第2話 渇望の刃
夜の湿った風が、僕の頬を撫でていく。
街の灯りは遠く、アスファルトの路面には街灯の鈍い光が落ちていた。僕の右手に握られているのは、鈍色に光る湾曲したナイフだ。手のひらに伝わる柄の冷たさが、僕の胸の奥で渦巻く不快な焦燥感を、ほんの少しだけ和らげてくれる。
僕の胸の中には、生まれた時から底の抜けた大きな穴が空いていた。どれだけ息を吸っても肺を満たせないように、どれだけ言葉を重ねても満たされない、狂おしいほどの欠落感。生きるために酸素を求めるのと同じ切実さで、僕は血の温もりと、命が潰える瞬間の悲鳴を求めずにはいられない。それだけが、この空虚な魂に生の実感を与えてくれる唯一の毒液だった。
頭の奥底で、誰かの指先が躍動するような妙な振動を感じていた。まるで、遠い別の世界で僕の運命の糸を引いている「誰か」がいるような感覚だ。僕が足を一歩踏み出すのも、刃を振り上げる角度も、すべてはその糸の導くままにある気がする。だが、それに抗おうとは思わない。むしろ、その意思と自分の渇望が完全に一致した時、僕の全身を突き抜けるのは、圧倒的な全能感だった。
前方に、数人の男女の影が見えた。笑い声が静かな夜の空気を揺らしている。彼らは、自分たちがこれから直面する惨劇など知る由もなく、平和な日常の延長線上に立っている。
僕の心が激しく脈動した。足りない。一人や二人の命を奪う程度では、もうこの底なしの渇望は埋まらない。僕が今求めているのは、個ではなく群れを対象とした、過剰で破滅的なまでの破壊だ。
「ああ……もっとだ」
掠れた声が口から漏れた。僕はナイフを強く握り直し、闇の中から足を踏み出した。
一筋の悲鳴が夜を切り裂く。刃が肉を裂き、温かい液体が僕の顔や衣類へと飛散した。その瞬間、胸の穴がじわりと熱を帯びて満たされていく。快楽ではない。生きるための補給なのだ。
返り血を浴びながら、僕はふと右の首筋に痒みを覚えた。無意識のうちに、右手でその首筋を強く掻く。誰かに見られているような、あるいは誰かの身体の癖がそのまま自分に乗り移ったかのような、奇妙なシンクロの感覚。
指先に残る血の匂いと、頭の中に響き渡る文字の蠢く音。僕は次なる標的へと向かって、狂おしい渇望のままに刃を振るい続けた。僕という存在は今、誰かの紡ぐ物語の決定的な最高潮として、この世界を絶望で塗り潰していくに違いない。




