一つの決断
ノルヴァイン帝国・帝国軍参謀本部。
重厚な会議室には軍首脳たちが集結し、巨大な作戦地図を囲んでいた。
赤と青の駒が幾重にも並び、戦線の膠着を無言で物語っている。
重苦しい沈黙を破ったのは、参謀本部長だった。
「……あの黒いのを正式に配備し、前線へ出させる。」
その一言で室内の空気が変わり視線が一斉に参謀本部長へ集まった。
誰も「あの黒いの」が何なのか知らない。
分かっているのは、得体の知れない黒い戦闘機が存在するという事実だけだった。
「あの得体の知れないヤツを前線に配備するんですか。」
「そうだ。」
「しかし、それでは……。」
参謀本部長は静かに視線を向けた。
「しかし、なんだ?」
「このままでは何万人、何十万人という兵が死ぬ。」
低く、重い声が会議室へ響く。
「一人で戦局を変えられる可能性があるなら、使わぬ理由はないだろう。」
誰も反論できなかった。
情報局副長だけが静かに口を開く。
「私としてはその案に同意します。」
無表情を維持する彼の胸中では別の思惑が静かに渦巻いていた。
(この展開を使わない手はない。)
前線へ投入されれば、実戦環境での飛行データ、戦闘データ、生体反応、機体負荷、兵装運用――あらゆる情報をこれまでとは比較にならないほど収集できる。
研究は一気に進む。
それこそが情報局の望む未来だった。
副長は周囲をゆっくりと見回し、穏やかな口調で続ける。
「他の皆さんはどうですか。」
「たった一人で、陛下の子どもたちを守ることができるのですよ。」
その一言が会議室に重く落ちる。
"陛下の子どもたち"。
それは帝国国民すべてを指す言葉だった。
皇帝への忠誠を重んじる将官たちにとって、それ以上に重い言葉はない。
室内は静まり返る。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて一人の将官が静かに息を吐く。
「……ええ、もちろん賛成ですとも。」
別の将官も頷いた。
「異論はありません。」
「一人でも多くの将兵を救えるのであれば、その選択を支持します。」
「戦局を打開できる可能性があるなら、投入すべきでしょう。」
賛同の声が次々と上がっていく。
反対する者は、もはや誰一人いなかった。
情報局副長は表情を変えないまま、その様子を見渡す。
(計画は順調だ。)
誰も気付かない。
彼らが賛成した理由と、自分が賛成した理由が、まったく異なることに。
会議室では、前線投入の準備が静かに決定されようとしていた。
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中央軍司令本部の地下駐車場。
照明の少ないコンクリートの空間に、一台の黒塗りの公用車が静かに停まっていた。
後部座席へ乗り込んだのは、帝国情報局副長カリグラ・ツェペシュ。
扉が閉まると同時に車は静かに走り出す。
その車内には、すでに一人の男が座っていた。
後部座席へ乗り込んだ情報局副長、カリグラ・ツェペシュは革張りのシートへ深く腰掛けた。
その隣には、すでに一人の男が待っていた。
ヴィム・アドルフ。
帝国情報局技術開発部門を統括する少佐であり、数々の極秘計画に携わる男だった。
黒い手袋をはめたまま、窓の外を眺めていたヴィムは、副長の姿を見ると静かに向き直る。
カリグラはネクタイを緩め、小さく息を吐いた。
「少佐、我々の計画は少し早まりそうだ……」
その言葉に、ヴィムの口角がゆっくりと吊り上がる。
「本当ですか。」
「ああ。」
「先の会議でΛを実戦投入することが決まった。」
ヴィムは満足そうに頷いた。
「それでは実戦という最高の環境で、より多くのデータが手に入るということですね。」
「その通りだ。」
車窓には夕暮れの帝都が流れていく。
カリグラは静かに続けた。
「あれは今どうなっている。」
ヴィムは手元の書類へ目を落とす。
「"同調率"は向上していますが、まだ実戦は無理かと。」
「そうか。」
「彼らには、しっかりと仕事をしてもらいたいな。」
「えぇ。」
短いやり取りだった。
だが、その言葉の裏には数え切れない実験と計画が隠されていた。
しばらく沈黙が流れた後、カリグラが再び口を開く。
「少佐、参謀本部の将校らの監視を厳しくしておけ。」
「どうしてです、何か問題が?」
「余計なものを知ろうとしている者がいる。」
車内の空気が冷えた。
「問題があれば消せ。」
ヴィムの顔から表情が消えた。
「了解しました。」
黒塗りの車は夕闇の帝都を滑るように走っていく。
帝国情報局。
表向きは国家の情報収集と防諜を担う組織。
しかし、その実態は帝国という国家の影そのものだった。
諜報、防諜、潜入、工作、暗殺。
そして、表へ出ることのない数多の極秘計画。
国家の利益のためならば、非人道的な人体実験も、拷問も、秘密裏の粛清もためらわない。
そのため、情報局には常に暗い噂が付きまとっていた。
恐れられ、忌み嫌われ、それでも誰も逆らうことのできない組織。
彼らが忠誠を誓う相手は、皇帝。
そして、ノルヴァイン帝国という国家そのものだった。
国家を蝕む者は、誰であろうと容赦しない。
それが貴族であろうと将軍であろうと、あるいは皇帝であろうと例外ではない。
帝国の歴史には暴君と呼ばれる皇帝がほとんど存在しない。
それは偶然ではなかった。
国家を腐らせる兆しを見せた者は、その地位や血筋に関係なく、歴史の表舞台から静かに消されてきたのである。




