アレンの続き②
「……あの日から」
アレンは空を見上げた。
けれど彼の目は、今見えている空ではなく、もっと遠い過去を見ていた。
風が吹く。
墓地の旗が揺れる。
その音を聞きながら、アレンはゆっくり口を開いた。
――あの日から。
ヴェルテクス連邦軍は島を占領した。
帝国軍は海の向こうから奪われた島々を取り戻そうとしていた。
空母機動艦隊、上陸部隊、爆撃機、艦砲射撃。
海を挟んだ各地で激戦が続いていた。
毎日のように誰かが死に、毎日のように空が燃えた。
けれど、私たちの町は、本土から遠く離れた海の上にあった。
補給線の果て、戦場の地図では、小さな点でしかない場所。
その小さな町は、深い孤独の中へ取り残されていった。
戦争は、あまりにも早かった。
気づけば始まっていて、気づけば、全部変わっていた。
東から来た軍隊。
灰色の軍服、見慣れない銃、聞き慣れない言葉、いつの間にか、港には連邦の軍艦が停泊していた。
そして役場には連邦旗が掲げられ、街角には武装した兵士が立っていた。
学校で習っていた言葉、歴史、歌。
その全てが消えた。
教科書は焼かれ先生もいなくなった。
教室も閉鎖された。
昨日まで普通だった景色が、まるで別の国みたいになっていた。
呑気だった町の巡査は姿を消した。
代わりに現れたのは、黒い外套を着た異国の憲兵たちだった。
石畳の角、市場の入口、港の検問所の至る所に立っていた。
人々は最初、抵抗しようとしていた。
屋根へパラボラアンテナを立て、本土の放送を受信しようとしていた。
「帝国軍は反攻を始めた」
「艦隊が近海へ来ている」
「もうすぐ解放される」
そんな噂が毎晩のように囁かれていた。
だが、ある日を境に、何も映らなくなった。
画面に映るのは雑音だけの真っ黒な画面。
誰かが言った。
――衛星が破壊されたらしい。
通信網が落ちた、軍事回線以外、全て遮断されネットワークは消えた、そして物流も止まりガソリンが無くなった。そうすれば発電所が止まり車が消え、街は急速に古びていった。
鉱石ストーブ、荷馬車、手押し車。
まるで時代そのものが後退していくみたいだった。
人々の顔から笑顔が消える。
街に残ったのは食料配給の列に闇市、占領軍向けの酒場。
誰も未来を口にしなくなった。
けれど、それでも私はそんなことにも構わず、毎日空を見上げていた。
瓦礫の上から、港から、丘の上からただ、空を見ていた。
戦闘機を探していた、飛行機雲を、赤黒い機影を。
そして、あの八芒星、尾翼に刻まれた、あの星を探し続けていた。
朝も、昼も、夕方も。
爆撃機が飛ぶ日も、雨の日も、ただ、空を見上げていた。
復讐、その言葉を、当時の私はまだ知らなかったかもしれない。
けれど胸の奥には、黒い何かが燃えていた。
父を奪った空、母を焼いた翼、妹を灰にした機体。
私は忘れなかった、忘れることなんてできなかった。
だから探していた。
空のどこかにいる、あの悪魔を。
――あの『八芒星』を、見つけるために。
そのころ私は、町の端に住む叔父の家へ身を寄せていた。
港から少し離れた坂道の上にある古びた石造りの家で潮風で壁は白く傷み、窓枠は錆びていた。
叔父は元々タクシー運転手だった。
陽気で、口が悪くて、酒好きで、戦争が始まる前は、夜になると港の酒場で酔客を拾い、朝方まで町を走っていた。
だが、ガソリンが尽きた。
配給は軍用優先で民間へ回る燃料など、もうどこにも無かった。
街から車は消え道路には荷馬車と自転車だけが残る。
叔父のタクシーは家の裏で埃を被り続けていた。
最初のうち、叔父は毎日車を磨いていた。
「そのうちまた走れる」
そう言いながら。
だが、日が経つごとに車を磨く回数は減っていった。
代わりに、酒瓶が増えた。
いつしか叔父は、ハンドルを握る代わりに、毎日グラスを握るようになった。
昼間から酒を飲み、ラジオの雑音に耳を澄まし、占領軍への悪態を吐く、そんな日々だった。
私は近所の酒場でギターを弾いた。
それだけが、私にできることだった。
幼い頃、父が教えてくれたコード、母が好きだった古い港町の歌、妹が口ずさんでいた流行歌。
それらを夜ごと弾き続けた。
酒場には占領軍の兵士たちが来ていた。
連邦軍の水兵、憲兵、補給部隊の兵士。
