戦闘開始
〜お願い〜
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カイが放った最初の一撃は、静かだった戦場へ決定的な火を点けた。
先頭を飛んでいた敵機が爆散した瞬間、それまで張り詰めていた均衡は完全に崩れ去る。
帝国軍各隊が一斉に加速する。
それに呼応するように、ヴェルテクス連邦軍も編隊を解き放った。
数百機にも及ぶ戦闘機が互いへ向かって雪崩れ込み、夜明けの空は一瞬で巨大な戦場へと変貌する。
編隊という秩序は消え失せ、それぞれの空で無数の戦いが同時に始まった。
敵味方の戦闘機が交差し、すれ違いざまに機首を返す。
急旋回に急上昇、急降下。
高G旋回によって白いベイパーが翼を包み込み、飛行機雲が複雑に絡み合って空一面へ広がっていく。
『後ろだ!』
『ブレイク!』
『ミサイル接近!』
『フレア散布!』
警報音と怒号が無線を埋め尽くした。
一機が敵の背後へ食らいつき、照準を合わせる引き金を引けば機関砲が火を吹き、曳光弾が一直線に空を切り裂いた。
数発が敵機へ命中し、右翼から破片が飛び散る。
損傷した機体は黒煙を引きながら降下を始め、その直後に別の帝国機が放ったミサイルが命中した。
爆炎が朝焼けの空へ咲き、機体は四散する。
しかし、その帝国機にも新たな敵が迫っていた。
連邦軍戦闘機が背後へ回り込み、機関砲を浴びせる。
尾翼が砕け、燃料が霧のように噴き出し制御を失った帝国機は螺旋を描きながら海へ落下していった。
撃墜された多くの機体は炎をまといながら錐揉み状態で落下し、その後を追うように黒煙が長く尾を引いた。
追う者と追われる者。
勝者と敗者は一瞬ごとに入れ替わり、空には終わりの見えない格闘戦が広がっていた。
戦場全域で小規模な空戦が同時多発的に発生し、それぞれが独立した死闘を繰り広げている。
高度一万メートル付近では高速戦闘が続き、中高度では複数機による旋回戦が展開され、さらに低空では海面すれすれを駆け抜ける戦闘機同士が命懸けの追撃を繰り広げる。
蒼穹は無数の飛行機雲と黒煙で塗り潰されていく。
一方、その眼下に広がる海もまた、激しい戦場へと変貌していた。
帝国軍上陸船団へ接近する連邦艦隊。
それを阻止する帝国海軍護衛部隊。
双方の巡洋艦と駆逐艦が射撃管制レーダーで互いを捕捉し、ほぼ同時に攻撃を開始する。
「対艦ミサイル発射!」
轟音とともに垂直発射装置の蓋が開き、何十発もの対艦ミサイルが白煙を噴き上げながら空へ飛び出した。
発射直後に進路を変えたミサイルは海面すれすれまで高度を下げ、波頭をかすめるように高速で目標へ向かう。
それに呼応するように、連邦艦隊からも無数の対艦ミサイルが一斉発射された。
海上には白い噴煙が幾筋も立ち上り、まるで巨大な森林が一瞬で生えたかのような光景となる。
「敵ミサイル接近!」
「迎撃開始!」
帝国艦隊の防空システムが瞬時に反応した。
迎撃ミサイルが連続して発射され、空へ向かって猛烈な速度で加速する。
上空では対艦ミサイルと迎撃ミサイルが次々に交錯し、閃光と爆発が連続して生まれる。
空中で破壊されたミサイルの破片が海へ降り注ぎ、水柱を幾本も立ち上らせた。
それでも迎撃を突破するものは存在する。
「右舷接近!」
「回避!」
命令が飛ぶより早く、一発の対艦ミサイルが帝国軍巡洋艦の艦首付近へ命中した。
猛烈な爆炎が立ち上がり、鋼鉄製の艦体が大きく揺れる。
破片が四方へ飛散し、煙が艦橋を覆い隠したがその巡洋艦もなお主砲の照準を外さない。
「主砲、撃ち方始め!」
三連装主砲が一斉に火を噴く。
轟音が海面を震わせ、巨大な砲弾が敵艦隊へ向けて飛翔する。
数秒後、連邦軍駆逐艦の周囲へ巨大な水柱が立ち上がる。
続く一発が艦体中央部へ命中し、鋼板を引き裂いて火炎を噴き上げた。
双方の艦艇は砲撃を止めない。
対艦ミサイル、艦砲射撃、近接防空火器、迎撃ミサイル、対空砲火。
あらゆる兵器が同時に火を吹き、海上は絶え間ない爆発と黒煙に包まれていく。
そんな混戦と化した空を、一筋の黒い翼が駆け抜ける。
