第26話 侵食
午前九時十二分。
NEXの事務所に、一本の電話が入った。
「はい、NEXでございます」
いつもどおりの声で電話を取った白石美月は、相手の名前を聞いた瞬間、手元のメモ帳を開いた。
「いつもお世話になっております。はい、白石です」
電話の相手は、NEXと長く取引のある企業の担当者だった。
普段なら仕事の依頼か、請求書の確認。
しかし、その日の用件は違った。
『白石さん、ちょっと確認したいことがありまして』
「はい、何でしょうか?」
『昨日の夜、そちらからメールをいただいてるんですけど』
「昨日の夜、ですか?」
『ええ。取引に関する資料を確認してほしいという内容で』
白石はパソコンの画面を確認した。
送信履歴には、それらしいメールがない。
「恐れ入りますが、送信者のお名前は分かりますでしょうか?」
『坂東代表のお名前になっています』
白石の指が止まった。
「……坂東、ですか?」
『はい。添付されている資料を確認して、指定されたページにログインしてほしいと』
「少々お待ちいただけますか?」
白石は受話器を押さえた。
「航さん」
奥のデスクで書類を読んでいた坂東航が顔を上げる。
「ん?」
「昨日の夜、取引先にメール送られました?」
「いや。昨日は送ってへんけど」
「坂東代表の名前で、資料確認のメールが届いているそうです」
航の表情が変わった。
「送信元は?」
「今、確認します」
白石は電話に戻った。
「申し訳ございません。そのメールについて、こちらでは送信した記録が確認できません。添付ファイルやリンクは開かず、そのまま保管していただけますでしょうか」
『えっ、そうなんですか?』
「はい。確認が取れるまで操作を控えていただきたいんです」
『分かりました。こちらから転送しましょうか?』
「ありがとうございます。ただ、安全な確認方法をこちらからご案内いたしますので、少々お時間をいただけますか?」
電話を切る。
白石はすぐに航を見た。
「嫌な感じがします」
「俺もや」
航は立ち上がった。
「凪、呼べるか?」
「もう連絡します」
白石はスマートフォンを取り出した。
そのときだった。
事務所の電話が、もう一度鳴った。
今度は別の取引先。
内容は同じだった。
さらに三分後、三件目。
白石は受話器を置き、ゆっくり息を吐いた。
「……偶然じゃないですね」
「ああ」
航は窓の外を見た。
「始まったんかもしれんな」
*
「まず、誰もリンク触らんといて」
午前十時過ぎ。
NEXに到着した朝倉凪は、挨拶もそこそこにノートパソコンを開いた。
いつもの気の抜けた雰囲気はない。
白石が状況を説明する。
「今のところ、問い合わせは四件。全部、坂東代表の名前で送られているみたい」
「送信元のアドレスは?」
「会社のアドレスに似てるけど、一文字だけ違う」
「なるほどな」
凪は画面をのぞき込んだ。
取引先の協力で安全に共有されたメールの情報を確認する。
件名は、業務資料の更新について。
本文には丁寧な挨拶。
そして、確認用と称するリンク。
ぱっと見ただけなら、普通の業務メールだった。
「ようできてるな」
凪が小さくつぶやいた。
「そんなに?」
白石が聞く。
「うん。文章も自然やし、送り先も適当ちゃう。NEXと実際に取引のある会社ばっかりや」
「どこかから取引先の情報が漏れたってこと?」
「まだ分からん。公開情報から集めた可能性もある」
凪は画面を切り替えた。
「ただ、気になることがある」
「何?」
「送られた会社の並び」
白石が首をかしげる。
「並び?」
「この四社、全部ライオン運輸と何らかの取引履歴がある」
白石の表情が固まった。
「……ライオン運輸?」
「そう」
凪は椅子の背もたれに体を預けた。
「昨日、三浦くんから連絡あったやろ」
「うん」
「その翌日にこれ。ちょっと出来すぎやと思わへん?」
航が腕を組んだ。
「相手は、俺らがライオン運輸の件を調べたことを知ってるんか」
「可能性は高い」
「何を狙ってる?」
「それを今から調べる」
凪は短く答えた。
そして、白石に視線を向ける。
「美月、お願いがある」
「何でも言って」
「問い合わせしてきた会社に、実際にリンクを開いた人がおるか確認してほしい」
「分かった」
「それと、全取引先に注意喚起を出したい。文章、一緒に考えてくれる?」
「もちろん」
