アレン士官学校に行く
二十年。
その言葉だけが、アレンの胸に重く残った。
たった一言だったが、その短い言葉の奥には、長すぎる時間が沈んでいた。
戻らなかった者、帰れなかった者、探し続けた者。
男の横顔には、それらすべてが刻まれているように見えた。
アレンは静かに口を開く。
「……本当に二十年、会ってないんですか」
男は煙を吐きながら、小さく笑った。
「講和条約締結後、アイツは消えた」
夕陽を見つめたまま続ける。
「それから音沙汰ゼロだ。どこにいるのかすら分からない」
「ここになら何か手掛かりがあると思ったんだけどなぁ」
そう言って肩をすくめた。
その口調は軽かったが、アレンには分かった。
彼もずっと探している。
戦争が終わってもなお。
黒翼を。
カイ・ラグナーを。
男は煙草を地面に落とし、靴先で火を潰した。
「そんなことより、さっさと車に乗れ」
「え?」
「行くぞ」
半ば強引に背を押され、アレンは軍用車へ乗り込む。
エンジンが唸りを上げた。
車体がゆっくりと街を離れていく。
窓の外では、帝国旗が夕風に翻っていた。
黒鉄色の布地に、黄金の双翼。
車内には暖房の低い音だけが響く。
しばらくして、アレンは恐る恐る口を開いた。
「……私が入って大丈夫なんですか」
「安心しろ。話は通してある」
「ですが……」
「帝国空軍第119士官学校」
男の声が、わずかに低くなった。
「毎年、何十万って人間がここの入学を夢見て試験に挑む」
窓の外に、巨大な外壁が見え始める。
「だが、残るのは数十人だ」
アレンは思わず息を呑んだ。
黒鉄色の巨大な門、高くそびえる塔、蒼銀の紋章。
まるで一つの城塞だった。
帝国空軍第119士官学校。
世界最強と恐れられたノルヴァイン帝国空軍。
その中核を築き上げた者たちの古巣。
世界中の空軍が、その戦術を研究し、模倣し、恐れた。
その始まりの場所。
門前に立つ衛兵が、車を止めた。
「確認書を」
男は懐から書類を取り出し、無造作に渡す。
衛兵は受け取り内容を確認した次の瞬間。
顔色が変わった。
まるで血の気が失せたように青ざめる。
「し……失礼しました!」
背筋を叩きつけるような敬礼。
男は苦笑する。
「そんな堅くなるな。楽にしろ」
「は、はい!」
門が開く。
軍用車がゆっくりと校内へ入っていった。
アレンは隣に座る男を見た。
白翼。
かつて黒翼と並び、帝国最強と呼ばれた存在。
その名が、今もなお、この場所で特別な意味を持っている。
それがよく分かった。
校内は静かだった。
夕暮れの光が長い影を落としている。
石畳、訓練棟、巨大な格納庫、遠くには演習機のシルエットも見える。
アレンは窓越しにそれらを眺めた。
ここから、数多の空の怪物たちが生まれたのだ。
カイ・ラグナーも。
そして、この男も。
車はやがて、一つの大きな建物の前で止まった。
「降りろ」
アレンは外へ出る。
見上げるほど巨大な講堂だった。
石造りの外壁には、巨大な銀翼章が掲げられている。
中へ入ると、空気が変わった。
古い木材の匂い、長い年月の染み込んだ空気。
講堂の中央には、数人の老人たちが座っていた。
全員が白髪だった。だが、その姿勢には異様な鋭さが残っている。
ただ座っているだけで、空気が張り詰める。
老いてなお、猛禽の目をしていた。
男は歩み寄る。
「お久しぶりです、教官」
一人の老人が鼻を鳴らした。
「遅いぞ、馬鹿者」
低く枯れた声。
「ラグナーとフェルシアがいなくては、まだ駄目か」
男は苦く笑う。
「……ええ」
その返答に、老人たちは沈黙した。
まるで、そこにいない二人の名が、この場に重く落ちたようだった。
別の老人が、アレンを見た。
「ところで、そこの若いのが例のか?」
「はい」
男は肩をすくめる。
「わざわざ黒翼――カイを追って、世界中を回ってきた暇人です」
「ほう」
老人たちの鋭い視線が一斉にアレンへ向く。
まるで心の奥まで見透かされるようだった。
一人が杖を鳴らす。
「おい、若いの」
アレンは自然と背筋を伸ばした。
「お前はカイの何を知りたい」
静かな声だった。
その一言には重みがあった。
アレンは少し黙る。
何を知りたいのか。
今までなら、答えは簡単だった。
だが――ここまで来て、多くの証言を聞き、多くの人間に会って。
その答えは、もう単純ではなくなっていた。
黒翼、英雄、死神。悪魔。
誰もが違う姿を語った。
