第25話 再び動く影
大阪の朝は、いつも通り騒がしかった。
通勤する人々。道路を走るトラック。信号待ちの車列。
何も変わらない日常。
少なくとも、表向きは。
午前九時十二分。
NEXの事務所では、白石美月がデスクに向かっていた。
「……よし。これで午前中の予定は全部確認できた」
パソコンの画面には、取引先との打ち合わせ予定と社員からの報告が並んでいる。
白石はマグカップを手に取り、少し冷めたコーヒーを口にした。
「おはようございます」
背後から声がした。
「おはようございます、坂東さん」
坂東航が事務所に入ってきた。
いつものように落ち着いた表情をしている。
「今日の予定は?」
「午前中は十時から打ち合わせです。午後は十三時から一件、その後は空けています」
「分かった。豪の様子は?」
「まだ療養中ですけど、本人は元気みたいですよ」
「元気すぎるんが問題やな」
航が苦笑した。
「昨日も動こうとして、水野さんに怒られたらしいです」
「……あいつ、ほんま学習せえへんな」
二人が笑った、そのときだった。
電話が鳴った。
白石が受話器を取る。
「はい、株式会社NEXでございます」
『あ、白石さんですか? 三浦です』
「三浦さん? お久しぶりです」
三浦陽平。
かつてライオン運輸に派遣されていたNEXの社員。
あの事件の発端となった人物だった。
『あの……ちょっと相談したいことがあるんですけど』
白石は声の調子が普段と違うことに気づいた。
「どうされました?」
『ライオン運輸の件なんですけど……』
白石の手が止まった。
『また、変なことが起きてるんです』
「変なこと、ですか?」
『はい。僕も詳しいことは分からないんですけど……』
三浦は一度、言葉を切った。
『昨日、昔の同僚から連絡があったんです』
「ライオン運輸の方ですか?」
『そうです。まだ会社に残ってる人なんですけど』
「はい」
『その人が、僕に聞いてきたんです』
「何をですか?」
『……あの倉庫で見たものを、誰に話したんやって』
白石の表情が変わった。
「三浦さん。それは、どういう意味でしょうか」
『僕にも分かりません。ただ、妙にしつこくて』
「その方は、何か理由をおっしゃっていましたか?」
『いえ。誰かに聞かれたから確認してる、みたいな言い方でした』
白石はメモを取り始めた。
「その方のお名前を教えていただけますか?」
三浦が名前を告げる。
白石はそれを書き留めた。
「ありがとうございます。ほかに何かありましたか?」
『……実は、もう一つ』
「はい」
『昨日の夜、知らない番号から電話があったんです』
「電話ですか?」
『出たら、何も言わずに切られて』
「番号は残っていますか?」
『はい』
「分かりました。念のため、着信履歴は消さずに残しておいてください」
『……白石さん』
「はい」
『また、あんなことになるんでしょうか』
白石は少しだけ間を置いた。
「まだ何が起きているのか分かりません。でも、一人で抱え込まないでください」
『……はい』
「こちらでも確認します。何かあれば、すぐ連絡してくださいね」
電話が切れた。
白石は受話器を置き、しばらくメモを見つめていた。
「……坂東さん」
航が顔を上げる。
「三浦さんからです。ライオン運輸の件で、少し気になる連絡がありました」
「聞かせて」
白石は電話の内容を順番に説明した。
航は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「なるほどな」
「どう思われますか?」
「まだ偶然の可能性もある。ただ……」
航は少し考えた。
「三浦がわざわざ連絡してきたんや。無視はできへんな」
「はい」
「凪、呼べる?」
「分かりました」
午前十時四十分。
NEXの会議室。
「で、またライオン運輸?」
朝倉凪は椅子に座るなり、そう言った。
机の上にはノートパソコンと、白石がまとめたメモが置かれている。
「まだ事件と決まったわけではないんですけど」
白石が説明する。
「三浦さんが以前の倉庫の件について、突然聞かれたそうです」