白石はすぐに別のパソコンを開いた。
「先に電話で連絡した方がいい会社もあると思う。担当者を知ってるところは私から直接連絡するわ」
「助かる」
「凪は調査に集中して」
凪が少しだけ笑った。
「頼もしいな、美月」
「こういうときのために、私がいるんやから」
二人の間に、短い笑みが生まれた。
だが、それは長く続かなかった。
凪の画面に、見慣れない通知が現れた。
「……ん?」
指が止まる。
彼女は画面をじっと見つめた。
「どうした?」
航が聞く。
「ちょっと待って」
凪は数秒、何も言わなかった。
そして、低い声で告げた。
「これ、取引先への嫌がらせだけちゃうわ」
*
午前十一時二十八分。
NEXの会議室。
凪はノートパソコンを外部モニターにつないだ。
航と白石が向かい側に座る。
「説明するで」
画面には、複数の時刻と記録が並んでいた。
「偽メールのリンクは、ログイン情報を盗むための偽サイトにつながってた。少なくとも、確認できた範囲ではそういう仕組みになってる」
「取引先の情報を盗むためか?」
航が聞く。
「それもあると思う。でも、本命は別や」
凪は画面の一部を拡大した。
「NEX側の共有資料へのアクセスが、普段と違う形で発生してる」
「うちの資料?」
「うん」
白石が身を乗り出した。
「どの資料?」
「過去案件の保管領域。今のところ、対象が絞られてる」
凪は一度、言葉を切った。
「ライオン運輸の関連資料や」
会議室が静かになった。
航が眉を寄せる。
「なんでそこに?」
「まだ調査中。ただ、偽メールと同じ時間帯に、不自然な認証の動きがある」
「内部の誰かが操作した可能性は?」
「ある。せやから決めつけへん。でも、通常の業務操作とは違う」
白石が口を開いた。
「ライオン運輸の資料って、以前の事件で集めたものよね?」
「そう」
「三浦くんの証言も?」
「証言そのものは別管理。ただ、倉庫B-24の調査資料と取引記録が保管されてる」
航の顔が険しくなる。
「凪、今どこまで分かってる?」
「誰かが資料の一覧を見ようとしてる。さらに一部のファイルに、通常とは違う取得要求が出てる」
「止められるか?」
「やる」
凪は即答した。
パソコンに向き直る。
白石が立ち上がった。
「私は何をしたらいい?」
「今から一時的に資料へのアクセスを制限する。仕事に影響が出る人への連絡をお願い」
「分かった」
「それと、念のため社内の端末を確認して。怪しいメールや通知があっても、誰も触らんように」
「すぐ伝える」
白石は会議室を出た。
航は凪の隣に立つ。
「俺は?」
「航は、外部への連絡を止めんといて。取引先の信用は美月と航が守って」
「お前は?」
凪は画面を見たまま答えた。
「こっちは私が守る」
航は一瞬、何かを言いかけた。
しかし、やめた。
「分かった。任せる」
凪がうなずく。
その直後。
画面の記録が更新された。
凪の目が細くなる。
「……来た」
*
相手は、急いでいなかった。
少なくとも、凪にはそう見えた。
アクセスの間隔。
資料の選び方。
必要なものだけを確かめるような動き。
無差別にファイルを集めようとしているわけではない。
目的がある。
しかも、かなり具体的な目的が。
「取引記録……」
凪は小さくつぶやいた。
画面上では、過去の取引一覧に関連するファイルへのアクセスが続いていた。
続いて、倉庫B-24の調査記録。
搬入時刻。
関係者の証言を整理した資料。
確認できた車両の記録。
凪は管理者権限で対象領域へのアクセスを停止し、認証情報の無効化を進めた。
同時に、現在の状況を保全する。
後で警察に説明できるよう、記録を残すためだった。
「……止まれ」
画面を見つめる。
アクセスが一件、失敗した。
次も失敗。
さらにもう一件。
「よし」
凪は息を吐いた。
しかし、次の画面を見た瞬間、その表情が消えた。
「……嘘やろ」
取得履歴。
その一部に、完了を示す記録が残っていた。
凪は何度も確認した。
時刻を照合する。
保存先を確認する。
操作記録を読み直す。
だが、結果は変わらなかった。
取引記録の一部。
倉庫B-24の調査資料の一部。
それらが、アクセスを停止する前に外部へ持ち出された可能性が極めて高かった。
凪は椅子から立ち上がった。
「……くそっ」
珍しく、声が大きくなった。
机に置いた手に力が入る。