F-15Λは幾重にも重なった戦闘空域を縫うように飛び、次々と戦場を横断していく。
味方編隊が押されれば、その空域へ、迎撃線が破られれば、その地点へ、敵機が輸送船団へ向かえば、その進路へ。
黒い機影は、まるで戦場全体を見渡しているかのように現れ、そして消えていった。
照準に入った敵機は火球となって空へ散る。
カイは振り返らない。
撃墜を確認するよりも先に、すでに次の敵を捉えていた。
『くそっ! 敵機が二機!』
『囲まれた!』
『誰か援護を!』
その通信が流れた瞬間だった。
黒い翼が雲間から急降下し猛烈な速度で敵編隊の背後へ回り込み機関砲が火を吹いた。
二十ミリ砲弾が一直線に敵戦闘機へ突き刺さる。
右翼、尾翼、エンジン。
すべてを撃ち砕き、敵機は空中分解した。
『レイヴン1、感謝する!』
味方機の声が響くがカイは返答しない。
機首を引き起こし、そのまま次の戦場へ加速する。
彼の頭の奥では、別の音が鳴り続けていた。
――助けて。
――死にたくない。
――まだ帰りたい。
――家族が待っている。
――お願いだ。
――誰か。
声ではない、言葉ですらない。
心の底から溢れ出る願いだけが、そのまま脳裏へ流れ込んでくるようだった。
一つではない、二つでもない。
何千、何万の無数の想いが押し寄せる。
恐怖、焦燥、絶望そして助けを求める祈り。
誰にも届かないはずの叫びだけが、彼の心へ触れてくる。
カイの表情は変わらないが、この感覚だけは消えなかった。
あの日大切なものをすべて失ったあの日から。
誰かが死を目前にした瞬間、誰かが本気で助けを求めた瞬間。
その想いだけが、不思議と胸の奥へ届くようになっていた。
理屈は分からない、理由も知らない、脳の異常なのか、精神が生み出した幻覚なのか、極限状態が引き起こす錯覚なのか、それとも、本当に誰かの願いなのか。
その答えはどこにもない。
ただ、その声は今日も止まらない。
HUDへ新たな敵影が映る。
味方機の背後を取り、ミサイル発射態勢へ入っていた。
カイは操縦桿を僅かに倒す。
黒いF-15Λが急激に機首を振り、敵機のさらに後方へ滑り込む。
敵パイロットは気付いていない。
照準が一致する。
ミサイルが白煙を引いて飛び出す。
『なっ!?』
敵機は慌ててフレアを放出したがしかし遅い。
一機が消えた。
残る一機が振り返る。
『後ろだ!』
『助けてくれ……!』
『後ろに黒いのがぁぁぁぁぁぁ!』
悲鳴にも似た通信が回線へ響き渡り敵機は必死に旋回する。
ありとあらゆる機動を繰り返す。
だが、そのすべてを黒い翼は静かに追い続ける。
逃げられない。
敵パイロットがふと振り返る。
キャノピー越しにほんの一瞬だけ。
二人の視線が交わった。
そこにあったのは憎しみではない、怒りでもない。
そこにあったのはただ、純粋な絶望だった。
生きたい、帰りたい、死にたくない。
その感情だけが、瞳いっぱいに浮かんでいた。
その目が、その一瞬が。
カイの脳裏へ焼き付く。
引き金はすでに引かれていた。
機関砲が火を吹き曳光弾が一直線に敵機を貫く。
キャノピーが砕け。
機体が裂け炎が噴き上がる。
敵機は制御を失い、燃えながら雲の下へ落ちていった。
だがカイの胸には、最後に見た瞳だけが残っていた。
守れなかった者、救えなかった者、そして、自ら撃ち落とした者。
そのすべてが等しく記憶に刻まれていく。
味方だから特別なのではない、敵だから忘れるのでもない。
消えていく命は、彼にとってすべて同じ重さだった。
それでも操縦桿を握る手は止まらない。
止まれば、今度は誰かが死ぬ、だから黒い翼は飛び続ける。
誰にも知られることなく、誰にも理解されることなく。
ただ、果てのない戦場を翔け続けていた。
下では帝国海軍の上陸船団はなおも砲煙の中を前進していた。
護衛艦隊が前方へ展開し、絶え間なく対空・対艦戦闘を続ける中、先頭を進む揚陸艦がゆっくりと速度を落とす。
巨大な船体が波を押し分けながら海岸へ接近していく。
艦内では赤い警告灯が点滅し、緊張に包まれた兵士たちが最後の装備確認を終えていた。
