転属命令②
皇歴記一〇四八二年十月二日
彼の瞳と同じ深いダークブルーの空は、まだ夜明け前の静けさを残していた。
東の空だけがわずかに白み始め、水平線には細い光の帯が伸びている。
漆黒のF-15Λは、その淡い光さえ飲み込むように静かに飛び続けていた。
前線基地への移動任務。
そのため機体は実戦装備を施され、AMRAAM、AAM-6、増槽を搭載した完全武装状態で飛行している。
周囲には大型輸送機の編隊。
何十機もの輸送機が一定間隔を保ちながら隊列を組み、前線基地へ兵員や補給物資を運んでいた。
『レイヴン1、離陸を許可する。中尉、ご武運を』
離陸からしばらくして輸送機隊と合流する。
『こちら輸送機編隊第758隊。レイヴン1、貴機を確認した』
「こちらレイヴン1。これより護衛任務を開始する」
『感謝する』
通信はそれだけだった。
F-15Λは編隊のやや前方、高度を変えながら周囲を警戒する。
レーダーには味方識別信号が幾重にも映り、海上には帝国海軍の艦隊も確認できた。
飛行開始から約二時間。
編隊は前線空域へと近づいていた。
眼下には果てしない大海。
所々に輸送船団や護衛艦隊の姿が小さく見える。
水平線の向こうでは、黒煙が幾筋も空へ立ち上っていた。
戦場は確実に近づいている。
その時だった。
無線が鋭く割り込む。
『こちらヴァイパー隊! 敵機と交戦中! 応援を求む!』
ノイズ混じりの声だった。
背後では機関砲の発射音まで入り込んでいる。
『敵戦闘機多数! 押し切られる!』
息が乱れ、焦燥が隠せない。
『二番機被弾! 右翼損傷!』
『援護を! 援護を頼む!』
操縦桿を握るカイの表情は変わらない。
HUDには通信発信源の位置が表示される。
距離、およそ百二十キロ。
輸送機隊から離れれば数分で到達できる。
しかし、輸送機隊を守る任務もある。
一瞬の沈黙。
その直後、輸送機隊長から通信が入った。
『レイヴン1』
『こちらは現時点で敵影なし。ヴァイパー隊の救援へ向かってくれ』
『我々は進路を維持する』
「了解」
F-15Λの推力計が一気に跳ね上がる。
両エンジンが咆哮を上げ、アフターバーナーが蒼白い炎を噴き出した。
漆黒の機体は輸送機隊から滑るように離脱する。
圧倒的な加速で海面が一瞬で後方へ流れ去る。
HUDにはヴァイパー隊の交戦空域が刻々と近づいていた。
無線の向こうでは、なお激しい戦闘が続いている。
『くっ……!』
『左だ! 左から来る!』
『ミサイル! ブレイク!』
悲鳴にも似た通信が次々と飛び交う。
その全てを聞きながら、カイは黙って機首を交戦空域へ向けた。
黒い翼は、音速を超える勢いで戦場へと駆けていく。
交戦空域へ到達したF-15ΛのHUDに、複数の敵機が赤い識別表示となって映し出された。
味方機を追い回す敵編隊。
その背後へ、漆黒の機体は太陽を背負うように高速で滑り込む。
敵はまだ気付いていない。
カイは照準を先頭機へ合わせた。
照準円が重なる次の瞬間。
機首下部の機関砲が閃光を放った。
砲口から吐き出された砲弾は一直線に敵機へ突き刺さる。
『っな……』
敵パイロットが驚愕の声を漏らした、その一瞬後には機体中央部が激しく弾け飛んだ。
燃料へ引火した炎が翼を飲み込み、機体は空中で四散する。
破片が尾を引きながら大海へ降り注いだ。
その一撃だけで戦場の空気が変わる。
『黒い戦闘機が来たぞ……!』
『黒翼だ……悪魔が来やがった!』
『各機散開! あれから距離を取れ!』
敵編隊は一斉に隊形を崩し、回避機動へ移る。
先ほどまで優勢だったはずの編隊が、一機の出現だけで混乱に陥っていた。
一方、帝国側の無線には歓声が広がる。
『援軍が間に合ったか……!』
『援軍だ! 助けが来たんだ!』
『あの黒い機体……!』
『味方だったのか!』
『助かった……!』
カイは歓声にも悲鳴にも反応しない。
HUDには次の目標が表示される。
操縦桿を静かに倒し、F-15Λは黒い軌跡を描いて敵編隊の中心へ飛び込んだ。
悪魔と恐れられた黒い翼は、再び戦場の空を切り裂いた。
そこから先は、戦闘ではなかった。
一方的な蹂躙だった。
黒い翼は敵編隊の中を縫うように駆け抜ける。
旋回、加速、上昇、降下。
あらゆる機動が無駄なく繋がり、一つの流れとなって空を支配していた。
敵が照準を合わせようとした瞬間には、その黒い機体はもう別の空域へ移っている。
ミサイルは虚空を裂き、機関砲弾は何もない空を撃ち抜くだけだった。
F-15Λは敵の背後へ滑り込み、短い射撃で一機を撃墜する。
爆炎が広がるより早く次の目標へ向きを変え、さらにもう一機を捉えた。
『た、助け……!』
恐怖に震える通信が流れる。
しかし、その声に応える者はいない。
二発のミサイルが放たれ、白い軌跡を描いて敵機へ迫る。
回避機動も間に合わず、二機はほぼ同時に空中で爆散した。
炎と破片が朝焼けの空へ散っていく。
『や、やめろ……!』
