【君のぞ】black tulips Ⅲ
black tulips Ⅲ
和輝
心「おはようございます、鷹野さん」
和「ん、おはよ〜」
ある日の朝、心さんの凛とした声を聞いていつも通り俺は挨拶を返す。
心さんが家に来てから、早くも3ヶ月がたった。
まだ一定の距離感はあれど、だいぶココロの距離は近づいてきたのではないかと思う。
そして俺はというと、めちゃくちゃ心さんに助けられていた。これまではなかなか感じられていなかった、日常の安心感や充実感が、毎日必ずといっていいほど手に入っている。
色んな仕事の作業も手伝ってくれるし、家事もしてくれるし、何よりもたくさん話をするようになった。それが一番の救いだ。
和「今日も頑張るか〜……」
そう言いながら、ゆったりと白衣を着始める。そして昨夜机の上に放置してしまった眼鏡を手にとって、そっとつけた時。
心「鷹野さん!!来てください!!!」
和「え、心さん?」
病院の玄関の方から、心さんの焦ったような声が聞こえた。
ただならぬ緊張感を感じ、俺は玄関の方に走った。そこには、玄関の方をそっと覗きながら心さんが立っている。
和「どうしたの?」
心「ぁ…鷹野さん……」
声をかけると、彼女が青ざめた顔でこちらを振り返った。
彼女のそんな表情は初めて見たので、思わず顔を強張らせてしまう。極力棘のない声をココロがけつつ、俺は声をかけた。
和「何事?」
心「なぜか…患者さんが、いっぱいいます。数え切れないです」
和「えッ?」
よく意味がわからず、気の抜けた声を漏らしてしまう。そのまま俺は心さんに促されて玄関を覗き込んだ。
和「……は、なんで」
そこには、見覚えのあるtuilps街の住人が大勢並んでいた。しかもそこにいる全員、顔を青くしたり赤くしたりして、いかにも体調が悪そうである。中には咳き込んでいる人もいた。
何故こんなに体調不良者がいるんだろう?昨日まではそんな事なかったのに。なんで急に今日になって…?
心「ど、どうしますか」
和「…とりあえず、心さんはいつも通り患者さんを待合室に通してあげて。全員」
心「全員!?入りますかね…?」
和「臨時の待合室を用意するから、そこも使いながらでお願いするよ。誰一人として見捨てないであげて」
心「……分かりました」
心さんに対して少し強い口調になってしまったかと後悔する暇もなく、彼女は玄関の方に駆けていった。
玄関が開くと、大量の住人たちが勢いよく入ってくる。心さんの言う通り、本当に数え切れない量だ。
和「…多いな。来てしまったか……」
そう呟きながら、俺は診療室に戻る。
そして休む間もなく診療室に押し寄せてくる患者さん達を、一人ひとり診察していった。
心
何故か急に、大量の患者が病院を訪れた日の夕方。
最後の患者さんが診療室を出て、玄関から出ていったのを確認した私は、診療室のドアをそっと開けた。
そこには、今日一日大忙しかったであろう鷹野さんがいる。
心「…鷹野さん……大丈夫ですか」
鷹「あ、心さん。今日はありがとね、急な対応」
心「いえ…全然私は平気ですけど……」
パソコンを前に座る鷹野さんは、すごく疲れているようだった。当たり前だ、1日中ずっと休む間もなく患者さんを診察し続けたのだから。それなのに彼は、その疲れを感じさせないようにしているのか微笑みを向けてくれた。
私のことを気遣って取り繕ってくれるのは有り難いけれど、今は…その疲れを素直に発散してほしい。
心「…バレてますよ。お疲れなの」
鷹「あはは、心さんもね。ほんとお疲れさま」
心「……また明日も、こんな感じでしょうか?」
鷹「うーん…多分、そうかな。ていうか、今は落ち着いたけど、この後発症した人とかが夜間にいっぱい来るかもね」
心「そうなんですか?!」
鷹「うん…」
驚いてつい大きい声を出すと、鷹野さんは真剣そうに視線を下に落とした。その姿に不安を覚えて、少し歩み寄ると彼の正面に座る。
心「……鷹野さん?」
鷹「…これ、相当やばいケースかも」
心「えっ?やばいケースって……」
いつもより低くなった声で彼は、何故か悔しそうに口を開いた。
その声が、私のココロの中の不安を大きく駆り立てる。