「あと少し早かったら……!」
誰もいない会議室に、凪の声だけが響いた。
彼女は再び画面を確認した。
何かの間違いであってほしかった。
しかし、記録は冷たかった。
止めた。
確かに止めた。
けれど、全部は守れなかった。
「……何やってんねん、私」
凪はうつむいた。
*
「凪?」
会議室の扉が開いた。
白石だった。
手には、取引先への連絡状況をまとめたメモがある。
「注意喚起、主要なところには全部連絡できたよ。今のところ、確認できた範囲では大きな被害の報告はない」
凪は返事をしなかった。
「……凪?」
「ごめん」
その一言で、白石は状況を察した。
「何があったん?」
「止めた。でも……一部、持っていかれた」
白石は静かに隣へ歩いた。
「どの資料?」
「ライオン運輸の取引記録と、B-24の調査資料」
「……そう」
「全部は取られてへん。でも、一部は確実に外へ出たと思う」
凪は唇をかんだ。
「私がもうちょっと早く気づいてたら」
「凪」
「昨日のメッセージもあった。ライオン運輸の件も分かってた。それやのに……」
「凪」
白石が、少し強い声で呼んだ。
凪が顔を上げる。
「今、誰かが責めた?」
「……え?」
「航さんも、私も、凪を責めてへんよ」
「でも、守れへんかった」
「守ってくれたやん」
凪は黙った。
白石は続けた。
「全部盗まれてたかもしれへん。ほかの資料まで被害が広がってたかもしれへん。それを止めたのは凪やろ?」
「……そうやけど」
「悔しいのは分かる。でも、そこで止まってたら、相手の思うつぼちゃう?」
凪は白石を見た。
いつもの柔らかな笑顔ではなかった。
真剣な目だった。
「私、パソコンのことは凪みたいに分からへん」
「……うん」
「でも、人に話を聞いたり、情報を整理したり、相手の反応を見たりすることならできる」
白石はメモを机に置いた。
「一人で全部やろうとせんといて」
凪の肩から、少しだけ力が抜けた。
「……美月って、ほんま強いな」
「そう?」
「うん」
「凪の方がよっぽど強いと思うけど」
「今、めっちゃ落ち込んでるで」
「知ってる」
白石が笑った。
凪も、つられて小さく笑った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
白石は隣の椅子を引いた。
「で、次は何する?」
凪は深く息を吸った。
画面に向き直る。
「まず、盗まれた資料を正確に特定する。それから相手が何を知ろうとしてるのか考える」
「私は?」
「取引先との連絡を続けてほしい。それと、ライオン運輸の関係者に確認したいことがある」
「三浦くん?」
「うん。でも、三浦くんだけやない」
凪は画面の一つを指さした。
「過去の取引先の中に、妙な会社が混じってる」
*
午後二時四十分。
NEXの事務所には、少しずつ普段の空気が戻り始めていた。
とはいえ、電話は鳴り続けている。
白石は取引先への説明を続け、航は関係者への報告と対応に追われていた。
凪は、流出した可能性のある資料を一件ずつ確認していた。
その頃。
別の場所では、真田豪がソファに座っていた。
「……暇や」
豪は天井を見上げた。
体の傷は回復に向かっている。
しかし、まだ無理な運動はできない。
動こうとすれば、周囲から止められる。
特に相馬からは、しつこいほど注意されていた。
「動けるっちゅうねん……」
「誰が?」
声がした。
豪が顔を向ける。
水野沙耶が立っていた。
「……何や、水野か」
「何やって何よ」
「いや、別に」
水野は手に持っていた袋を机に置いた。
「差し入れ」
「何これ」
「ご飯。ちゃんと食べてる?」
「食べてるわ」
「何食べたん?」
「……パン」
「それ、朝?」
「昼も」
水野は呆れた顔をした。
「ほんまにもう」
「何やねん」
「ちゃんとしたもの食べなあかんやろ」
袋から弁当を取り出す。
豪は少し驚いた。
「これ、買ってきたん?」
「うん。ついでやけど」
「ふーん」
「いらんかった?」
「いや、食う」
即答だった。
水野が笑う。
「素直やな、そこは」
豪は弁当のふたを開けた。
「……うまそうやん」
「でしょ」
しばらく、二人は他愛のない話をした。
仕事のこと。
最近の出来事。
豪がどれだけ退屈しているか。
そして、少し沈黙が生まれた。
「……なあ」
豪が口を開いた。
「ん?」
