士官学校に行く②
夜の闇が、士官学校の窓の外へゆっくりと降りてきていた。
講堂の高い天井に吊るされた照明だけが、白く老人たちを照らしている。
昼間よりも影が深くなり、彼らの皺や沈黙まで際立って見えた。
「若いの、すまんが一旦ここで終わりにしてくれ」
最初に口を開いた老人は、肩を回しながら苦笑した。
「老人にはそろそろキツイ」
別の老人も椅子へ深く腰掛け直す。
「昔なら徹夜でも語れたんだがなぁ……」
「今じゃ二時間座ってるだけで腰が死ぬ」
周囲で小さな笑いが起こった。
だが、その笑いの奥には、戦場を生き残った者だけが持つ疲労が滲んでいる。
「……あとはそこのバカから聞いてくれ」
そう言われ、男は露骨に顔をしかめた。
「教官、どういうことですか」
「そのままの意味だ」
老人は煙草を指先で弄びながら言った。
「今日はここの寮に泊まっていけ」
「え?」
「おいバカ」
老人が顎で男を指す。
「お前が使ってた部屋とカイの部屋が空いてる」
「そこを使え」
「誰も使っていないんですか」
「昔と違って候補生も減ったからな」
別の老人が静かに答えた。
「今の若い連中は、昔みたいに空へ命を賭けたがらん」
「いいことなのか悪いことなのか……」
誰かがぽつりと呟いた。
講堂の空気が少しだけ沈む。
その時、一人の老人がアレンへ視線を向けた。
鋭い目だった。
歳を重ねてもなお、空を見続けてきた者の目。
「若いの」
「……はい」
「お前さんは、まだアイツを追うのか」
アレンは一瞬だけ言葉を止めた。
脳裏に浮かぶ。
灰の中に埋もれた妹の腕、焦げた母の髪、崩れた父の輪郭。
そして――八芒星。
「……はい」
その答えに、老人はゆっくり頷いた。
「なら覚悟しろ」
講堂の空気が張り詰める。
「あの男は英雄だ」
静かな声だった。
だが、その一言には重みがあった。
「帝国の空を背負い」
「世界中に名を轟かせ」
「何千万もの命を救い」
「何千万もの敵を殺した」
老人の目が、遠い空を見ていた。
「だが同時に――」
一瞬だけ、言葉が止まる。
「あの戦争で、一番深く地獄に沈んだ男でもある」
講堂の外では風が吹いている。
窓の向こうで、帝国旗が夜風に揺れていた。
やがて老人たちは立ち上がり始めた。
「今日はもう終わりだ」
「若いの、また明日来い」
「話ならまだ山ほどある」
「バカ話なんか三日は終わらんぞ」
苦笑混じりの声。
その中で、一人だけ静かにアレンの肩を叩く老人がいた。
「眠れるうちに眠っとけ」
「まだ先は長い」
そう言って、老人たちはゆっくり講堂を後にした。
重い扉が閉まる。
残されたのは、アレンと男だけだった。
「……行くぞ、アレン」
「はい」
男はコートを羽織り直し、歩き出す。
アレンもその背中を追った。
講堂を出ると、夜風が肌を打った。
士官学校の敷地は広かった。
石畳の道、整然と並ぶ訓練棟、夜でも煌々と照らされる滑走路。
遠くでジェットエンジンの低い音が響いている。
訓練機だろうか。
夜間飛行訓練。
空には薄い雲が流れ、月がぼんやり滲んでいた。
二人が歩いていると、向こうから数人の候補生たちが走ってきた。
彼らは男を見るなり、目を見開いた。
「お、お疲れ様です!」
声が裏返っている。
男は面倒くさそうに片手を振った。
「そんな固くなるな」
「す、すみません!」
候補生たちは直立不動のまま頭を下げる。
男が通り過ぎるまで、誰一人顔を上げなかった。
アレンはその様子を見つめていた。
男は歩きながら煙草を咥え火を点ける。
赤い火が夜に滲んだ。
「相変わらず肩が凝る場所だな、ここは」
「……あなたは、ここでずっと?」
「十代の頃にな」
短く答える。
「毎日飛んで、走って、学んで、また飛んだ」
そう言いながらも、その声はどこか懐かしそうだった。
廊下へ入る。
そこには数え切れないほどの写真が飾られていた。
歴代の候補生。
卒業式。
訓練風景。
戦果報告。
そして――アレンの足が止まる。