「誰に?」
「元同僚の方です」
「その人が怪しいってこと?」
「そこまでは分かりません」
凪はメモに目を通した。
「知らん番号からの着信もあるんやな」
「はい。ただ、それが関係しているかは不明です」
「なるほど」
凪はパソコンを開いた。
航が二人を見ながら言う。
「今回は、まず事実確認だけでええ」
「分かってる」
凪が答えた。
「勝手に人のシステム入ったりせえへんよ」
「そこまで言うてへんけどな」
「顔に書いてある」
白石が思わず笑った。
航も苦笑する。
「とにかく、三浦の安全が最優先や。白石、連絡窓口を頼む」
「はい」
「凪は情報の整理と分析。必要な資料があれば、正規の手続きで集めてくれ」
「了解」
「俺はライオン運輸との現在の取引状況を確認する」
凪が航を見る。
「なあ、航」
「ん?」
「これ、BANDの仕事になるん?」
航は少しだけ考えた。
「まだ分からん。でも、NEXだけで対応できへん問題になったら、そうなるかもしれんな」
「ふーん」
凪は画面に視線を戻した。
「ほな、最初の事件になるかもしれへんわけや」
「そうやな」
「……ちょっと燃えてきた」
「凪ちゃん」
白石がすぐに声をかけた。
「まだ何も起きてへん方がええんやで?」
「分かってるって」
凪は笑った。
「でも、何かあるなら見つけたいだけ」
同じ頃。
大阪市内の、とあるオフィス。
男が一人、パソコンの画面を見つめていた。
三十代と思われる、どこにでもいそうな男性。
派手な服装でもなければ、特別な雰囲気もない。
机の上にはコーヒーと、整理された書類。
画面には、いくつかの企業名が並んでいた。
その一つに、NEXの文字がある。
男はマウスを動かした。
画面が切り替わる。
今度は、過去の取引記録をまとめた資料だった。
「……ようやく動いたか」
小さくつぶやく。
男はスマートフォンを手に取った。
登録されていない番号へ電話をかける。
数回の呼び出し音。
『なんや』
低い声が返ってきた。
「例の件、動きがありました」
『坂東か?』
「正確には、周辺の人間です」
『……そうか』
男は椅子にもたれた。
「そちらの準備は?」
『問題ない』
「なら、予定通りで」
『お前、ほんまにできるんやろな』
男は少し笑った。
「私が今まで、情報を間違えたことがありましたか?」
電話の向こうが黙る。
「心配せんでも大丈夫ですよ」
男は画面に映るNEXの文字を見つめた。
「今回は、金だけの話やありませんから」
通話が切れた。
男はスマートフォンを伏せる。
そして、静かにキーボードへ手を伸ばした。
午後二時十五分。
凪はNEXの一室で、白石と向かい合っていた。
「美月、ちょっとこれ見て」
「どうしたん?」
凪は画面を指さした。
「三浦さんから聞いた内容と、前の事件の資料を整理してたんやけど」
「うん」
「時系列が妙なんよ」
画面には、ライオン運輸に関係する出来事が並んでいる。
三浦が不審な現場を目撃した日。
NEXが調査を始めた日。
警察が動いた日。
そして、今回の連絡。
「どこが妙なん?」
「三浦さんに連絡してきた人、昔の倉庫の件を今さら確認してるやろ?」
「そうやね」
「なんで今なんやろ」
白石は少し考えた。
「事件の捜査が続いているから、とか?」
「それもある。でも、それやったら警察に相談する方が自然ちゃう?」
「確かに」
凪は腕を組んだ。
「誰かが三浦さんの話した内容を確認したがってる。そう考えた方が筋は通る」
「でも、誰が?」
「そこが分からん」
白石はメモを見直した。
「私、三浦さんにもう一度確認してみる」
「何を?」
「昨日連絡してきた元同僚の方が、どういう様子だったか。誰かに頼まれているように感じた理由も」
「ええな」
凪が頷く。
「私は公開情報と、こっちに残ってる資料をもう少し調べる」
白石は立ち上がった。
「あ、凪ちゃん」
「ん?」
「お昼、食べた?」
「……まだ」
「やっぱり」
「今から食べるって」
「その言葉、信用できへんねんけど」
「美月、お母さんみたいやな」
「誰がお母さんやねん」
二人は笑った。