彼らは酔いながら歌い、騒ぎ、時には私の演奏に口笛を吹いた。
意地の悪い兵士もいた。
わざと足元へ硬貨を投げる者、帝国語を真似して笑う者、「もっと明るい曲を弾け」と怒鳴る者。
私は黙って演奏した。
歯を食いしばりながら床へ転がるチップを拾った。
それが叔父の家計を支えていたからだ。
叔父はいつも酒臭い息で言った。
「敵に媚びる酒場の親父め」
吐き捨てるように、酒場の主人を嫌っていた。
「占領軍相手にヘラヘラ笑いやがって」
「魂まで売った連中だ」
そう何度も言っていた。
だが、私が持ち帰る紙幣を、叔父が拒んだことは一度も無かった。
受け取る時だけは黙っていた。
その沈黙が、私は嫌だった。
酒場、そこは妙な場所だった。
占領された町なのに、戦争中なのに、夜になると、そこだけは別世界みたいだった。
煙草の煙、酒瓶の音、笑い声、古い蓄音機の音楽。
兵士たちは酔い、歌い、一瞬だけ戦争を忘れようとしていた。
そして私は――
実のところそこへ通う理由は、金だけではなかった。
酒場の娘
ローザ・ミード。
彼女に、私は心を奪われていた。
彼女は私より少し年上だった。
栗色の髪、琥珀色の瞳。
忙しく店の中を歩き回りながら、それでも誰かが困っていれば必ず声を掛ける人だった。
彼女が笑うたび、私は、失った“日常”を思い出した。
戦争が始まる前の世界、母の笑顔、夕暮れの食卓、妹の笑い声。
ローザの笑顔には、それに似た温かさがあった。
だから私は、あの酒場へ通い続けていたのかもしれない。
ある夜。
演奏を終えたあとだった。
私は裏口近くでギターケースを閉じていた。
外では雨が降っていた。
港の霧笛が遠くで鳴っている。
その時。
「アレン」
ローザの声がした。
彼女はワイン瓶を一本抱えて私の前に立っていた。
「これ持ってって、おじさんにあげな」
そう言って、私へ差し出した。
赤ワインだった。ラベルは擦れて読めない。
配給制になってから、酒は貴重品だった。
アレンは目を瞬かせる。
「……いいの?」
「いいのよ」
ローザの笑う笑顔は少し疲れた顔だった。
「今日は兵隊さんたち機嫌良かったから」
冗談っぽく言うがその目は笑っていなかった。
アレンは瓶を受け取った。
ローザはふと視線を窓の外へ向ける。
雨の向こうの暗い港。
そして、低い声で呟いた。
「……早く終わるといいね」
何がとは言わなかった。
戦争、占領、飢えに対する全部だった。
アレンは答えられなかった。
ただ、ローザの横顔を見ていた。
酒場の灯りに照らされたその横顔は、壊れた世界の中で、まだ消えていない灯火みたいに見えた。
開戦から一ヶ月が過ぎ季節は冬へ沈み始めていた。
海風は冷たく、夜になると港町は白い霧に包まれる。
その夜も、私は酒場の隅でギターを抱えていた。
暖炉の火は弱く、客たちは肩を寄せ合うように酒を飲んでいる。
占領軍の兵士たちは酔って騒いでいたが、その声にもどこか疲れが滲んでいた。
戦争は続いていた、海の向こうでは、毎日のように艦砲射撃の雷鳴が鳴り響く、空では戦闘機が飛び交い、時折、黒煙を引いた機体が水平線の向こうへ落ちていった。
そんなある寒い夜だった。
突然、酒場の扉が激しく開いた。
凍った風が雪のような霧を巻き込み、店内へ流れ込む。
次の瞬間、陽気な笑い声が雪崩れ込んできた。
「飲ませろ!」
「今日は死ぬほど寒いぞ!」
「おい! 酒だ酒!」
軍靴の音、椅子を引く音、乱暴なくらい生き生きとした声。
それまで酒場を占領していた兵士たちは、押し出されるように端へ寄った。
空気が、一変した、ただの占領兵ではない、誰もが直感した。
彼らは空の兵士だった。
袖に縫い付けられたワッペン、銀糸の翼、飛行服の擦れた革、首元に残る酸素マスクの跡。
そして、どこか死を恐れていない者だけが持つ、独特の熱。
それらが彼らが誇り高き航空兵であることを物語っていた
胸の奥がざわめいた、脳裏に蘇る。
炎、黒煙、崩れ落ちる家、尾翼に刻まれた八芒星。
私は無意識に、ギターを握る指へ力を込めていた。
その時、一人の大柄な男が、店の中央へ立った。
赤ら顔に豪快な声、肩幅の広い飛行服姿。
「では、本日の戦果を報告する!」
酒場が沸く。
「おおっ!」