鷹「患者さんがほぼほぼ全員、同じ症状なんだ」
心「え…同じなんですか」
鷹「しかも、少し前にこの国の違う街で大流行して、死者を多く出したウイルスと全く同じ」
心「ってことは!まさか…」
鷹「……tuilps街に…」
心「…」
鷹「この街に強力なウイルスが流行し始めてる」
心「ウイルス…?」
彼は相当辛そうに、断言した。
それが、これから自分が忙しくなることへの不満からなのか、それともこの街の人が苦しみ始める未来を案じてなのか。そんなこと私にはわからない。けれど、鷹野さんの性格と今の沈んだ目を見る限り、なんとなくだけれど…後者な気がした。
そして私も後者の理由で、とある感情を抱いた。
心「……」
(…いい気味ね)
……おそらく、鷹野さんが抱いた感情とは…真逆な感情を。
それを隠しつつ、私は鷹野さんの方に意識を戻す。
鷹「こんな小さな街で強力なウイルスが流行したら、ここに住む人はみんな全滅してしまう…それだけは避けなくてはいけない」
心「ぜっ、全滅ですか?!」
鷹「ああ」
心「そ、んな…」
鷹「……俺の出番」
心「…えっ?」
鷹「俺はこの街で唯一、病院を構えてる。俺がなんとかするしかない」
心「鷹野さん……」
彼は力強くそう言い切ると、青白い光を放つパソコンの画面を見つめながら表情を固くさせた。まるで決意を固めたように。
その凛々しい横顔を見て、私はウイルスのことを忘れて全く違うことを考えていた。
心「………」
(その目。その姿…全部……)
鷹野さんの姿に引き寄せられるように見入る。頭の中に蘇ってきた6年前のあの景色に、彼の姿がリンクしていく。
心「……似てる」
鷹「…え?心さん、どうしたの?」
心「あっ、いえ。なんでもないんです。独り言で」
鷹「そっか。とりあえず、今日からもっと忙しくなると思うけど…極力感染対策して、早寝早起きを心がけてね。健康が第一だから」
心「分かりました。鷹野さん、も」
鷹「うん。ありがと」
心「じゃあ一旦私、温かい飲み物持ってきますね」
鷹「あっ、よろしく!」
心「はーい。失礼します」
ガラッ。
静かな廊下に出て、冷たく孤独な空気に呑まれる。今の私の口角がすごい勢いで下がったことは、自分でもよくわかった。
心「……」
(…忘れなくちゃ、いけないんだ)
さっき抱いた感情と、鮮明に映し出された”あの日々”は、忘れなくてはいけない。今の私には、そんなものよりも大事なことがたくさんあるし、しなくちゃいけないこともたくさんあるのだから。
一旦深呼吸して、そう自分に言い聞かせると私はキッチンに向かう。
トポトポ…。
心「……」
(…けれど)
でも、もし。
心「…もしも、”あの人”が…彼なら……」
小さくて冷たくて、まるで希望のこもっていないような願望の一言は、鷹野さんが好きなホットコーヒーのブラウンに、吸い込まれるように溶けていった気がした。
和輝
パサッ。
和「はぁ…またかあ……」
突如強力なウイルスがこの街で猛威をふるい始めてから一週間。
あの後も大量に患者が現れて、そのほとんどが同じような症状を訴えていた。そしてその症状は全て、少し前にA国の別の街で蔓延していたウイルスによるものであった。
既にこの街の住人には不要な外出はしないよう呼びかけてはいるが、もはや手遅れではないかと危惧してしまうほどに患者が急増している。本当に全滅してしまうのではないかと思うほどだった。
もちろん友人の稜也や孝も例外ではなく、二人ともウイルスに感染して発症していた。しかも孝は重症化もしている。
和『次の方…あれ』
孝『やっほ〜』
和『孝!?しかも顔真っ赤だし…』
孝『かかっちゃったー、ウイルス』
和『マジか…ま、そうだよね……。ちょっと、腕見せて』
孝『はいっ』
和『ッ!斑点、か…』
孝『ね、最近出たんだよ……っ!!ゲホゲホッ!!』
和『孝!いいよ、このゴミ箱に吐いて』
孝『は、はぁっ……ごめ…んね』
和『いいんだよ。…重症化してるな』
和「……」
(腕に斑点が出て…吐血と嘔吐が、重症化のサインか……。呼びかけるべきだろうか。いやそれよりも、まず最初に…)
