4.深夜の暗躍
オーシャン・エンパイアの一等客室、アルティメット・ロイヤル・スイートルームは413㎡の広さを誇り、この船の一番の特別な客の為にありとあらゆるサービスが用意され、セレブ達を出迎えてくれる。しかし今回の客、バラス・カルロ・スタッテリオ・フォスは非常に不機嫌で、使用人のロダンが持ってきたワインを一口飲むなり、床にグラスごと投げつけた。
「おかしい!どう考えてもおかしいじゃないか!なぜ2番目なんだ?この船で一番の上客は俺だというのに、何故なんだ!?」
ロダンは困ったように目を伏せた。先ほどフレンチを食べに行くまでは上機嫌だったのだ。レストランで船長やシェフがそろってやって来るまでは・・・。
バラスは船長達がわざわざ挨拶に来たのは当然、一番の上客である自分だと思って居た。なのに彼等は一人で座っている若い女性の所で立ち止まり、楽しそうに会話をした後、彼には目もくれず去っていたのだ。
バラスはすぐロダンにその女性の事を調べさせた。彼女が何者かは分からなかったが、名前はナギサ・コーンウェル。バラスが居る部屋より一つ下のクラスであるエグゼクティブ・スイートの客だと分かった。
バラスはスペインのオリーブオイル会社、Domingo Olivaの創業者一家の次男だ。ドミンゴ・オリバは全世界37カ国に支店を持ち、スペイン産オリーブオイルのシェアで常にトップ10位以内を誇っている。
温暖な地中海性気候のバレンシアにある本宅は、たくさんのオリーブやレモンの木々に囲まれた広大な屋敷で、皆からはオリーブ御殿と呼ばれていた。
そんなスタッテリオ家の次男坊は長男のように周りの期待に応えようと必死に努力するでもなく、両親が何も言わないのをいい事に遊びほうける事に人生の大半を費やしてきた。
そのくせ優秀な兄と比べられるのを何より嫌い人の評価を気にする性分なので、今回のように下のクラスの部屋に居る人間がこの船の責任者達に自分より上客扱いされていると感じるのが、たまらなく許せなかったのだ。
「やっぱりクルーザーにすれば良かった。こんな民間の船に乗ったのが間違いだったんだ!」
叫び声を上げるバラスを落ち着かせるようにロダンは声を低くして言った。
「でも今回はクルーザーの船長が腹を下してましたし、いつものお友達も騒がしいだけだから今回はゆっくり船旅がしたいとおっしゃっていたではありませんか。それにもしかしたらあの女性は船長のご友人だったのでは・・・?」
「いいや、違う。船長が自己紹介をしているのをはっきりと聞いた。この耳でな!」
バラスが耳を親指で力強く指さした。
どれだけ聞き耳を立てているんだ。席は随分離れていただろうに。内心うんざりしたが、ロダンは何とか笑顔を作った。
「そうだ。気晴らしにダンスバーに行きませんか。ここのバーテンダーは世界大会で優勝したらしいですよ。こんな時は飲んで踊って憂さ晴らしを・・・」
「ええい、うるさい!誰が行ってやるか。もっといいワインを持ってこい。俺に似合う最上級のワインだぞ!」
もはやどうなだめても無駄なようだ。仕方なくロダンは、ルームサービスを頼む電話をかけ始めた。
夕食を終えていったん部屋に戻った渚は、シャワーを浴びながら次の予定を考えた。やはりここはピョンも好きな映画を見に行くのがいいだろう。この船のシアターは1,000人もの観客が入れるので、普通の映画館の何倍も大きいスクリーンで見応えのある映画が見られる。
「それとも・・・」
渚は呟いてちょっと頬を赤らめた。今日はピョンと初めて2人きりで旅行に来た記念日だ。彼に買って貰ったドレスの中で少しカジュアルなワンピースドレスがあったので、それを着て2人でカクテルを飲むのはどうだろう。
「きっとステキな夜になるわ」