「始まったぞ!」
男は紙を広げ、大袈裟に咳払いした。
奥で誰かが拳を突き上げる。
歓声、笑い声。
名前が読み上げられるたび、酒が配られ、肩を叩き合い、怒鳴るような笑い声が響く。
戦果、撃墜数、それは彼らにとって勲章だった、生き延びた証だった。
酒場全体が熱気に包まれていく。
だがその喧騒の中で、私は奥の席に座る二人へ視線を奪われていた。
一人は、年老いた男だった。
銀髪、いや、よく見ると灰色が混じっている。
長い年月を飛び続けた者だけが持つ、静かな威圧感。
その指には、古びたハーモニカ。
鋭い瞳には同時に、不思議な穏やかさを湛えていた。
もう一人、隣に座る若い将校。
白いシャツの襟元は乱れなく整えられ、姿勢も崩れていない。
整った顔立ち、静かな目、冷たいというより、凪いだ湖のような印象だった。
周囲が騒いでいても、彼だけは別の空気を纏っている。
だが、その瞳の奥には、鋼のような鋭さが潜んでいた。
男が再び声を張る。
「そして――我らが隊長と副長の本日の戦果!」
酒場の熱気が一段上がり皆が二人を見る。
「本日二十機を撃墜! 累計――千九百五十六機!!」
どよめき、そしておおきな歓声に誰かが口笛を吹いた。
「化け物だ!」
「まだ増えるのかよ!」
「大佐! 一杯やってください!」
その中で、年老いた男が、ゆっくり立ち上がった。
背筋は真っ直ぐだった。
まるで長年の空戦が、その身体そのものを一本の刃へ鍛え上げたみたいに。
その瞬間、店の空気が変わり誰もが自然と口を閉ざした。
威厳、それが最も近い言葉だった。
私は彼の袖を見る。
そこに私がずっと探していたものが付いていた。
八芒星に銀鳩、白銀の星。
息が止まりそうになった。
胸の奥で、あの日の炎が蘇る。
赤黒い機体、降り注ぐ爆弾。
――こいつだ。
頭の奥で誰かが叫ぶ。
家族を奪った八芒星、その中心にいた男。
年老いた男――アレクセイ・イグナトフは、静かに周囲を見回した。
そして低く、重々しい声で言った。
「今日はなかなかの戦果だった……」
その声には、大声ではないが妙な説得力があった。
戦場を幾つも越えた者だけが持つ重みが、言葉そのものへ染み込んでいる。
「お前たちも、腕を磨いておくといい」
笑いが起きる。
「隊長みたいにはなれませんよ!」
「まず二十機とか無理だ!」
アレクセイは小さく笑った。
隣の若い将校――ヴェーダ・リンクスは、煙草の煙を静かに吐きながら、その様子を穏やかに見守っていた。
どこか兄が弟たちを見るような目だった。
やがて、酒場の喧騒が少し落ち着いた頃。
アレクセイはハーモニカを口へ運んだ。
静かな旋律、柔らかい音。
酒場の空気が変わった、誰も騒がずにただ、その音に耳を傾けていた。
波のような旋律だった。
冬の海みたいに静かで、どこか懐かしい。
そして私は、凍りついてた。
その曲を知っていた。
父が好きだった歌。
父が仕事を終えた夜に窓を開け、港の風を入れながら、よく口ずさんでいた曲。
母が笑って、妹が変な踊りをして。
あの小さな家に満ちていた、平和の音。
帝国の民なら誰でも知っている古い歌。
それを、家族を奪った男が吹いていた。
胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
怒り、憎しみ、混乱、だが同時に、その旋律は、あまりにも温かかった。
戦場の怪物が奏でているとは思えないほど。
アレクセイは、ふとこちらを見た。
蒼い瞳が、静かに私を捉えそして薄く笑った。
「少年――」
低い穏やかな響き持った声。
「よければ、共に弾かないか?」
言葉が胸へ突き刺さった。
私は動けなかった。
目の前にいるのは仇だ、そう直感している。
こいつが、こいつらが、家族を殺した。
アレクセイの奏でる音は、あの日々を思い出させる。
父の笑顔を、母の温もりを、妹の笑い声を。
私は、自分でも分からないままギターを手に取っていた。
指が震え呼吸が浅く喉が乾く。
それでも音を合わせた。
ぎこちなく、震えながら。
だが、旋律は自然と重なった。
ハーモニカとギターの奏でる音色が静かな波みたいに、音が酒場へ広がっていく。
誰も騒がなかった。
皆、静かに聴いていた。
怒り、憎しみ。
