第1話 文字の呪縛
鉄の格子の向こう側に広がる世界は、すでに僕の知っているそれとは大きく乖離していた。
狭く冷ややかな留置所の部屋。置かれた粗末な机の上には、一枚の紙と一本の鉛筆がある。本来なら、僕が奪ったとされる命の遺族たちへ向けた、反省と謝罪の言の葉を綴るために与えられたものだ。誰にそれを指示されたのか、いつこの部屋へ入れられたのか、もう明確な記憶はない。ただ僕の意識を支配しているのは、自分が死を迎える前に、あの書きかけの物語を終わらせなければならないという、狂気にも似た強い使命感だけだった。
僕の名前は陣内一樹。今年で三十二歳になるミステリ作家だ。作家としての仕事には、常に狂気と責任の狭間で向き合ってきた。文字を綴るということは、紙の上に架空の命を生み出し、そして惨殺することでもある。だからこそ、自分の生み出す物語には一切の妥協を許さず、人間の奥底に潜む真実だけを描こうと誓っていた。しかし、その信念はあまりにも奇妙な形で裏切られることになる。
数か月前、世間を震撼させる連続猟奇殺人が勃発した。凶行は日本のあらゆる場所で起きていた。被害者たちの遺体は、どれも見るに堪えない惨惨たる状況で発見された。やがて警察の捜査線上に浮かび上がったのは、他ならぬ僕だった。
犯行現場に残された指紋、残存していたDNA、付近の防犯カメラに映り込んだ男の影。あらゆる証拠が、僕が犯人であることを示していた。それも単にデータが一致しただけではない。現場に残された生体反応や痕跡は、まるで数分前まで僕本人がそこに立っていたかのように、生々しく鮮度を保っていたのだ。犯行時刻、僕はいつものように自室で執筆をしていたが、独身で一人暮らしの僕にはそれを証明する目撃者がいない。取り調べを受け、書類送検され、法廷に立ち、判決は下された。
死刑。
身に覚えがないという主張は、鉄壁の証拠群の前に虚しく散った。だが僕が絶望の淵に立たされた理由は、裁判の結果だけではない。警察から見せられた事件の記録が、僕が自分の部屋でPCに向かい、執筆した直後の犯罪小説の内容と寸分違わず一致していたからだ。
僕が書いた犯罪小説は、快楽殺人鬼を描いたものではない。主人公が背負うのは、ただ惨殺を楽しみたいという浅はかな欲求ではなく、内側から突き上げるような激しい渇望だった。生きるために酸素を求めるように、どうしようもなく欠落した己の魂を埋めるために、血と痛みを渇望し、狂おしいほどやむを得ず手を汚してしまう。そうした人間の悲劇と深淵を描いた小説だった。
僕が原稿に文字を刻んだ直後、その文字通りの惨劇が、現実にどこかの街で起きる。僕の身体が夜な夜な抜け出して行ったのか、それとも僕の思想が他者を操ったのか。証明のしようがないまま、僕は死刑囚となった。
机の上にある鉛筆を握り直す。指先に伝わる無機質な木と芯の感触。僕は謝罪文ではなく、ずっと書きかけだった小説の最終章を書き始めた。




