1.シスター・エネスとバラの花
ロンドンの2月。それはこの町が最も冷え込む時期だ。空はいつも灰色の重々しい雲に覆われ、深い霧が街を覆い尽くす。
ミシェル・ウェールズのシスター達は毎朝夜明け前に起き、身支度を整えると、いそいそと礼拝堂へ向かう。廊下は決して走ってはいけないのでいつも早歩きだ。なぜ早歩きかというと主任シスターのシスター・エネスが起きてくる前に掃除を済ませておかないと、彼女のつり上がった眉が益々つり上がり、今日一日、このロンドンの2月より寒い気分で過ごさなければならなくなるからである。
いつものようにシスター達が掃除を終えた後を、シスター・エネスはぐるりと見回した。肩を縮めて言葉を待つ若いシスター達ににこりともせず「結構」とだけ言うと、彼女はシスタールームに向かった。朝の礼拝までまだ時間があるので、書類の整理でもしておこうと思ったのだ。主任シスターの部屋はシスタールームの隣に別にあるが、シスタールームにも彼女の席は設けられている。
誰も居ないシスタールームの中で書類を広げ、ずっと昔から使っているガラス製の万年筆にインクを浸けた時だった。
「お早うございます」という明るい声と共に、真っ赤なバラの花束を抱えて渚が入り口から入って来た。それを見たシスター・エネスは手に持っていた万年筆を思わずノートの上に落とし立ち上がった。ずっと昔、心の奥底に閉じ込めたはずの記憶が、まるでこの大きなシスタールーム中に広がっているように目の前に押し迫ってきた。32年間、決して開く事の無かった記憶・・・。
そうだ。この娘さえ来なければ思い出す事なんて無かった。こんな風に心をかき乱される事も。この墓場のような学園で、死んだように生きていけるはずだったのに・・・・。
「ミス・コーンウェル」
シスタールームに響いた低い声に、渚はビクッとして立ち止まった。まさかシスター・ルームにこの苦手な上司が一人で居るとは思わなかったのだ。だがここへ来て一年近く経つ渚はこんな状況は慣れっこだった。渚はにっこり微笑むと「何でしょう。シスター・エネス」と言いつつ彼女を振り返った。しかしこんな状況になれている渚も思わず息をのむような表情で、シスター・エネスは渚の持っているバラの花束を見ていた。
「シスター・・・・エネス?」
驚いたような渚の声に彼女は渚の顔へ目を移し、そのままもう一度足下まで見つめた。
「ミス・コーンウェル。何ですか。今日のスカートは。派手派手しいオレンジ色で、しかも膝まで出して。あなたにはミシェル・ウェールズの教師という自覚がまだ無いようですね」
渚は思わず自分のスカートを見て、そんなに派手な色じゃない、これくらいの丈のスカートは誰でもはいている、と思ったが、ここはミシェル・ウェールズなのだ。世間の常識など通用するはずはなかった。そういえばここに来て膝上のスカートをはいたのは初めてだった事に気が付いた。
「それに何です。その真っ赤な花は。そんな毒々しい色の花をこの神聖なシスタールームに飾るのは許しませんよ」
シスター・エネスのきつい指摘を聞きながら、渚は言葉を返せずうつむいていた。なるべくシスター・エネスに文句を付けられないよう心がけていたのに、ちょっと浮かれすぎてそれを忘れていた事を後悔した。
実は明日2月7日は渚の誕生日なのだ。それに間に合うようにと、ニューヨークに居るアレクから昨日バラの花束が届いた。とても嬉しくて家に飾っていたのだが、それを見る度ピョンが不服そうに口をとがらせて「なんやあいつ。まだ渚をニューヨークに連れて行こうと思とんちゃうか」とか「渚はそんなにあいつからのプレゼントが嬉しいんか。そりゃ人間からのプレゼントの方が嬉しいわなぁ」とかブツブツ皮肉や文句を並べ立てるので、とりあえず彼の目から遠ざける為にミシェル・ウェールズに持ってきたのだ。シスタールームはいつも重苦しい空気が流れているので、丁度いいだろう。そう思ってわざわざ持ってきたのに、スカートの丈が短いだけでアレクのくれたバラにまで文句を付けられ、渚はムッとして顔を上げた。
「スカートに関しては考慮が足りなかったと思います。でもバラの花には何の罪もありませんわ。どうしてここに飾るのがいけないのです?」
そしてシスター・エネスも、この生意気な小娘が何かを言い返して来る事を予想していた。
「目障りだからです」
本当に彼女は人を怒らせる天才だ。腹の底から湧き上がってくる怒りに思わず渚は声を張り上げた。
「目障り?あなたが目障りなのはバラではなくてこの・・・」
ー 私じゃないですか? ー
そう言いかけて渚は思わず言葉を止めた。それ以上言ったら、このミシェル・ウェールズで積み上げて来た物が全て崩れてしまうような気がした。シスター・エネスはこうやって私を怒らせて、ここから追い出そうとしているのだろうか。渚は震える唇をぎゅっと噛みしめて、何とか怒りを抑えようとした。
「おやおや、朝からにぎやかなこと」
入り口から響いてきたしわがれた声に、渚はドキッとして顔を上げた。魔法使いのようなかぎ鼻をつんと上に向け、シスタ-・ボールドウィンが冷たい銀縁のメガネの向こうから渚とシスター・エネスを見ている。
渚は恥ずかしそうに顔を下げたが、シスター・エネスも少し後悔したように目をそらした。
「その行き場を無くした可哀想なバラの花は私の校長室に飾りましょう。それで良いですね?シスター・エネス」
「はい・・・」
シスター・エネスは顔をそらしたまま、小さな声で答えた。
「ではナギサ。私と一緒に来て花を飾りなさい」
「は、はい。校長先生」
渚が校長の後を追って出て行った後を見る事も無く、シスター・エネスはただじっとその場に立ち尽くしていた。
4階に上がってくるまでずっと押し黙っていた渚だが、やっと目の前を歩いて行く背中に声をかけた。
「あの、すみませんでした、校長先生。朝から大きな声を出してしまって・・・」
少しの間、沈黙が流れた後、シスター・ボールドウィンの凜とした声が返ってきた。
「ナギサは元気が有り余っているのですね。ついでに校長室の掃除もしてもらいましょう」
掃除は嫌いではないが、これが罰なのだと思うとあまり嬉しくはなかった。
「はい。では授業が終わったら掃除をしに参ります」
すると又、少し間が開いてから返事があった。
「冗談です」
「・・・え?」
シスター・ボールドウィンが渚に冗談を言うなんて初めてだった。それもこんなわかりにくい冗談を・・・。もしかしたらこれは彼女の人生で初めての冗談かも知れない。
渚は嬉しくなって微笑むと、シスター・ボールドウィンの糸が張ったようにピンと伸びた背中を追って再び歩き出した。