「……」
写真の中に、男がいた。
今よりずっと若い顔。
その隣には白銀の髪の女性。
凛とした瞳を持つ美しい女性だった。
さらに、その隣。
黒髪の青年。
深いダークブルーの瞳。
だが、その奥に鋭い光を宿している。
「……カイ」
男がぽつりと呟いた。
「こんなとこにもあるのか……」
アレンは写真へ近づいた。
三人は笑っていた。
肩を組み、制服を乱し、子供みたいな顔で。
戦争も地獄もまだ知らない頃の笑顔。
「写真ですか」
「ああ」
男は煙を吐いた。
アレンは写真を見つめ続けた。
この写真に写る、そのうち二人は今ここにいない。
一人は墓の下、もう一人は、世界のどこか。
「行くぞ」
寮棟は静かだった。
消灯時間が近いのか、人影は少ない。
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
シャワーの音、靴音、若い候補生たちの日常。
だがアレンには、その全てがどこか遠く感じられた。
男は廊下の奥で立ち止まる。
古い扉。
部屋番号のプレートは少し剥げていた。
男は鍵を回す、扉が軋んだ。
「……ここだ」
部屋の中は驚くほど綺麗だった。
最低限の家具、ベッド、机、ロッカー。
軍人の部屋らしく簡素だ。
だが、不思議と生活の気配だけが残っている。
男は窓際へ歩き、静かに部屋を見回した。
「変わってねぇな……」
アレンは部屋の奥を見た。
机の隅に古い傷がある。
誰かがナイフで刻んだような跡。
壁にはうっすらと日焼けの痕。
かつて何か貼っていたのだろう。
男はベッドへ腰掛ける。
「アレン」
「はい」
「お前はここのカイが使ってた部屋を使え」
「……え?」
「俺は自分のところ使う」
当然のように言う。
「いいんですか」
「どうせ空いてる」
男は立ち上がった。
「お疲れ様でした」
アレンが頭を下げる。
男は振り返らず片手を上げた。
「おう」
そして、そのまま部屋を出て行った。
扉が閉まる。
アレンはゆっくりと息を吐いた。
そして、ベッドへ倒れ込む。
天井が見えた。
白い天井。
何十年も前、ここで彼も同じ天井を見ていたのだろうか。
訓練に疲れ、仲間と笑い、未来を語り、空を夢見ながら。
アレンは目を閉じる。
彼を追い続け、世界を巡り、ようやくここまで来た。
少しずつ、本当に少しずつだが。
目的へ近づいている。
だが同時に、アレンは理解し始めていた。
黒翼とは単なる「英雄」ではない。
――地獄を生き残った男。
窓の外で風が鳴る。
遠く、滑走路の灯火が夜に浮かんでいた。
アレンは薄く目を開ける。
机の上に、小さな傷があった。
誰かが刻んだ文字。
掠れて読みにくい。
だが、かろうじて判別できた。
『飛び続けろ』
アレンはその文字を見つめたまま、静かに息を吐いた。
翌朝。
乾いたジェットエンジンの轟音が、窓ガラスを震わせていた。
アレンはゆっくりと目を開ける。
薄い朝日がカーテンの隙間から差し込み、古びた士官学校の部屋を淡く照らしていた。
遠くで訓練機が離陸していく。
低く唸るような音。
空軍士官学校の朝だった。
ぼんやりした意識のまま身体を起こそうとした瞬間、部屋の入口に人影が立っていることに気づく。
「ようやく目を覚ましたか」
男だった。
黒いコートを羽織り、壁へ寄りかかるように立っている。
片手には煙草。
窓の光が赤い瞳を鈍く照らしていた。
「……おはようございます」
アレンはまだ掠れた声で返した。
それから、ふと視線を落とす。
「それより……こんなもの見つけたんですけど」
男が眉を動かした。
アレンの手の中には、黒い革手袋があった。
指先には乾いた黒ずんだ染みが残っている。
男はそれを見るなり、小さく息を吐いた。
「……それ、カイのだ」
「やっぱり」
アレンは静かに手袋を見つめる。
「これ、血ですよね」
「ああ」
男の声が少し低くなる。
「多分……エリスたちが死んだ時の血だ」
部屋の空気が重く沈んだ。