たまりまくった資料を眺めながら、俺は一つの悩みを何とか解消しようと考えをめぐらしていた。
それが、「ウイルスなんて存在しない」と言い張る人々の感染対策について。彼らはここまでの感染拡大をもってしても、「ウイルスは存在しない」「医者が街の人を殺している」と主張している。
なんの根拠もないにも関わらず、彼らは自分たちの憶測を強く信じて疑わない。そして数少ないワクチンや薬を提供しようとしても、毒だと思いこんで受け入れない。なんなら、診察の邪魔すらしてくる。
和「なんでそうなるかなぁ…?」
そう呟きながら、机に突っ伏して頭を抱えてしまう。
数少ないと言った通り、今のtuilps街にこのウイルスに対応したワクチンや薬はとても少ない。まるで患者の数に追いつかない。
なぜなら、A国の別の街で感染が拡大した時に、大量にそれらが消費されたから。その上この国は、経済発展が進んできたとはいえ、周りの大国と比べるとまだまだ発展途上国。簡単に医薬品がいくらでも手に入る訳では無い。ただでさえ、直前に別所で大量消費された高価な医薬品が、十分に準備できる可能性なんて…限りなくゼロに近かかった。
バンッ!
和「もー…ワクチンもまともに届かないし、薬も全然足りないし!どうしろっていうの……」
怒りとやるせなさが込み上がってきて、俺は勢いよく拳を机に叩きつける。もう外は真っ暗になってしまったが、すぐ後ろにあるベッドで寝る気になんて、絶対になれなかった。いくら夜が更けていようが、眠かろうが、俺にはまだやるべきことが山のようにある。
和「……ッ…!」
(この街には、俺しかいない)
”自分しかこの街には医者がいない”。
その揺るぎなくてなおかつ厳しい事実が、自分の体を動かす原動力になり、そして同時にプレッシャーとして重く自分にのしかかっている。
すると、閉め切ったドアの向こうから小さな声が聞こえた。
心「鷹野さん?大丈夫ですか、すごい音聞こえましたけど…」
和「ぁ…ごめん。驚かせたよね。なんでもないよ」
心「……失礼します」
不安そうな声を出しながら、心さんが部屋に入ってくる。心配と驚きの感情が彼女の顔を染めたのは、一瞬だった。
心「…鷹野さん」
和「あーえっとぉ……めっちゃ部屋汚いよね、ごめん。ウイルスについて研究とかしてたら、散らかっちゃって」
心「いえ、全然大丈夫です。…それよりも、流石に研究とはいえこもりすぎです。そろそろ寝てください」
和「あれ…寝てないの、バレてた?」
心「もちろん。バレバレでしたよ。起きてるんだろうなって」
和「そっかー…でも大丈夫。これだけはやり切らないと」
心「……」
和「…怒らないでよ」
心さんが不満そうな顔をする。俺はそれを気に留めかけたが、それよりも先に視線を机上の資料たちに向けた。
和「この国はまだ発展途上。しかもちょっと前に違う都市で、大量に薬とかが使用されたばっかりだから…。こうなってしまった以上、俺がなんとかするしかない」
心「…でも」
和「重症化する人も増えてきてるし…一刻も早くやらないといけないからさ……。幸い、データはちょっとずつだけど集まってきてるし」
心「…」
和「あ、でも」
そこまで言って、一度席から立つと、心さんの方に向き直る。
俺は寝なくてもいいけど、心さんにはちゃんと規則正しい生活を送ってもらいたい。じゃないと感染しやすくなってしまう。いくら万全の感染対策をさせているとはいえ、患者さんに近づいている彼女はウイルスに感染する可能性が、他の人よりも大いに高い。
和「心さんは俺にかまわず、ちゃんと早く寝て」
そう言いかけた時。
心「…ッだめです!」
和「わっ!?」
心さんが急に動いた。そして勢いよく俺の両肩を押した。
俺は突然訪れた大きい衝撃に耐えきれず、体勢を崩すとそのまま後ろのベットに倒れ込んでしまう。
ボフッとマットが揺れ、驚きを隠しきれず仰向けのまま固まった俺に、心さんが上から四つん這いで乗っているという状態になった。
和「ッ…?!」
心「…」
……いやちょっと待って?心さんに四つん這いで体の上に乗られてるって、どういうこと?押し倒されたってどういうこと…?
