報告
基地司令部は前線基地らしく慌ただしかった。
作戦参謀たちが地図を広げ、通信兵がひっきりなしに各部隊との交信を続けている。
壁一面には戦況図が映し出され、セリオン群島各地で進む戦闘の状況が刻一刻と更新されていた。
カイは司令室へ入り、静かに敬礼する。
基地司令は書類から目を上げると、小さく頷いた。
「まずはご苦労だった。」
「輸送機編隊第758隊は全機損傷なく到着した。」
「そしてヴァイパー隊を救援し、全機を帰還させたことについても礼を言う。」
「……」
カイは何も答えない。
司令もそれを咎めることはなかった。
彼の報告書には、すでにその寡黙な性格が記されていた。
司令は戦況図へ目を向ける。
「当基地での貴官には、本日より主攻部隊として前線支援へ赴いてもらう。」
「航空優勢を維持し、必要に応じて敵航空戦力の排除、対地支援、味方部隊の援護を実施せよ。」
「前線は現在膠着しつつある。制空権を維持できるかどうかが、地上部隊の進撃を左右する。」
「貴官には、その要となってもらう。」
カイは一度だけ頷いた。
「了解。」
その一言だけで十分だった。
基地司令も静かに頷き返す。
「詳細な任務は追って作戦室より通達する。」
「それまで機体の整備と補給を済ませ、いつでも出撃できるよう待機せよ。」
「了解。」
敬礼を交わすと、カイは踵を返した。
重い扉が背後で閉まり、カイは管制塔を後にした。
外は冷たい風が吹き抜けている。
その風には、硝煙の匂いが混じっていた。
焼けた火薬、航空燃料、焦げた鉄。
遠くで続く砲撃の振動が、大地をかすかに震わせている。
前線基地特有の空気だった。
整備兵たちは慌ただしく機体の周囲を走り回り、弾薬車や燃料車が絶え間なく行き交う。
傷を負った戦闘機が帰還し、別の機体がエンジンを唸らせて飛び立っていく。
誰もが次の戦いへ向けて動いていた。
その喧騒の中を、カイだけが静かに歩いていく。
ダークブルーの瞳の奥には、底知れぬ闇が静かに渦巻いていた。
感情ではない。
怒りでも憎しみでもない。
どこまでも深く、光を飲み込むような闇。
格納庫の奥では、F-15Λが静かに佇んでいる。
漆黒の機体は照明を鈍く吸い込み、まるで生き物のような冷たい存在感を放っていた。
それは、カイの内にある闇へ呼応するかのようだった。
不意に、耳元で、誰かが囁いた気がした。
『飛べ。』
低く、冷たい声。
『戦場へ。』
『前線へ。』
『そして、死の淵まで。』
異形の闇が、静かに語りかけてくる。
ドクン──。
心臓が大きく脈打った。
鼓動だけが、やけにはっきりと耳に響く。
飛ばなければならない。
空へ、戦場へ。
そうしなければ、何か大切なものを失ってしまう。
そんな焦燥だけが胸の奥で膨らんでいく。
再び、囁きが響く。
『夢の続きを見たいなら。』
『お前は、何を差し出せる?』
声は優しくもあり、残酷でもあった。
底の見えない深淵が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
『もっと深く。』
『もっと遠く。』
闇はなおも囁き続ける。
まるで抗うことのできない運命へ誘うように。
カイは立ち止まったまま、漆黒のF-15Λを見つめていた。
その瞳には、もう格納庫も、整備兵も、前線基地の光景も映ってはいなかった。
ダークブルーだったはずの瞳は、ただ深い闇だけを湛え、どこまでも静かに虚空を見つめていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
司令室の扉が静かに閉まる。
重い金属音だけが部屋に残り、しばらく誰も口を開かなかった。
先ほどまでそこに立っていた青年の気配だけが、まだ室内に残っているような錯覚を覚える。
司令官は無意識に息を吐いた。
額には薄く汗が滲み、握った拳には力が入っていた。
「あれが……黒翼か……」
誰に向けたとも知れぬ呟きが、静まり返った司令室へ落ちる。
副官も小さく息を飲んだ。
「とても同じ人間とは思えません。」
司令官は黙って頷いた。
「あの青年が部屋へ入ってきた瞬間……空気そのものが変わった。」
別の参謀が静かに続ける。
「彼から発せられる覇気、とでも言いましょうか……恐ろしい......」
誰も否定しない。
戦場を幾度も潜り抜けてきた将校たちですら、先ほどまでの僅かな時間で得体の知れない圧迫感を覚えていた。
「あの瞳には何も映ってはいない。」
司令官は窓の外へ目を向けた。
滑走路の向こうでは、漆黒のF-15Λが朝日に照らされながら静かに佇んでいる。
「我々なぞ眼中にないのだろう。」
「……ええ。」
副官もその黒い機体を見つめる。
「まるで戦うためだけに存在しているようでした。」
沈黙が流れる。
やがて年長の参謀が静かに口を開いた。
「戦場に立った彼らを思い出しますね……。」
「あぁ。」
司令官は短く答えた。
かつて帝国を幾度となく救った伝説の撃墜王たち。
彼らもまた、人ではなく空そのものになってしまったような目をしていた。
「あの青年が……我が軍の希望か。」
期待よりも、不安の方が大きかった。
「あれほどの力を持つ者を、我らに制御できるのか……。」
誰も答えられない。
司令室には重苦しい沈黙だけが満ちていた。
やがて司令官は静かに目を閉じ、小さく呟く。
「……今は敵じゃなかったことに感謝しなければならんな。」
その言葉に、誰も異論を挟む者はいなかった。
窓の外では、黒い翼が朝日に照らされながら、静かに次の出撃を待っていた。