そして、そのどれもが嘘ではなかった。
アレンはゆっくり口を開く。
「今、私があなたたちに言えるのは……」
講堂の静寂が深くなる。
「カイさんにある人たちの最後を聞きたい」
老人たちは黙って聞いていた。
「……それだけです」
しばらく誰も何も言わなかった。
窓の外で風が鳴る。
夕暮れの光が講堂へ差し込み、床へ長い影を落としていた。
やがて、一人の老人が静かに笑った。
「なるほど......」
別の老人も鼻を鳴らす。
「厄介な目をしている」
男が煙草を取り出しながら笑う。
「言ったでしょう。変わり者なんですよ」
「お前が連れて来る時点で普通ではないだろ」
老人の一人が立ち上がった。
軍服ではないその立ち姿には今なお軍人の威圧感があった。
「座れ、若いの」
長椅子を指差す。
「長い話になる」
アレンは静かに腰を下ろした。
老人は窓の外を見る。
遠く、夕焼けの空。
その目は、何十年も前の空を見ているようだった。
「あやつはな」
老人がぽつりと言う。
「最初から化け物だった」
講堂の空気が変わった。
「飛行時間など関係ない。経験も関係ない」
「初飛行の日から、アイツだけは空が違った」
別の老人が笑う。
「教官用の機体に勝手に食らいついてきおったからな」
「あの日、何人教官を青ざめさせたと思っとる」
男が苦笑する。
「懐かしいですね」
「貴様も同類だろうが、白翼」
「否定はしません」
老人たちは小さく笑った。
講堂の空気が静まり返る。
老人の声だけが、古びた壁にゆっくりと染み込んでいった。
「なぁ、若いの。お前さんは“帝国の鷲”と呼ばれた男を知っているか」
アレンは頷く。
「えぇ。帝国が大戦をする前の戦争で戦死した、当時のエースパイロットだったと」
その瞬間。
隣に立っていた男が、煙草を咥えたまま静かに言った。
「アレン、それはカイの父親だ」
「……?」
アレンの目が見開かれる。
男は苦笑した。
「お前がカイを追うなら、今までの“ラグナー”についても知っておいたほうがいい...」
老人の一人が椅子へ深く腰を預けた。
「ラグナー――」
その名を口にした瞬間、空気が変わる。
まるでその文字そのものに、長い歴史と伝説が宿っているようだった。
「世界で最も空を愛し、空に愛された者たちだ」
老人の皺だらけの指が、静かに机を叩く。
「誰よりも強く」
「誰よりも高く」
「誰よりも速く」
「誰よりも無茶をして」
「誰よりも仲間思いだった」
別の老人が、小さく笑った。
「本当に馬鹿な奴らだったよ」
その笑みは、懐かしさと痛みを混ぜたようなものだった。
「同期として、上官として、あるいは後輩として……ワシらは何十年もあの背中を見てきた」
「皆が同じように憧れた」
「奴らの隣に並び立つことを夢見た」
講堂の高い窓から夕日が差し込む。
蒼銀の光が老人たちの顔を照らした。
「エースパイロットとして」
「英雄として」
「いつも新聞の一面を飾っていた」
「皇帝陛下から何度も勲章を授与されてな」
男が笑う。
「制服がじゃらじゃらしていた」
「今ある勲章じゃ足りんから、ラグナーのために新しく作られた勲章がいくつあるか分からん」
「街へ出れば、どこにでも写真があった」
「帝国臣民全員の憧れだった」
老人はそこで少し黙った。
その沈黙の中に、あまりにも大きな喪失があった。
「……大好きだったんじゃよ」
ぽつりと漏れた声。
「友として」
「仲間として」
「何度も共に馬鹿をやった」
「酒を飲み明かした夜もあった」
「くだらん喧嘩で殴り合った日もあった」
別の老人が鼻で笑う。
「奴らは喧嘩も強かったからな。誰も勝つことはできんかった」
「だが翌日にはケロッとしてまた飛ぶ」
「まるで不死身だった」
男が遠い目をする。
「どんな不利な戦況でも、あいつらが来ればひっくり返った」
「絶望の空を覆してしまう」
「だから帝国は勝ち続けた」
「だから世界中に名を知られた」
「そして他国では“帝国の悪魔”と恐れられた」
「子供の躾に使われるほどにな」
アレンは黙って聞いていた。
ラグナー。
それは単なる英雄の姓ではない。
帝国という国家そのものが作り上げた、“空の象徴”だった。
老人は続ける。
「そんな奴らがな……」
ふっと目を細める。
「ある時から、一人の子供の話ばかりするようになった」
講堂に沈黙が落ちる。
「カイだ」
その名が、静かに響く。