『こっちへ来るなぁぁぁぁぁ……!』
悲鳴が無線を埋め尽くす。
編隊は完全に統制を失っていた。
逃げようとする者、味方機を盾にしようとする者、高度を落として海面すれすれを飛ぶ者。
誰もが生き延びることしか考えていなかった。
だが、その全てを黒い翼は見逃さない。
一機、また一機。
黒煙を引きながら海へ墜ちていく。
爆発が連続し、朝の空を赤く染めた。
帝国機のパイロットたちは、ただその光景を見ていた。
援護する間もない、加勢する必要もない。
目の前では、たった一機が敵編隊を壊滅させていた。
『……すごい』
誰かが思わず漏らす。
『これが……黒翼』
別の誰かが息を呑む。
最後の一機が必死に機首を返し、戦場から離脱しようとする。
しかし、その背後にはすでに黒い影が迫っていた。
短い機関砲射撃。
数発の砲弾が尾部へ命中し、機体は炎を噴きながら空中で分解する。
爆炎がゆっくりと広がり、燃え尽きた残骸が海へ降り注いだ。
静寂が戻る。
先ほどまで十機ほどいた敵戦闘機は、一機残らず撃墜されていた。
黒いF-15Λだけが、何事もなかったかのように高度を保ち、静かに青み始めた空を飛び続けていた。
海面には撃墜された機体の残骸が浮かび、黒煙が幾筋も空へ立ち上っている。
F-15Λは速度を落とし、周囲の警戒を続けながらヴァイパー隊の上空を旋回した。
『こちらヴァイパー1。援軍、感謝する』
疲労の滲んだ声だった。
先ほどまでの緊迫感がようやく薄れ始めている。
カイはHUDに表示された味方機の状態を確認する。
一機は右翼に被弾。
もう一機はエンジン出力が低下し、飛行姿勢も不安定だった。
「こちらレイヴン1。損傷している機体があると見える」
短い間を置いて続ける。
「我々はネリバダス基地へ向かっている。そこまでで良ければ護送しよう」
通信の向こうで小さく息を吐く音が聞こえた。
『……すまない。その言葉に甘えさせてもらおう』
カイは機首をゆっくりと反転させる。
「レイヴン1、針路変更。輸送機編隊へ合流する」
F-15Λが先導し、その後方に損傷したヴァイパー隊が続く。
速度は負傷機に合わせて抑えられた。
やがて前方のレーダーに多数の味方識別信号が映る。
大型輸送機編隊だった。
重々しい機体が規則正しく隊列を維持し、その周囲を護衛戦闘機が飛行している。
『こちら輸送機編隊第758隊。レイヴン1、レーダーで確認した』
「こちらレイヴン1。帰投するヴァイパー隊を伴い合流する」
『了解。編隊右側に進路を確保する』
輸送機隊は隊形をわずかに広げ、損傷機が入りやすいよう間隔を調整した。
ヴァイパー隊の機体が慎重に編隊へ加わる。
『ヴァイパー1より各機へ。これより輸送機隊と合同でネリバダス基地へ帰投する』
『了解』
『了解』
短い返答が続く。
隊列が整うと、再び静かな巡航飛行が始まった。
その先頭には、漆黒のF-15Λが変わらぬ姿勢で飛び続けていた。
黒い翼は広大な海の上を静かに切り裂きながら、前線基地ネリバダスへと針路を向けていた。
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夜明け前の空は、まだ群青色を保っていた。
東の地平線だけがわずかに白み始め、太陽はまだ姿を見せていない。
長時間の飛行を終えた輸送機編隊は、隊形を維持したままネリバダス基地へ接近していた。
眼下には帝国東部方面軍の一大航空拠点が広がる。
滑走路には誘導灯が一直線に灯り、格納庫や燃料施設、防空陣地が薄明かりの中に浮かび上がっていた。
前線基地らしく、すでに多くの人員が慌ただしく動いている。
燃料車が滑走路脇を走り、整備兵たちは到着する機体を迎える準備を進めていた。
『こちらネリバダス基地管制。輸送機編隊第758隊、着陸を許可する』
『了解。編隊、順次着陸する』
大型輸送機が一機、また一機と降下を開始する。
重い機体が滑走路へ接地すると、タイヤスモークを上げながら減速し、誘導路へ入っていく。
その上空を、F-15Λが旋回していた。
『レイヴン1、着陸を許可する』
カイはゆっくりと降下を開始する。
黒いF-15Λは安定した姿勢のまま滑走路へ進入し、静かに接地した。
車輪がアスファルトを捉え、機体は滑らかに速度を落としていく。
やがて誘導路へ入り、格納庫地区へ向かった。
その後方では、損傷したヴァイパー隊の機体も慎重に着陸してくる。
右翼に穴の開いた機体、機首に弾痕を残した機体。
煙を引きながらも、全機が無事に帰還を果たした。
誘導員がライトを振り、F-15Λを所定のスポットへ導く。
エンジンが停止すると、轟音に包まれていた空間は急速に静けさを取り戻した。
キャノピーがゆっくりと開く。
冷たい朝の空気がコックピットへ流れ込み、カイは無言のまま立ち上がった。
朝日はまだ昇っていない。
だが、新たな前線基地での任務は、すでに始まろうとしていた。