「まもなく上陸!」
「各員、準備!」
低く響く号令とともに、重厚な艦首扉が油圧音を響かせながらゆっくりと開き始める。
海風が艦内へ吹き込み、潮の匂いと火薬の臭いが入り混じる。
続いて巨大な揚陸ランプが降下し、砂浜へ重々しく接地した。
「上陸開始!」
その号令を合図に、兵士たちが一斉に駆け出した。
自動小銃を胸に抱えた歩兵が砂浜へ飛び降り、部隊ごとに散開しながら前進する。
その後方では歩兵戦闘車が履帯を軋ませながら艦内を走り抜け、海水を激しく巻き上げて浜辺へ乗り上げた。
装甲兵員輸送車も次々と続き、兵士を満載した車体が砂を蹴散らしながら前線へ向かっていく。
さらに別の海岸では、大型エアクッション揚陸艇が轟音を響かせながら浜辺へ突入した。
強烈な送風が砂煙を巻き上げ、視界を白く染めた。
艇首が開くと同時に、主力戦車がゆっくりと姿を現した。
何十トンもの鋼鉄の巨体が砂浜へ降り立つ。
履帯が砂を噛み締め、大地を震わせながら前進する。
砲塔が左右へ旋回し、砲手が照準器越しに内陸部を監視していた。
「戦車前進!」
「歩兵は左右へ展開!」
「突破口を開け!」
指揮官の怒号が飛ぶ。
戦車隊は歩兵を先導するように海岸線を突破し、内陸へ向けて進撃を開始した。
その後方では工兵部隊が障害物の除去を急ぎ、補給車両や自走砲も次々と揚陸を開始している。
砂浜には無数の車両が列を成し、帝国軍の橋頭堡は急速に拡大していった。
しかし、敵も黙って見ているわけではなかった。
「敵砲撃!」
警戒兵の叫びが響く。
直後、内陸部から飛来した砲弾が海岸へ降り注いだ。
轟音とともに巨大な土煙が立ち上がる。
砂浜が爆風で抉られ、砂と海水が高く吹き上がる。
「伏せろ!」
兵士たちは咄嗟に身を伏せる。
一発、また一発と砲撃は続き、上陸地点全体が爆炎に包まれていく。
戦車のすぐ脇で砲弾が炸裂し、破片が激しく車体を叩いた。
歩兵戦闘車の装甲へ無数の破片が降り注ぎ、乾いた衝撃音が響くがそれでも進軍は止まらない。
「止まるな!」
「前へ進め!」
「橋頭堡を確保しろ!」
将校たちは拳銃を掲げながら部隊を前進させる。
戦車砲が火を吹き、敵砲兵陣地へ反撃を開始した。
砲口炎が朝の空気を揺らし、砲弾が唸りを上げて内陸部へ飛翔する。
数秒後、丘陵地帯で巨大な爆発が巻き起こった。
だが、敵砲兵も次々と射撃位置を変えながら砲撃を継続する。
海岸線には絶え間なく爆炎が立ち上がり、砂浜は瞬く間に砲弾で抉られた穴だらけとなっていく。
その頭上では、なお数百機に及ぶ戦闘機が激しい空中戦を繰り広げていた。
機関砲の曳光弾が空を横切り、ミサイルの白煙が幾重にも交差する。
撃墜された機体が炎をまとって海へ墜落し、黒煙が空高く立ち昇る。
さらに沖合では、帝国海軍と連邦海軍の艦隊決戦が激化していた。
巡洋艦と駆逐艦が主砲を撃ち合い、対艦ミサイルが海面すれすれを高速で飛翔する。
迎撃ミサイルが次々と発射され、空中で炸裂した閃光が朝空を照らした。
海が燃え、空が燃え、大地が燃える。
セリオン群島を巡る戦いは、すべてを巻き込んだ総力戦へと発展していた。
敵航空戦力は、帝国軍の上陸部隊を海岸で食い止めることを最優先と判断した。
島へ向かっていた連邦軍戦闘機隊が、一斉に進路を反転させる。
高高度で旋回を終えた機体は、アフターバーナーを噴かしながら中央島へ向けて急降下した。
『全機、上陸部隊を阻止しろ!』
『敵輸送船を沈めろ!』
『海岸線へ急げ!』
連邦軍は制空戦から地上支援へと任務を切り替え、爆装を残した攻撃機や戦闘攻撃機が次々と海岸へ殺到していく。
それを見た帝国空軍各隊は即座に追撃へ移ろうとした。
敵の背中は目前だった。
ここで叩けば、制空権を完全に掌握できる。
しかし、その瞬間だった。
全周波数へ司令部から通信が割り込む。
『全パイロットに告ぐ。』
通信回線が静まり返る。
『帰投せよ。』
短く、そして絶対の命令だった。
『全機、直ちに帰投せよ。』
『各機は前線基地に帰投し、燃料および兵装を補給せよ。』