男は煙草へ火を点ける。
赤い火が一瞬だけ揺れた。
「カイ、アイツ格納庫の壁を殴ってたんだよ」
煙が静かに流れる。
「血が垂れるくらいな」
男の視線が遠くなる。
「そのときのだ……」
男はアレンの手の中にある黒い革手袋を見つめていた。
長い年月を経ても乾ききらなかった血痕が、指先の皺に黒く沈んでいる。
「そいつを俺に渡してくれ。俺から返す」
「……わかりました」
男は手袋を受け取ると、少しだけ目を伏せた。
その表情は、昨夜までより幾分か軽かった。
何かを諦めたようでもあり、
逆に、何かを決めたようでもあった。
窓の外では、朝の訓練飛行が続いている。
低空を通過する訓練機のエンジン音が、古い寮の窓ガラスを震わせた。
男は血の付いた手袋を自分のコートへしまい込む。
そして煙草を一本くわえ、火を点けた。
紫煙が細く立ち上る。
「アレン、今日は忙しいぞ」
「どこに行くんですか?」
「教官どもに挨拶したあと、陸軍省と海軍省に行く」
「どうしてそんなところに」
男は苦笑した。
「本当は他のところに行く予定だったんだがな。断られちまった」
男は煙を吐きながら廊下を歩き出した。
アレンも後を追う。
朝の士官学校は、昨日とは違う顔をしていた。
まだ若い候補生たちが駆け足で校庭を横切り、
整備兵たちが工具箱を抱え、
遠くでは教官の怒鳴り声が響いている。
まるでかつてと同じ時間が、今もこの場所だけ止まらずに流れ続けているようだった。
男がふいに口を開く。
「お前、前に聞いただろ」
「……何をですか」
「俺がどうして情報局なんかに行ったのか」
アレンは小さく頷いた。
男は歩みを止めない。
朝日が長い廊下へ斜めに差し込んでいる。
「俺は力が欲しかった」
その声は静かだった。
「カイを一人にしないぐらいの強い力が」
アレンは何も言わず聞いていた。
「あの日からアイツは壊れてた」
「けど、誰より普通に振る舞おうとしてた」
男は煙草を咥えたまま笑った。
自嘲するみたいな笑いだった。
「俺たち全員、見て見ぬふりをした」
その言葉に、少しだけ重い沈黙が落ちる。
「卒業式のとき、アイツが何したと思う」
「……」
「謝ったんだよ」
男の足が止まった。
廊下の窓から、青空が見える。
「死んだヤツらの親族全員に」
アレンは息を呑んだ。
「アイツは代表挨拶の場で頭を下げた」
男の赤い瞳が、遠い過去を見ていた。
「『私のせいで大勢を死なせてしまいました』」
低い声が廊下に落ちる。
「『本来ここにいるべきは私ではない』ってな」
アレンの脳裏に、
壇上で頭を下げる黒髪の青年の姿が浮かぶ。
帝国最高の士官学校その卒業式。
本来なら未来ある英雄として送り出されるはずだった若者が、
大勢の前で罪人みたいに頭を下げている。
男は小さく舌打ちした。
「あの時の無力感は忘れられねぇ」
「皆、わかってたんだ」
「カイの判断は間違ってなかったって」
「あの状況を維持しなきゃ、もっと死んでた」
「教官も、軍上層部も、同期も、みんな理解してた」
「けどアイツだけは理解してなかった」
男は笑う。
苦く、掠れた笑いだった。
「アイツ、自分だけは絶対に許さなかった」
二人は階段を下りる。
窓から吹く風が冷たい。
「式のあと、エリスの両親のところへ行った」
男の声が少し低くなる。
「直接頭を下げてたよ」
「雨の日だった」
「配属前日の夜だ」
アレンは黙って聞いている。
「たった一人で墓地へ行ってた」
「死んだ同期全員の墓にな」
男の視線が遠ざかる。
まるでその夜を今も見ているようだった。
「アイツ、あいつらが本来配属されるはずだった部隊章を持ってた」
「一つずつ墓へ掛けて回ってたよ」
「白い花を供えて」
男はそこで少し黙った。
喉の奥で何かを押し殺すみたいに。
「最後にエリスの墓の前で泣いてた」
煙草の灰が落ちる。
「謝ってたよ」
その言葉だけだった。
だがアレンには、その光景がはっきり見える気がした。
