第27話 見えない糸
午後六時二十七分。
大阪の街に、夜が降り始めていた。
神崎玲司は、人通りの多い商店街を歩いていた。
背後には、灰色の上着を着た男。
一定の距離を保ちながら、玲司の後をついてくる。
「……しつこいな」
玲司は小さくつぶやいた。
先ほど、凪には連絡を入れた。
安全な場所へ移動するよう返信も来ている。
だが、玲司には一つ気になることがあった。
尾行者は、自分が調べていた建物の前から現れた。
ライオン運輸と取引のあった、今は営業実態が確認できない会社。
偶然とは思えなかった。
玲司は商店街のガラスに映る背後を確認した。
男はまだいる。
「……ほな、ちょっと試してみるか」
玲司はスマートフォンを取り出した。
凪へ現在地を送る。
『まだついてきてる。人通りのある場所から離れず確認する』
すぐに返信が届いた。
『無茶せんといて。相手と接触せんでもええから』
「分かってるって」
玲司は苦笑した。
そして、歩く速度を落とした。
*
同じ頃。
NEXの事務所では、朝倉凪が複数の資料を並べていた。
昨日、外部へ流出したライオン運輸の取引記録。
倉庫B-24の調査資料。
そして、神崎玲司が調べていた会社の情報。
「……やっぱり、おかしい」
凪は画面を拡大した。
ライオン運輸の過去の取引先には、同じ住所を使っていた複数の会社があった。
社名は違う。
代表者も違う。
だが、連絡先や取引時期には不自然な共通点があった。
凪はその中の一社を選んだ。
株式会社東和ロジスティクス。
数年前に設立され、現在は営業実態が確認できない運送関連会社だった。
ライオン運輸との取引記録には、倉庫B-24に関係する支払いが残されている。
しかし、荷物の運搬を行った記録は見当たらない。
「運んでへんのに、金だけ動いてる……」
凪は別の資料を開いた。
取引先一覧。
入金記録。
そして、関係者の名前。
その中に、一つの名前があった。
斎藤恭介。
「……誰?」
凪は眉をひそめた。
過去の取引記録に、担当者として記載されている。
しかし、ライオン運輸の社員名簿には存在しない。
東和ロジスティクスの公開情報にも、その名前は見当たらなかった。
凪はメモ帳に名前を書いた。
『斎藤恭介』
そして、その横に疑問符をつけた。
「……どこの誰やねん」
そのとき。
「凪、ちょっといい?」
白石美月が会議室へ入ってきた。
「三浦くんと連絡取れたよ」
凪は顔を上げた。
「何か分かった?」
「うん。ちょっと気になる話がある」
*
白石は椅子に座り、手元のメモを開いた。
「三浦くんがライオン運輸にいた頃、倉庫B-24の搬入予定を管理していた人がいたらしいの」
「管理してた人?」
「正確には、現場の社員じゃなくて、外部の人」
凪の指が止まった。
「外部?」
「うん。運送会社の人間でも、倉庫の責任者でもない。でも、搬入時間や車両の変更について指示を出してたらしい」
「名前は?」
「分からないって」
凪は少し考えた。
「顔は?」
「三浦くん自身は会ったことがないみたい。ただ、当時の先輩が何度か対応してたらしい」
「その先輩とは連絡取れる?」
「取れると思う。でも、今はライオン運輸を辞めてるみたい」
「そっか」
白石はメモをめくった。
「それと、もう一つ」
「何?」
「その人たちが使っていた事務所があるらしい」
凪の目が動いた。
「どこ?」
白石は住所を読み上げた。
大阪市内の古い商業ビル。
凪はすぐに地図を開いた。
表示された場所を見て、動きを止めた。
「……美月」
「どうしたん?」
「ここ、玲司が調べてた建物や」
「えっ?」
白石が画面をのぞき込む。
住所は一致していた。
「じゃあ、玲司くんが尾行されたのって……」
「この建物を調べたからかもしれん」
凪はスマートフォンを手に取った。
玲司からの最新のメッセージを確認する。
現在地は、まだ商店街の近くだった。
「……一回、連絡する」
凪は電話をかけた。
*
「もしもし?」
玲司は歩きながら電話に出た。
『玲司、今どこ?』
「送った場所からそんな動いてへん」
『後ろの男は?』
「まだおる」
『無理に追い詰めんといて。今、調べてた建物の情報が出てきた』
「何か分かったん?」
『ライオン運輸の倉庫B-24に関係する人間が、そこを使ってた可能性がある』
玲司は足を止めかけた。
「……マジか」
『うん。せやから、余計に慎重に動いて』
「分かった」
『ほんまに分かってる?』
「信用ないなあ」
『あるから心配してんねん』
玲司は少し笑った。
「……了解」
電話を切る。
背後の男は、まだ一定の距離を保っていた。
玲司は商店街の出口へ向かった。
大通りに出る。
信号が赤になった。
玲司は立ち止まる。
男も止まった。
そのとき、玲司の視界に一台の自転車が入った。
配達員が、歩道脇に停めていた自転車を動かそうとしている。
玲司は自然に進路を変えた。
男も同じ方向へ動いた。
「……確定やな」
玲司は振り返った。
男と目が合う。
ほんの一瞬。