『君たちが離脱した後の制空任務は、帝国海軍第一機動艦隊および第二機動艦隊所属艦載航空隊へ引き継がれる。』
『繰り返す。全機帰投せよ。』
一瞬だけ無線が静まり返る。
『了解。』
各飛行隊が次々と応答し、帝国空軍機は編隊を維持したまま戦場を離脱し始めた。
黒いF-15Λも高度を維持したまま旋回する。
カイは一言も発することなく操縦桿を静かに倒した。
その背後を、朝日に照らされた帝国空軍機が次々と帰投していく。
それと入れ替わるように東方の水平線から、新たな機影が姿を現した。
帝国海軍機動艦隊。
その空母群から発進した艦載機部隊である。
無数の戦闘機が高度を保ちながら戦場へ流れ込み、空の空白を埋めていく。
『こちら第一機動艦隊所属のVFA。制空任務を引き継ぐ。』
『地上部隊の近接航空支援へ移行する。』
『爆装を確認。攻撃開始。』
艦載機隊は島へ向けて一斉に降下した。
対地ロケット弾が連邦軍砲兵陣地へ突き刺さる。
爆弾が塹壕線を吹き飛ばし、対戦車陣地を炎が飲み込んだ。
機銃掃射が道路を走る車列を薙ぎ払う。
地上では帝国陸軍が一気に攻勢へ転じていた。
「前進!」
「止まるな!」
「海岸線を突破しろ!」
歩兵戦闘車が砂煙を巻き上げながら前進する。
その左右を主力戦車が並走し、長砲身を敵陣へ向けた。
轟音と共に主砲が火を吹く。
砲弾は連邦軍トーチカへ命中し、コンクリート陣地を粉々に吹き飛ばした。
その後方では工兵部隊が障害物を排除し、新たな揚陸艇が続々と兵員と物資を送り込んでいる。
海上では帝国海軍主力艦隊が陣形を整えた。
戦艦の巨大な砲塔が一斉に島へ向く。
「撃ち方始め。」
号令とともに三連装主砲が咆哮した。
閃光が海面を照らし、超重量砲弾が島へ向かって飛翔する。
数十秒後、島内各地で巨大な爆発が連続した。
連邦軍砲兵陣地、補給集積所、指揮所、観測拠点で次々と黒煙が立ち昇る。
巡洋艦も駆逐艦も砲撃へ加わり、艦砲射撃は絶え間なく続いた。
島全体が揺れる。
砲撃の振動は海岸線にまで伝わり、兵士たちの足元を震わせた。
その砲火に守られながら帝国陸軍は着実に前進を続ける。
一つ目の海岸を完全確保。
続いて二つ目の上陸地点を制圧。
さらに内陸へ続く道路網を押さえ、橋梁を占領する。
各方面で橋頭堡が次々と築かれていった。
帝国軍はついにセリオン群島奪還への確かな足掛かりを手中に収めつつあった。
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帰投した航空隊のパイロットたちは、機体の点検を整備員へ引き継ぐと、そのままブリーフィングルームへ集められた。
戦闘服には煤や油汚れが残り、疲労の色は隠せないが誰もが無言だった。
僅か数時間前まで空を埋め尽くしていた戦場の光景が、まだ脳裏に焼き付いていた。
やがて前方のスクリーンに戦況図が映し出される。
基地司令が静かに前へ進み出た。
「これより第一次上陸作戦の戦果報告を行う。」
室内の照明が落とされ、スクリーンにセリオン群島の地図が映し出された。
赤く表示されていた海岸線の一部が、帝国軍を示す青へと塗り替えられている。
「各方面の橋頭堡は確保済み。現在も内陸への進撃が継続中である。」
画面には海岸線から内陸へ伸びる矢印が次々と表示される。
「敵航空戦力、多数撃墜。」
敵航空基地の被害状況や撃墜確認数が映し出される。
「敵艦艇にも相当の損害を確認。」
海域には撃沈された敵艦艇の位置が記され、制海権は依然として激しい争奪戦が続いていることが示された。
「我が軍輸送船団の損害は当初予測を下回った。」
その言葉に室内の空気がわずかに和らぐ。
そう上陸作戦そのものは成功した。
それだけは揺るぎない事実だった。
しかし、司令は表情を変えなかった。
「続いて、我が軍の損害を報告する。」
再び室内が静まり返る。
スクリーンには帝国軍の被害一覧が映し出された。
「我が軍も航空機を多数喪失した。」
「艦艇も数十隻が撃沈あるいは大破。」