「まだ幼かったあの子の話を、酒の席で何度もしていた」
老人たちは小さく笑った。
その笑みには、かつて確かに存在した平和な時間の残響があった。
「そして皆、同じことを願っていた」
老人の視線が夕空へ向く。
「あの子が飛ぶ空は、平和であってほしいと」
静かなその一言が妙に胸へ刺さる。
「奴らは知っていたんだ」
「誰よりもこの広い空を」
「そして、誰よりもこの残酷な空を」
「ある酒の席でな」
「ラグナーの一人が、ぽつりと言ったんだ」
講堂の空気が重く沈む。
『俺達の翼は赤く、血で汚れた翼だ』
誰も動かなかった。
老人たちの表情が静かに陰る。
『辛いんだ』
『何も知らないあの子に』
『この血で汚れた手で触れるのが』
『何千、何万と人を殺したこの手で』
アレンは息を呑む。
英雄。
帝国の空を守った者たち。
世界中から憧れられ、恐れられた絶対的エース。
だが彼ら自身はその翼が血に染まっていることを、誰より知っていた。
男がぽつりと呟く。
だからカイは……」
そこで言葉を止めた。
老人の一人が続ける。
「アイツはな、若いの」
「“空を愛し愛されたからこそ”、空に呪われたんだよ」
夕日が沈み始めていた。
講堂の窓から見える空は、まるで燃えるように赤かった。
血の色みたいだ、とアレンはなぜか、そう思った。
老人はゆっくりと目を閉じた。
まるで、遠い空に散っていった者たちの姿を、一人ずつ思い返しているようだった。
「……アイツらの飛行服にはな」
掠れた声が講堂に響く。
「鷲のマークと共に、言葉が刻まれていた」
老人の指が、自分の胸元をなぞる。
そこに、かつて同じ言葉があったかのように。
「――飛び続けろ」
「――強く在れ、誰よりも」
「――仲間を守るために」
静かな沈黙。
誰も口を挟まない。
「そしてその言葉のように生きた」
老人は笑った。
誇らしげに、そして、ひどく悲しそうに。
「ほとんどの奴が、味方を守って死んだ」
アレンの胸が重くなる。
「敵の包囲網へ、一人で助けに突っ込んだ奴もいた」
「殿を、自分から志願した奴もいた」
「撤退の最後尾で飛び続け、燃料も弾も尽きたまま、それでも戻らなかった奴もいる」
老人の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが逆に痛々しかった。
「皆、同じことを言うんだ」
小さく息を吐く。
『大丈夫だから』
「大丈夫なわけがない」
「誰が見ても、もう助からない」
「機体は燃えてる」
「翼は穴だらけだ」
「計器は死んでる」
「それでも、あいつらは笑う」
老人の目が揺れる。
「そして死に逝く中でも、最後まで仲間を心配していた」
講堂の空気が静まり返る。
「機体が燃え、黒煙を吐いても」
「最後には必ず、こう言うんだ」
老人はゆっくり口を開いた。
『まだ、来るなよ』
その言葉が、静かに響く。
命令、あるいは願い。
仲間を生かすための、最後の言葉。
老人は目を伏せる。
「アイツらが死んだ時な」
声が震えていた。
「帝国中で涙が流れた」
窓の外では夕焼けがさらに深くなる。
「一人一人、国葬まで行われた」
「街には花が溢れた」
「皆、泣いていた」
「子供も」
「老人も」
「軍の連中ですら、人前で泣いていた」
老人が苦笑する。
「ワシも泣いた」
「情けないくらいにな」
誰も笑わなかった。
その涙の重さを、この場にいる全員が知っていたからだ。
「……悔しかったんだ」
老人がぽつりと呟く。
「本当に悔しかった」
皺だらけの拳が震えていた。
「ラグナーたちが血を流す姿を見るのが嫌だった」
「アイツらは、誰より空を愛していた」
「誰より自由に飛んでいた」
「なのに最後には皆、血まみれで堕ちていく」
男が静かに煙草へ火を点ける。
赤い火が一瞬だけ揺れた。
老人たちが黙る。
「奴は、カイは、ラグナーの最後の希望だった」
「“この子だけは戦場へ行かせたくない”って、皆が言ってた」
アレンは静かに聞いていた。
黒翼、英雄。
その男は、最初から怪物だったわけじゃない。
血に染まった翼を見続けてきた者たちの、最後の願いだったのだ。
老人がアレンを見る。
「だがな、若いの」
「空ってのは残酷だ」
「愛し愛された者ほど、引きずり込む」
男が苦笑する。
「結局、アイツは誰より空に、蒼穹の女神様に愛されちまった」
夕焼けが、講堂を真っ赤に染めていた。
まるで、燃える翼の色だった。