男の表情が変わった。
次の瞬間、男は歩く速度を上げた。
玲司から離れる方向へ。
「おい」
玲司は声をかけた。
男は答えない。
「ちょっと待てや」
男が走り出した。
「……逃げるんかい!」
玲司も走った。
*
男は路地へ入った。
玲司はその後を追う。
狭い通路。
積まれた段ボール。
建物の裏手へ続く階段。
男は階段を駆け上がった。
玲司も続く。
「速っ……!」
男が振り返る。
玲司は階段の手すりを利用して、数段を一気に飛び越えた。
着地。
男との距離が縮まる。
「待てって!」
男は扉を開け、建物の裏側へ抜けた。
そこには、隣の建物へ続く狭い通路があった。
玲司は足を止めず、壁を蹴って方向を変える。
男が驚いたように振り返った。
「何やこいつ……!」
「こっちのセリフや!」
玲司は距離を詰めた。
男が突然、腕を振り回す。
玲司は上体を引いて避けた。
続けて、男が体当たりを仕掛ける。
玲司は半歩横へ動き、相手の勢いを逃がした。
「落ち着けって!」
男は答えない。
再び拳が飛んでくる。
玲司は腕で受け、相手の手首を押さえた。
そのまま壁際へ押し込む。
「誰に頼まれた?」
「離せ!」
「俺をつけてたやろ」
「知らん!」
男が強引に腕を振りほどいた。
玲司の肩を突き飛ばす。
玲司は一歩下がった。
その隙に、男は階段を駆け下りた。
「……くそっ!」
玲司は追いかけようとした。
しかし、男はすでに大通りへ飛び出していた。
車のクラクションが鳴る。
玲司は足を止めた。
無理に追えば、周囲の人間を巻き込む。
「……逃げられたか」
息を整える。
玲司は壁にもたれかかった。
そして、足元に目を向けた。
男が逃げる際、持っていた封筒を落としていた。
茶色い封筒。
中には、数枚の書類が見えた。
「……何やこれ」
玲司は周囲を確認し、落ちていた封筒を拾った。
中身をむやみに広げず、表面に見える文字だけを確認する。
そこには、会社名が記載されていた。
株式会社東和ロジスティクス。
「……東和?」
玲司はスマートフォンを取り出した。
凪へ電話をかける。
*
「東和ロジスティクス?」
凪の声が変わった。
『そう。男が落とした封筒に書いてある』
「玲司、それ今どこ?」
『俺が持ってる』
「中身は?」
『まだちゃんとは見てへん』
「そのまま保管して。触った場所も覚えといて」
『何か分かったん?』
凪は画面を見た。
先ほど調べていた取引記録。
そこに、同じ会社名がある。
「……その会社、ライオン運輸の取引記録に出てきてる」
『マジか』
「うん。それと……」
凪は一瞬、言葉を止めた。
「斎藤恭介って名前、聞いたことある?」
電話の向こうが静かになった。
『……斎藤?』
「そう」
『いや、知らんな』
「そっか」
『誰なん?』
「まだ分からん。でも、東和ロジスティクスの取引に関係してる」
玲司は少し考えた。
『……分かった。とりあえず戻るわ』
「お願い。無理せんといてな」
『もう逃げられたしな』
「ほんま、何してんの」
『いや、向こうが急に走るから』
「追いかけたんやろ?」
『……まあな』
凪はため息をついた。
「帰ってきたら説教や」
『勘弁してくれ』
電話が切れた。
凪は白石を見た。
「……つながった」
「何が?」
「玲司をつけてた男が、東和ロジスティクスの書類を持ってた」
白石の目が大きくなる。
「それって……」
「うん」
凪は静かにうなずいた。
「三浦くんの話、ライオン運輸の記録、玲司の尾行。全部、同じ会社につながってる」
*
午後八時十五分。
NEXの会議室には、航、凪、白石、玲司が集まっていた。
玲司は椅子に座り、肩を回している。
「……ちょっと痛いな」
航が呆れた顔をした。
「お前、また無茶したんか」
「いや、向こうが先に殴ってきたんやって」
「追いかけたんやろ?」
「……まあ」
白石が小さく笑った。
「凪と同じこと言ってる」
「そら言うやろ」
凪は玲司をにらんだ。
「怪我してへん?」
「大丈夫や」
「ほんまに?」
「ほんまやって」
凪はため息をついた。
「……次からは連絡してから動いて」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
航が苦笑した。
「お前ら、親子みたいやな」
「誰が親やねん」
凪と玲司の声が重なった。
一瞬、会議室に笑いが起こった。
しかし、すぐに空気が変わった。
凪が資料を表示する。
「ほな、本題に入るで」
画面には、東和ロジスティクスの情報が映っていた。
「この会社、ライオン運輸と取引があった。でも、記録上は実際に荷物を運んだ形跡が薄い」
航が腕を組む。
「金だけ動いてたんか」
「そう見える。ただ、まだ断定はできへん」
白石が続けた。
「三浦くんの話では、倉庫B-24の搬入予定を外部から調整していた人たちがいたらしいです。その人たちが使っていた事務所の住所が、玲司くんの調べていた建物と一致しています」
玲司が封筒を指さした。
「で、俺をつけてた男がこれを持ってた」