「何でそんな気にかけてくれるん?」
水野の手が止まった。
「何でって……」
「いや、別に嫌とかちゃうけど」
豪は弁当を見たまま続けた。
「俺、別に大したことしてへんやろ」
水野は少し考えた。
「……心配やから、かな」
「心配?」
「うん」
豪は顔を上げた。
水野は目をそらさなかった。
「無茶する人やし」
「……それは否定できへんな」
「でしょ?」
二人が笑った。
豪は箸を持ち直す。
「……ありがとな」
小さな声だった。
水野は聞こえないふりをした。
「何か言った?」
「何も」
「そっか」
窓から、午後の日差しが差し込んでいた。
その時間だけは、事件も、敵も、遠い場所にあるように思えた。
*
午後五時十九分。
「美月、ちょっと来て」
凪が呼んだ。
白石は電話のメモを置き、隣へ移動した。
「何か分かった?」
「まだ断定はできへん。でも、変な共通点がある」
画面には、ライオン運輸の過去の取引記録が並んでいた。
「今回、持ち出された可能性が高いファイルを整理してみた」
「うん」
「全部が全部、同じ時期のものやない。でも、特定の取引に関係する記録が多い」
「特定の取引?」
「倉庫B-24に出入りしてた荷物と、その支払いに関係する記録」
白石が画面をのぞく。
「これ、会社名?」
「そう。ただ、ここを見て」
凪は一つの取引先を指した。
「同じ会社が、時期によって違う名義で出てくる」
「社名変更?」
「その可能性もある。でも、記録上の住所と連絡先が不自然に変わってる」
「別会社ってこと?」
「まだ分からん」
凪は別の資料を開いた。
「ただ、倉庫B-24の調査資料にも、この取引と同じ日付がある」
白石が息をのんだ。
「じゃあ、相手は……」
「過去の取引の中でも、何か特定のものを探してるんかもしれん」
凪は画面を閉じなかった。
さらに、資料の保管履歴を調べる。
その途中で、あることに気づいた。
「……待って」
「どうしたん?」
「この取引、金額が合わへん」
「金額?」
「請求記録と入金記録が一致してない」
白石が身を乗り出した。
「未払いとか?」
「普通ならそう考える。でも、別の名義から同じ時期に入金がある」
凪は画面を並べた。
「しかも、その会社は取引記録上では荷物を扱ってへん」
「……どういうこと?」
「荷物を運んだ会社と、お金を払った会社が違う」
「それだけなら、あり得るんちゃう?」
「もちろん。せやけど、その説明になる契約書が見当たらへん」
白石はしばらく考えた。
「つまり、誰が何のために払ったお金なのか、分からない?」
「そういうこと」
凪は静かにうなずいた。
「相手は、この記録を欲しがった」
「どうして?」
「そこが問題や」
凪はメモ帳に三つの項目を書いた。
取引名義。
入金元。
倉庫B-24。
「この三つがつながってる」
白石が言った。
「じゃあ、三浦くんに確認してみる?」
「うん。ただ、具体的な会社名を電話でいきなり伝えるのは避けたい」
「相手に聞かれてる可能性があるから?」
「そう。昨日のこともあるしな」
白石はうなずいた。
「安全な方法を考えて連絡する」
「お願い」
凪は画面を見つめた。
敵は、何かを探している。
それとも。
何かを消そうとしているのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
相手は、倉庫B-24の過去を終わらせるつもりがない。
*
午後六時過ぎ。
神崎玲司は、大阪市内の古い商業ビルの前に立っていた。
「……ここか」
スマートフォンの画面を確認する。
そこには、以前の調査で見つけた住所が表示されていた。
ライオン運輸と取引のあった小規模な運送関連会社。
現在は、営業実態が確認できない。
玲司はその会社について、独自に調べていた。
凪から頼まれたわけではない。
以前の事件で見つけた関係先を、もう一度確認していただけだった。
斎藤恭介という名前は、まだこの調査には出てきていない。
玲司はビルを見上げた。
四階建て。
古い外壁。
一階にはシャッターの閉まった店舗。
人の出入りは少ない。
「……怪しいな」
独り言をつぶやく。
玲司は建物の入口へ向かった。
しかし、途中で足を止めた。
道路の向こう側。
黒い車が停まっている。
特に珍しい光景ではない。
玲司は気にせず歩き始めた。
だが、数分後。