年上の男性を押し倒せるって、すごい力あるじゃん心さん。ていうか、めっちゃ距離近いし…。めちゃくちゃパニック。
あまりの急展開にバクバクする心臓の音を聞かれまいと、俺は必死に頭の中で言葉を探す。そしてなんとかつなぎ合わせて声に出した。
和「…す……すごいね、心さん…力」
自分でも笑ってしまうほど気が抜けた声を出してしまった。心さんは、そんな俺の声を聞いて焦ったのか、はっと目を見開く。
心「あっ、え…えと、ごめんなさい!!」
そして大慌てで体を起こすと、華奢な体を折って頭を下げ始めた。
心「すいません、勢い余って…お怪我はないですか!?」
和「ううん…大丈夫」
心「ほんとにごめんなさい……押し倒しちゃって」
和「いいんだよ、気にしないで」
心「ありがとうございます…。とりあえず、寝てくださいね」
和「分かった…ありがと」
(なんか壁ドンされたみたいになっちゃった…力強いな〜心さん)
心「あ、そうだ!毛布持ってきますっ!」
和「あ、ありがとう」
ガチャッ!
心さんが元気に急いで飛び出していく。それを見送った俺は、顔を近くにあった枕にうずめると、
和「…ゴホゴホッ……」
そっと咳をした。
和「……」
(…俺がなんとかしないと。……心さんが、感染する前に)
No side
ウイルスが流行り始めて10日後。
鷹「………ッ」
(だめ、だった)
tuilps街ではとうとう、最初の死者が出てしまった。
まだ治療法も予防方法も定かではない中で、薬も十分にないのに死者を出していなかったのは、だいぶ持ちこたえた方である。しかも、たった1人だけの力のみで。
しかし彼は自分の無力さを痛感し、胸が張り裂けてしまいそうなほどの苦しみを抱えていた。
そして「ウイルスは存在しない」と主張する集団は、これを機に人数を増やし始めた。鷹野に大きな逆風が吹き始める。
鷹「ごめん…なさい……」
会「……」
変わらずに増え続ける資料を強く握りながら、震える懺悔の言葉を漏らす彼の姿を見て、
会(私は暖かく彼を包容できる言葉を、何一つ知らない…いや、覚えてない。ならせめて、行動で彼を暖かく支えてみせる)
ガラッ。
会「鷹野さん!ほうじ茶を持ってきました。温めたので、体にも優しいはずです。ぜひ飲んでください」
鷹「あ、ありがとう。これから薬の仕入先の方に向かうから、せっかくだけど…帰ってきてからゆっくりいただくよ」
会「あっ、その必要はないです。午前中に私が行きました」
鷹「…えっ?」
会「あと、この後のお昼休憩の間は、緊急の患者さん以外はいらっしゃらないはずなので…その間に、亡くなった方のご家族への説明に行ってきます」
鷹「ぇ…いや、そこまでは」
会「大丈夫です。あと病院前の掃き掃除も終わらせてあるので、する必要ないですよ」
鷹「……」
会「鷹野さんは貴方のお仕事に専念されて大丈夫です。専念と言っても、ちゃんと適宜休んでくださいね。では失礼します」
鷹「ちょっと待って!」
会「え…?どうしましたか?」
鷹「…それだと、心さんが休む暇が」
会「私は大丈夫です。それよりも…貴方に、休んでほしい。貴方が休んでくれるまで、私は動き続けます」
鷹「……ありがとう。心さんは、優しいね」
会「…ご遺族への説明から戻り次第、カルテの整理もしておきますっ」
鷹「ああ。じゃあお願いします」
会「失礼します」
ガチャッ…バタン。
会「…」
(照れてる暇なんてない……行かなきゃっ)
会塚は鷹野を支えようと心に決め、率先して病院の仕事や家事を行うようになった。
初の死者が出てから4日後の、ウイルスが流行り始めてちょうど2週間が経った頃。少しずつ新しい感染者は減ってきて病院に余裕ができた分、死者は更に増えてしまい8人にのぼってしまった。
会塚の助けもあって、鷹野はウイルスの研究や患者に対する診察にしっかり向き合うことが出来るようになった。しかしその多忙さと、重くのしかかるプレッシャーが、鷹野の体を蝕んでいることは確実だった。
鷹「んー…」
(なんだか最近、集中ができない…このデータは全て、今日のうちに頭に入れときたいのに…なぁ……。…ッ!?)