「戦死者および行方不明者が多数発生している。」
誰一人として口を開かなかった。
名前を知る者もいた、先ほどまで同じ空を飛んでいた者もいる。
二度と帰らない仲間が、その中に含まれていた。
基地司令はゆっくりと全員を見渡した。
「彼らの犠牲によって、上陸作戦は成功した。」
重い沈黙が流れる。
「彼らの功績を、彼らの死を、決して忘れてはならない。」
その一言だけが、静かな室内へ深く響いた。
誰も敬礼を命じられなかった、誰も声を上げなかった。
ただ、それぞれが胸の内で失われた命を思い返していた。
やがて基地司令は資料を閉じる。
「追って次の命令が下る。」
「それまで各員は機体の再武装、補給、整備、および休養に努めよ。」
「以上、解散。」
号令とともに椅子が静かに引かれる音が響く。
パイロットたちは一人、また一人と部屋を後にした。
「中尉、お前は待て。」
解散の号令で皆が部屋を後にする中、基地司令の低い声が室内に響いた。
カイは足を止める。
「……了解。」
他のパイロットたちは一瞬だけ振り返ったものの、何も言わず作戦室を後にする。
重い防爆扉が一人、また一人と閉まり、最後に鈍い金属音を響かせた。
室内にはカイと基地司令だけが残る。
大型スクリーンには、なおセリオン群島の戦況図が映し出されていた。
基地司令は何も言わない。
腕時計へ一度だけ目を落とす。
数秒後。
――コンコン。
規則正しいノックが響いた。
「入れ。」
扉が静かに開く。
入室してきたのは二人の男だった。
どちらも三十代後半ほど。
姿勢は軍人そのものだが、その制服は帝国陸軍でも海軍でも空軍でもない。
黒を基調とした詰襟制服、襟元には銀色の階級章、胸にはネームプレートすら付いていない、腕章も部隊章も存在しない。
ただ左胸に、小さな銀色の紋章だけが輝いていた。
帝国情報局。
その制服だった。
二人は基地司令へ軽く敬礼すると、そのままカイの前まで歩み寄る。
年長の男が口を開いた。
「中尉。」
その声は落ち着いた低い声だった。
「任務、ご苦労だった。」
カイは無言で敬礼を返す。
「ありがとうございます。」
男はその返礼を確認すると、小さく頷いた。
もう一人の男は一枚の書類を手にしたまま、無表情でカイを観察している。
その視線には敵意も賞賛もない。
ただ、何かを確認するような冷静さだけがあった。
基地司令は静かに一歩下がる。
「ここから先は情報局の管轄だ。」
その言葉とともに、部屋の空気が僅かに張り詰めた。
情報局の二人は互いに視線を交わすと、再びカイへ向き直る。
「中尉。」
「少し時間をもらう。」
「君に確認したいことがある。」
年長の情報局員は、手にしていた書類を閉じると、カイへ静かに視線を向けた。
「まず確認だ。」
「機体は大丈夫かね。」
質問というより、確認だった。
カイは表情一つ変えず答える。
「問題ありません。」
情報局員は小さく頷いた。
「そうか……。」
その視線には安堵の色が僅かに滲む。
ただそれは、それはカイではなく、F-15Λへ向けられたものだった。
「くれぐれも壊してくれるなよ。」
穏やかな口調だったが、その言葉には強い意味が込められていた。
あの機体は情報局が極秘裏に進める計画の中核であり、代替の利かない唯一の機体だった。
カイは静かに頷く。
「……分かっています。」
情報局員は満足そうに息を吐く。
「それでいい。」
隣に立っていたもう一人の局員が端末を閉じた。
「本日の戦闘データは非常に価値が高い。」
「後ほど整備班へ回収班を向かわせる。」
「飛行記録、機体ログ、各種センサー情報は一切そのまま保全しておいてくれ。」
「了解しました。」
「以上だ。」
年長の局員は短く言う。
「任務、ご苦労だった。」
二人は踵を返し、何事もなかったかのように部屋を後にする。
重い扉が閉まると、作戦室には再び静寂だけが残った。
基地司令は一度だけカイを見つめる。
「中尉。」
「休めるうちに休んでおけ。」
「次の出撃は、そう遠くない。」
「了解。」
敬礼を交わすと、カイは静かに作戦室を後にした。