近くのコンビニで飲み物を買い、別の通りへ出たときだった。
同じ車が、ゆっくりと交差点を曲がってきた。
「……ん?」
玲司は歩く速度を変えなかった。
車は通り過ぎた。
それだけなら、偶然だった。
しかし。
次の角を曲がったとき、今度は別の男が目に入った。
灰色の上着。
黒い帽子。
スマートフォンを見ながら立っている。
玲司はそのまま通り過ぎた。
そして、店のガラスに映る背後を確認した。
男が顔を上げた。
玲司の進む方向を見る。
ゆっくりと歩き始める。
「……なるほどな」
玲司の口元が、わずかに上がった。
「俺を見てんのか」
彼はスマートフォンを取り出した。
凪への連絡画面を開く。
だが、すぐには送らなかった。
相手の目的が分からない。
偶然の可能性も、まだ残っている。
玲司は人通りのある道へ向かった。
無理に接触するつもりはない。
ただ、確認したかった。
本当に、自分が追われているのか。
横断歩道の信号が青に変わった。
玲司が渡る。
背後の男も渡った。
玲司は次の角で立ち止まり、靴ひもを直すふりをした。
男は一瞬、足を緩めた。
それから、不自然に別の方向を向いた。
玲司は確信した。
「……ビンゴ」
スマートフォンを操作する。
凪へ短いメッセージを送った。
『ライオン運輸の関係先を確認中。誰かにつけられてる可能性あり。今から人の多い場所へ移動する』
送信。
玲司は歩き始めた。
その背後で、男が誰かに電話をかけた。
「……対象、動きました」
低い声。
『気づかれたか?』
「おそらく」
短い沈黙。
『無理に近づくな。どこへ行くかだけ確認しろ』
「了解」
電話が切れた。
玲司は振り返らない。
ただ、歩く速度を少しだけ上げた。
街の明かりが、次々と灯り始めていた。
*
同じ頃。
NEXの事務所で、凪のスマートフォンが震えた。
玲司からのメッセージ。
凪は内容を読み、眉をひそめた。
「……玲司?」
白石が顔を上げる。
「どうしたん?」
「玲司が、誰かにつけられてるかもしれんって」
「えっ?」
凪はすぐに返信した。
『無理せんといて。今どこ? 安全な場所に入って』
送信した直後。
凪はもう一度、パソコンの画面を見た。
ライオン運輸の取引記録。
倉庫B-24。
名義の違う入金元。
そして、玲司が調べていた会社。
凪の視線が止まった。
「……美月」
「何?」
「玲司が行った場所、さっき調べてた取引先と関係ある」
白石の表情が変わる。
「偶然?」
「分からん」
凪は静かに答えた。
「でも、もし偶然ちゃうかったら……」
彼女は玲司からの返信を待った。
画面には、まだ何も表示されない。
凪はスマートフォンを握り直した。
「相手は、こっちが調べてることまで知ってるんかもしれん」
そのとき。
新しい通知が届いた。
玲司からではなかった。
昨日と同じ、差出人不明のメッセージ。
凪は画面を開いた。
そこには、短い文章が表示されていた。
『君は、何を守れたと思っている?』
凪の目から、笑みが消えた。
白石が隣から画面をのぞく。
「……これって」
「うん」
凪は答えた。
「昨日のやつや」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて凪は、パソコンの画面へ向き直った。
「……上等や」
その声は、小さかった。
けれど、迷いはなかった。
「こっちも、黙ってやられっぱなしにはせえへん」
白石が隣に座る。
「私も手伝う」
「うん」
凪はうなずいた。
画面には、流出した資料の一覧が残っていた。
相手が持ち出した情報。
まだ持ち出せていない情報。
そして、相手がなぜその資料を選んだのか。
答えは、まだ出ていない。
ただ、凪は一つの可能性を考え始めていた。
相手が欲しがった資料そのものが、相手を見つけるための手掛かりになるのではないか。
敵は情報を奪った。
だが、何を奪ったかという事実までは消せない。
凪は新しいメモを開いた。
最初の一行に、こう書いた。
『相手が知りたかったことを探す』
その下に、もう一行。
『そして、相手が知られたくないことを探す』
窓の外では、夜の大阪が動き始めていた。
誰もが知らない場所で、誰かが誰かを追っている。
そして、追う者と追われる者の境界は、少しずつ曖昧になっていた。
HACKは、まだ始まったばかりだった。
第26話・本文完成。