鷹「ゔッ!?ゲホゲホゲホッ!」
その日の真夜中、数多くの患者のデータをまとめていた鷹野は突然手で口を覆うと、激しく咳き込み始め、
鷹「はぁ、はあ…ゲッ」
近くのゴミ箱に、胃液に混ざった血を吐き出した。
鷹「ぇ……え…っ?な、んで」
(なんで急に吐血…?!なんか変なもの食べたっけ…?いやそうだとしても、それで吐血はしないか……。最近頭痛もしてたし、フラフラするし…。となると、考えられるのは…)
震える声を漏らしながらも、鷹野は久々に最近の自分を見つめ直した。
過去を思い出していくとともに、ある一つの可能性を見出してしまった彼は、恐る恐る腕をまくる。
そこには、複数の赤い斑点があった。それを見た彼は絶望で黒く染まった目を斑点に釘付けにし、誰にともなく呟いた。
鷹「…ウイ、ルス……?」
鷹野は、すでに自身の体がウイルスに蝕まれていることを、ようやく知った。そして自分が、重症化していたことも。
鷹「………ははっ、俺もかよ…。孝だけじゃなくて、俺も……」
(……いや、孝がウイルスにかかるのは仕方がない。彼はあくまで一般人なんだから。俺は…ウイルスにかかる側じゃない、治す側)
彼は自分を嘲笑うかのように、乾いた笑い声を一つこぼした。そしてティッシュを1枚掴み取り、朱色に汚れた口元を拭き取ると、
鷹「……だめな医者だなぁ、俺は」
(…絶対に。心さんには絶対に、移さないようにしなくちゃ)
雑に丸めたティッシュをゴミ箱に投げ入れるとともに、自虐の言葉と笑みを落とす。そして、彼が思いを寄せる会塚には知られないようにしようと、嘔吐物の処理をしながら決意した。
しかし、鷹野は自分でも気付かぬうちに、心身共に限界を迎えていた。
そして会塚の動きにも、気付いていなかった。
彼が吐血して3日後の、深夜1時の控室にて。
鷹野がぼんやりと控室で一人立っていると、会塚がそっとドアを開けてそこに入ってきた。だが彼は、彼女の存在に気付かない。
鷹「……」
会「鷹野さん!どうしたんですか!?そんな青い顔して…」
鷹「…」
会「ふらついてますよ!鷹野さん!!」
会塚のひときわ大きな声で、ようやく鷹野は彼女に焦点を合わせる。
鷹「…え、心さん?こんな夜遅くに、なんでここへ?」
会「明日のための薬があるか、確認しに来たんです。それよりも…、何があったんですか」
鷹「…」
会「……鷹野さん?そんな目をして、どうしたんですか…?」
鷹「また……、一人亡くなったんだ。ウイルスのせいで」
会「…そうなんですか。こんな夜遅くに……」
(これで死者は10人目…二桁)
鷹「俺にもっとちゃんとした知識があれば…もっとちゃんとしてれば、彼女は死なずに済んだかもしれないのに…。俺のせいだ」
会「鷹野さん…」
鷹「今はこんな状況だから、お葬式もだいぶ簡素に済まされてしまう。そんな時だからこそ、せめて…せめて、ちゃんといろんな人としっかりお別れができる状況になるまでは、頑張って生きてもらおうとしたんだけど…」
会「……」
鷹「だめ、だった。ごめんなさい……」
弱々しい声で誰にともなく謝罪の言葉をこぼす彼の姿は、会塚にとってひどく弱っているように見えた。
それを受けて彼女は、なにか励ましの言葉をかけようとするが、
会「…鷹野さんが悪いんじゃない。悪いのは……ウイルスです。あなたが気に病むことじゃ、ないですよ」
(あぁ…もっと、頭が良ければ……。もっと、いろんな温かい優しい言葉を知っていれば…、彼を励ませるのに)
その気持ちは返ってもどかしさに変わり、会塚自身を苦しめてしまう。
彼女の言葉を聞いた彼は、視線を落としたまま口を開いた。