クスッと微笑んでシャワールームを出た。身支度を済ませてリビングに行ったが、テレビを見ていると思っていたピョンは居なかった。何処に行ったのだろうと思いつつベッドルームに行くと、ベッドの枕に頭をもたげながらピョンが眠っているのが見えた。
「きっと疲れちゃったのね」
少し残念そうに微笑みながら渚はピョンの背にそっと布団を掛けた。仕方が無いので自分も寝ようと思ったが、いや、まだ眠くない、と思い直した。2カ月間準備をして、やっと来た初めての船旅だ。やっぱり目一杯楽しみたい。
一人でカクテルを飲むのはハードルが高くて無理だが、メインパークにあるたくさんのショップを見て回るくらいなら人も多いし、問題は無いだろう。メインパークは入り口から続く高級ブランド街と違って値段の高いショップだけではなく普通のお店もあるから、みんなへ送るお土産も買えるかもしれない。そう考えた渚はピョンを起こさないよう静かに出かける用意をしてそっと部屋を出て行った。
深夜になってもこの船は眠る事はない。中央部の本物の木が植えられたメインパークにあるショップなども24時間空いているし、バーやラウンジも勿論営業している。3つある巨大スクリーンを有するシアターやライトアップされたウォーターショーなども夜の方が美しく混み合うのだ。
そんな乗客に“生涯で一番の感動をお届けする”という理念で働くスタッフ達のバックヤードも、たくさんの人達が忙しく仕事をこなしていた。そんな人々が行き交う中をイベントスタッフの服装でセスリーが流れを逆行しながら歩いていた。
先ほどジェネプトロの本部から彼等が追っているターゲットに付いて、詳しい情報が分かったと連絡があった。最初から予想されていたとおり、どうやらMI6の工作員が、隠し金庫の鍵を狙っているとの事だ。しかもその人間はすでに2つのキーを手に入れ、3つめのキーを追っているらしい。と言う事はこの船にキーを持って居る者が乗っている可能性が高い。でなければこんな観光目的の船にスパイが乗船するはずはないからだ。だがスパイが居るとは分かっても、それが誰かを特定するのは骨の折れる仕事だった。
何しろオーシャン・エンパイアは乗客だけでも5,000人以上、乗員乗客合わせれば8,000人もの人間が乗船しているのだ。その中から特定の人物を探し出すのは不可能に近いだろう。
だがそこで彼等は考えた。こういった船に乗っているのは大抵ファミリーかカップル、もしくは友人同士で来た複数の客だ。そんな中で、もし一人で乗船している者が居れば、それは限りなく彼等が探している人物に近いのではないか。勿論どの客が一人で来ているのかを見分けるなど、たった一週間で出来るはずはなかった。だが乗客名簿さえ手に入れば、それが可能となる。
それでセスリーとギルバートはスタッフの中に潜り込み、手分けして乗客名簿を探す事にしたのだった。
やっと誰も人の居ない廊下までやって来ると、セスリーは耳にはめているイヤホンマイクでギルバートに連絡を取った。
「どうだ、そっちは。乗客名簿は手に入りそうか?」
「今船長室に入っているが・・・。やはりパソコンはロックがかかって開かなかった。だが多分、紙媒体でもあるはずだ。チーフマネージャークラスの人間なら持っているんじゃないか?」
チーフマネージャーをこの何千人もいるスタッフの中から探し出せって言うのか?第一持っていたとしても、そう簡単に個人情報を差し出すはずはないだろう。
さっき通ってきたバックヤードにいたスタッフの数を思い出しただけで、うんざりしながらセスリーは答えた。
「それより船長を脅してパソコンのロックを開けさせろ。その方が早い」
「バカ言うな。問題を起こしたら次の寄港地で船がストップする。すぐターゲットに気付かれて逃げられちまうぞ」
くそ、なんて面倒なんだ。セスリーは心の中で“チッ”と舌打ちした。
「分かった。今夜中に何とかするんだ。もし駄目なら他の手を考えるぜ」