凪は封筒を確認した。
表面には東和ロジスティクスの名前。
中の書類には、取引に関する記載が見える。
ただし、落とし物であり、第三者の所有物である可能性もある。
凪は勝手にすべてを調べることは避け、状況を記録した。
「警察にも相談した方がええな」
航が言った。
「神宮寺さんに連絡する」
白石がうなずいた。
「私から経緯を整理しておきます」
凪は画面を切り替えた。
「それと、もう一つ」
新しい資料が表示される。
取引記録の一部。
そこには、担当者の名前があった。
斎藤恭介。
「この名前が何度か出てくる」
航が画面を見つめた。
「……斎藤恭介?」
「知ってる?」
「いや、俺は知らん」
玲司も首を振った。
「俺も」
白石がメモを取る。
「取引先の担当者?」
「そう記載されてる。でも、所属がはっきりせえへん」
凪は続けた。
「それと、この会社が使ってた住所。今は別の会社名義になってる」
「同じ場所で会社を変えてるんか?」
「可能性はある。でも、登記や契約関係を確認せんと分からん」
航はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……一つずつ確認しよう」
凪が顔を上げる。
「焦って相手の思うつぼになるのが一番あかん」
「うん」
「玲司はしばらく単独で動くな。白石は三浦との連絡を続けてくれ。凪は情報の整理を頼む」
「了解」
三人が答えた。
航は画面を見つめた。
「それにしても……」
「何?」
凪が聞く。
「こいつら、何で今さらライオン運輸の件を動かしてるんやろな」
誰も答えられなかった。
*
午後九時四十三分。
大阪市内。
高層ビルの一室。
窓の向こうには、夜景が広がっていた。
机の上には、整然と並べられた書類。
高価そうな万年筆。
そして、一台のスマートフォン。
男は、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
年齢は三十代後半から四十代ほど。
仕立てのいいスーツ。
落ち着いた表情。
その姿だけを見れば、どこにでもいる有能なビジネスマンだった。
スマートフォンが震えた。
男は画面を確認し、通話に応じた。
「はい」
『……少し問題が起きました』
電話の向こうから、低い声が聞こえた。
「問題?」
『NEXの人間が、東和の事務所を調べています』
男は表情を変えなかった。
「それで?」
『尾行していた人間が接触されました。書類も一部、持っていかれたようです』
「……なるほど」
男は椅子に深く座った。
「怪我人は?」
『大きな怪我はありません。ただ、相手はかなり動ける人間だったようで』
「そうですか」
男は窓の外を見た。
「では、彼にはしばらく休んでもらいましょう」
『処分はどうしますか?』
「処分?」
男は少し笑った。
「失敗した人間を責めても、利益は生まれませんよ」
『……分かりました』
「ただし、同じ失敗を繰り返すなら話は別です」
声は穏やかだった。
しかし、そこに温かさはなかった。
「人を動かすには、費用がかかる。時間もかかる。信用も必要です」
男は万年筆を手に取った。
「無駄な損失は、避けたいものですね」
『はい』
「それで、例の資料は?」
『一部は確保できています。ただ、NEX側に途中で止められました』
「そうですか」
『想定より早く気づかれたようです』
男は少しだけ目を細めた。
「……面白いですね」
『面白い、ですか?』
「ええ」
男は机の上の資料を開いた。
そこには、ライオン運輸の取引記録があった。
「坂東航の周りには、優秀な人間が集まる」
『……』
「彼自身がすべてをできるわけではない。それでも、必要な人間を集めて動かす」
男は静かに笑った。
「経営者としては、なかなか優秀です」
『では、どうしますか?』
「今は動きません」
『しかし、向こうは東和のことを調べ始めています』
「構いません」
男は万年筆を置いた。
「彼らが何を知っているのか、こちらも知る必要がありますから」
『……分かりました』
「それと」
男の声が、わずかに低くなった。
「次は、余計なことをしないように」
『はい』
「こちらの計画に必要なのは、感情ではありません」
短い沈黙。
「結果です」
通話が終わった。
男はスマートフォンを伏せた。
そして、机の上に置かれた一枚の資料を見つめた。
そこには、NEXの会社概要が記載されていた。
代表者。
坂東航。
男は、その名前を指でなぞった。
「……坂東さん」
穏やかな声だった。
「あなたは、どこまで知っているんでしょうね」
窓の外で、車のライトが流れていく。
男は資料を閉じた。
表紙には、一つの名前が記されていた。
斎藤恭介。
その表情には、怒りも焦りもなかった。
ただ、すべてを計算するような冷たい目だけがあった。
見えない糸は、すでに張り巡らされている。
誰が操り、誰が操られているのか。
その答えを知る者は、まだいなかった。
――第27話「見えない糸」終