鷹「…この街の人達の唯一の頼みの綱は俺だけ。その俺が頼りなかったら……だめでしょ」
会「……誰も…っ。鷹野さんが頼りないなんて、誰も思ってないです。絶対に。それに、貴方がいたから助かった命も、たくさんある…。それを忘れないで」
鷹「ッでも!」
会「…!?」
鷹「助けられなかった命もある…!全て、大切な命なんだ……大切な人生があるんだ。だから…全部、助けたかった!」
会「………」
鷹「この街の役に立ちたいんだ!なのに……なのに、俺は…、十人の命を奪った」
会「違う!あなたは誰の命も奪ってない!命を奪ってるのはウイルスです!!鷹野さんじゃない!!!」
鷹「っ…」
つい声を荒げた会塚の怒声を聞いて、鷹野が口をつぐむ。それを見た彼女はバツが悪そうに俯くと、小さく謝った。
会「…すいません。つい」
鷹「いや…、大丈夫」
会「……それよりも…鷹野さん。最近ずっと顔色が悪いです。体調、悪いんじゃないですか?歩いてるだけなのに息切れしてるし」
鷹「え…?いや…」
会「前まではそんなこと、なかったですよね」
鷹「っ…まぁ……それは…」
会「もしかして…、貴方も」
鷹「いや、俺は大丈夫。俺は決してウイルスなんかにかかったりしてない。かかってる暇なんかないしね」
会「暇なんかない、って…そういう問題じゃ……」
鷹「俺は大丈夫だから。じゃ」
そう言って半ば強引に話を切り上げた鷹野は、ドアノブに手をかけた。それを見た会塚は、その彼の手が僅かに、けれど確実に震えていることに気付き、急いで声を掛ける。
会「ちょっ、鷹野さん!?どこに行くんですか!?」
鷹「新しい入院患者さんが二人、入ったんだ。とりあえず様子を見て、薬を出してくる」
会「なっ?!」
(あの顔色の悪さ、ふらつき、息切れ…。これまでみてきた患者さんにも何人かいた。そして、そういう患者さんはだいたいその後…)
鷹「手伝いとかは大丈夫だよ。もう遅いし、早く寝てね」
会「ッ…!!」
(斑点が出て重症化してた!やっぱり……)
「待ってください!だめ!休んで!!」
鷹「大丈夫だから来ないで…ッ!ゲホゲホッ!」
ドアを開けるために鷹野は手に力を入れる。しかし彼はドアを開ける前に、急に腰を折ると激しく咳き込み始めた。
会「た、鷹野さん…!?」
鷹「ゲホゲホゲホッ…来、な……ゴホッ!」
会「っ!?」
鷹「はぁっ、はっ…ゔッ!ガハッ!!」
ビシャッ!!
鷹「あ……はぁ、はぁっ」
鷹野は、自分が吐き出した血を見て呆然と立ち尽くした。その間にも、彼の鮮やかな赤色の血液は、ボタボタと床に落ちて染み込んでいく。
”心さんの前で見せてしまった”という後悔の念が、彼の頭を瞬く間に支配した。彼は急いで足を動かそうとするが、その支配から逃れるための時間を取ることもできないうちに、会塚が彼に近づいてくる。
会「鷹野さん!ゆっくり深呼吸してください。吸って、吐いて…」
鷹「っ、大丈夫だよ…、心さん。だからダメ、俺に近づいちゃ。俺は平気だから…」
会「そんな青い顔で微笑まれても…!!」
鷹「来な、来ないで」
会「ダメッ!貴方は無理してる!平気じゃない!!」
鷹「来ないでッ!!」
会「頑張り過ぎなんです!!もうダメだって認めて!!!だから……」
鷹「そんなこと……ッあ」
会塚から少しでも離れようと、彼はドアから廊下に飛び出す。しかし鷹野の足は、既に使い物にならなかった。
バタッ!
会「っ!鷹野さんっ!!」
鷹「はぁ…はぁっ…」
鷹野が血を吐きながら倒れこんだ深夜の冷たい廊下に、会塚の悲痛な叫びがこだました。