雨の墓地、制服姿の青年、白い花、墓石を濡らす雨。
そして、崩れるみたいに泣きながら謝り続ける姿。
アレンは静かに呟いた。
「……優しい人だったんですね」
男は少しだけ目を細めた。
「優しすぎたんだよ」
その答えは、吐き捨てるようでもあり、
祈るようでもあった。
「英雄と呼ばれ悪魔、死神と恐れられるには、あまりにも」
外で再び轟音が響く。
銀色の訓練機が空を横切っていった。
男はそれを見上げる。
「あの頃の俺は馬鹿だった」
「力さえあれば全部守れると思ってた」
「誰も死なせずに済むと思ってた」
赤い瞳が細くなる。
「だから情報局へ行った」
「化け物になるためにな」
その声音には、もう怒りも誇りもなかった。
ただ、燃え尽きた灰みたいな静けさだけが残っていた。
講堂へ入ると、昨日と同じように老人たちは集まっていた。
朝の光が高い窓から差し込み、古い木床を白く照らしている。
壁には歴代の卒業生たちの写真。
勲章、色褪せた軍旗。
この場所には、何十年という時間が静かに積もっていた。
アレンは入口で立ち止まり、深く頭を下げる。
「昨日はありがとうございました」
老人たちは顔を見合わせ、一人がふっと笑った。
「若いの、いつでもまた来い」
皺だらけの手が軽く振られる。
「ワシらの話でいいなら、いつでもしてやる」
「ありがとうございます」
アレンが顔を上げると、別の老人が隣に立つ男を指差した。
「あと、そこのバカ」
「なんですか教官」
「ラグナーのバカはこっちでも探してやる」
一瞬、男が目を見開いた。
「……いいんですか、教官」
「当たり前じゃ」
老人は鼻を鳴らした。
「あれでも、あんなことの後でもワシらの可愛い教え子なんだ」
その言葉に、講堂の空気が少しだけ柔らかくなる。
「探してやるよ」
別の老人も頷いた。
「正直、お前たち203期生はワシらの誇りだったんだ」
静かな声だった。
だが、その重みはアレンにも伝わった。
「歴代でもあれほど優秀な連中はおらんかった」
「問題児ばっかりだったがな」
「特にな、このバカは酷かった」
「教官、まだ言うんですか」
「うるさいわ」
老人たちの間に笑いが起こる。
その笑い声には、懐かしさと、失った時間への痛みが混じっていた。
一人の老人がぽつりと呟いた。
「正直、こないだお前から連絡が来るまで、お前たちは死んだと思っていた」
男の表情が少し止まる。
「安心したんだよ」
講堂に短い沈黙が落ちた。
男は目を逸らし、困ったように頭を掻いた。
「……すみません」
「謝るな馬鹿者」
老人が杖で床を叩く。
「生きてるなら顔ぐらい見せに来い」
「そうじゃそうじゃ」
「何十年も音沙汰なしとか何考えとる」
「お前ら卒業してから急に消えるんじゃもん」
「ワシら老人の寿命考えろ」
口々に飛んでくる文句に、男は苦笑するしかなかった。
アレンはその光景を静かに見ていた。
老人の一人がニヤリと笑う。
「カイのバカを見つけたら、ワシらのところに連れてこい」
拳を握る。
「鉄拳制裁じゃ」
周囲から笑いが起きた。
「あの人に鉄拳制裁できる人なんているんですか」
アレンが思わず聞くと、老人たちは同時に鼻で笑った。
「昔はようやったわ」
「訓練機を壊した回数だけ殴った」
「校舎の屋上から飛び降りた時は本気で殺そうと思った」
「あれは着地成功したからいいじゃないですか」
「良くないわ!!」
講堂にまた笑い声が広がる。
その笑いの中で、男だけが少し静かだった。
赤い瞳が窓の外を見ている。
遠くの空で訓練機雲が白く伸びていた。
老人がふと優しい声で言った。
「……連れて帰ってこい」
「アイツはここから始まったんだ」
「なら最後ぐらい、帰ってくる場所が必要じゃろう」
男はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、短く答える。
「……はい」
その返事は、昔の候補生へ戻ったみたいに素直だった。