胸の中では、それらが渦巻いている。
なのに、奏でる旋律だけが、静かに私を包み込む。
まるで、焼け落ちた世界の中で、まだ消えていない何かを抱き締めるみたいに。
私はアレクセイの瞳を見た。
深い蒼。
長い戦場の果てに、それでも空を愛し続けた者の目。
そして理解してしまう。
私はついに見つけたのだ、ずっと追い続けていた八芒星を、家族を奪った者たちを。
なのに今。
その仇と共に、父が愛した祖国の曲を奏でている。
涙は出なかった。
怒りも、恐怖もすべてが旋律の中へ沈んでいった。
ただ、深い静寂と、言葉にできない戦慄だけが、胸に残った。
その夜の旋律は、焼けた空の匂いと共に、永遠に、私の中へ刻み込まれた。
やがて客たちが帰ったあと、酒場には静かな余韻だけが残っていた。
テーブルの上には空いたグラス、吸い殻、溶けかけた氷、暖炉の火は小さくなり、窓の外では冬の風が鳴っている。
アレンは黙ったまま、テーブルの片付けを手伝っていた。
皿を重ねる手が、微かに震えている。
頭の中では、さっきの旋律がまだ鳴っていた。
ハーモニカの音、父の好きだった歌。
そして、八芒星。
ローザはグラスを布で拭きながら、ちらりとアレンを見る。
その顔色の悪さに、眉を寄せた。
「アレン、どうしたの? 顔色悪いよ、大丈夫?」
アレンは俯いたまま、グラスを厨房に運んでいた。
「今日はずっと変だったわよ」
「演奏の途中から、顔真っ青だった」
暖炉がぱちりと鳴る。
アレンはしばらく何も言わなかった。
だがやがて喉の奥から絞り出すように、小さく呟いた。
「……ようやく見つけたんだ」
「アレン?」
アレンは顔を上げたその目は、熱に浮かされたようだった。
「ようやく見つけたんだよ、ローザ」
声が震えていた。
それは怒りによるものなのか恐怖によるものなのか。
自分でも分からない感情が滲んでいる。
「八芒星を」
ローザの手が止まる。
「家族の仇を!」
酒場の空気が凍った。
暖炉の火だけが揺れている。
ローザは何も言わなかった。
いや、言えなかった。
全部、理解してしまったからだ。
今日ここへ来た飛行隊、八芒星の部隊章、アレンの異常な様子、それら全てが一本に繋がる。
ローザは静かに息を呑んだ。
「……アレン」
その声は、ひどく弱かった。
アレンは拳を握り締め爪が掌へ食い込むほど強く握りしめていた。
「ずっと探してた」
低い声。
「毎日空を見てた」
「絶対忘れないって決めてた」
「なのに……」
喉の奥で感情が絡まっていた。
「なんでなんだよ……」
アレンは苦しそうに顔を歪めた。
「なんであいつら、あんな風に笑えるんだ」
「なんで父さんの好きだった曲を吹けるんだ……!」
怒鳴るわけでもないが、その声は壊れそうだった。
ローザはゆっくり近づきそして小さく問いかけた。
「……見つけたから、何をする気なの?」
アレンは答えない。
「お願いだから、危ないことしないで」
必死だった。
「相手は軍人なんだよ」
「しかも、あの人たち普通の兵隊じゃない」
「アレンがどうにかできる相手じゃ――」
「分かってる!」
アレンが初めて声を荒げた
ローザは肩を震わせる。
アレンは息を切らしながら俯いた。
「……分かってるよ」
震える声だった。
「でも……!」
言葉が続かない。
家族の焼けた姿、妹の手、焼け焦げたの家の記憶が、胸の奥で叫んでいた。
殺せ、と。
忘れるな、と。
ローザは苦しそうにアレンを見る。
「アレン……」
アレンはもう何も言わなかった。
黙って父の形見のギターを手に取りケースを開き、静かにギターを収めた。
金具の閉まる音が、やけに大きく響いた。
ローザは不安に駆られた。
嫌な予感がした。
アレンはコートを掴みそのまま出口へ向かった。
「アレン!」
ローザが呼び止めようとした。
だが、アレンは振り返らずに扉へ手を掛ける。
「待ってよ、アレン!」
冬の風が中に吹き込んだがアレンは立ち止まらない。
ただ低く、押し殺した声で言った。
「……ごめん」
冷たい夜気、霧、遠くで鳴る軍港の汽笛。
アレンの背中は、その闇へ溶けていく。
ローザは咄嗟に店を飛び出した。
「アレン!!」
冬の港町は暗かった。
霧の向こうへ消えた少年の姿は、もうどこにも見えなかった。