だが、凪の目はすぐに画面へ戻った。
何かが引っかかっていた。
まだ説明できない、小さな違和感。
それが何なのか。
凪自身にも分かっていなかった。
午後四時三十分。
白石が再び三浦と連絡を取った。
「三浦さん、何度もすみません」
『いえ、大丈夫です』
「先ほどの元同僚の方について、もう少し教えていただけますか?」
『はい』
「その方、何か変わった様子はありませんでしたか?」
三浦はしばらく考えた。
『……そういえば』
「はい」
『なんか、誰かに確認するよう言われたって感じでした』
「そう感じた理由は?」
『僕が何を見たかより、誰に話したかばっかり聞いてきたんです』
白石はペンを止めた。
「……なるほど」
『あと、変なこと言うてました』
「何でしょう?」
『あのときのこと、まだ全部終わってへんらしいで、って』
白石の表情が引き締まった。
「それは、その方が?」
『はい。でも、何のことか聞いても答えてくれなくて』
「分かりました。ありがとうございます」
電話を終えた白石は、すぐに凪のもとへ向かった。
「凪ちゃん」
「ん?」
「三浦さんから、追加で話が聞けた」
凪は画面から顔を上げた。
白石が内容を説明する。
すると、凪の表情が変わった。
「……誰に話したか、ばっかり聞いてた?」
「うん」
「なるほどな」
「何か分かった?」
「いや、まだ」
凪は少し考え込んだ。
「でも、これって三浦さんが見たものを知りたいんやなくて……」
「うん?」
「三浦さんから情報がどこまで広がったか、知りたいんちゃうかな」
白石は息をのんだ。
「つまり……」
「誰が何を知ってるか。それを調べてる可能性がある」
二人の間に沈黙が流れた。
凪はゆっくりパソコンを閉じた。
「美月」
「何?」
「航に報告しよ」
夕方。
NEXの会議室には、航、凪、白石の三人が集まっていた。
凪が説明を終えると、航は静かに頷いた。
「なるほど。情報の流れを確認してる可能性がある、か」
「うん」
「ただ、まだ推測やな」
「分かってる」
航は白石に視線を向けた。
「三浦の様子は?」
「かなり不安そうでした。しばらくはこちらからも連絡を取ります」
「頼む」
凪が口を開く。
「航、ちょっと気になることがある」
「何や?」
「もし誰かが昔の事件について、誰がどこまで知ってるか調べてるんやとしたら……」
「うん」
「三浦さんだけやなくて、NEXも対象になってる可能性がある」
航はしばらく黙っていた。
「……そうやな」
「念のため、社内の情報管理も確認したい」
「分かった。必要な範囲で頼む」
白石が頷く。
「私も取引先から何か連絡がないか、確認しておきます」
航は二人を見た。
「無理はせんといてな」
凪が笑う。
「それ、豪に言うた方がええんちゃう?」
「豪には百回くらい言うてる」
「百回で足りるかな」
白石が真顔で言った。
三人は思わず笑った。
だが、航の胸には小さな不安が残っていた。
獅童との戦いは終わった。
しかし、あの事件に関わった人間すべてが、表舞台から消えたわけではない。
そして今、何者かが再び動き始めている。
夜。
大阪市内の一室。
昼間の男が、再びパソコンの前に座っていた。
画面には、NEXの公開情報が表示されている。
男はその中から、ある名前を見つけた。
朝倉凪。
「……こいつか」
男は小さくつぶやいた。
しばらく画面を見つめる。
そして別のウィンドウを開いた。
そこには、短い文章が入力されていた。
『坂東航に伝えろ。まだ終わっていない。』
男は送信先を確認する。
だが、すぐには送らなかった。
「……いや」
文章を削除する。
代わりに、新しい一文を入力した。
『君なら、気づくはずだ。』
男はしばらくその文章を眺めた。
そして、送信ボタンを押した。
午後九時四十七分。
凪は自宅でノートパソコンを開いていた。
NEXの資料を整理し、翌日の確認事項をまとめている。
「……ん?」
新着メールの通知が表示された。
差出人は見覚えのないアドレス。
件名は空白。
本文には、たった一行。
『君なら、気づくはずだ。』
凪は眉をひそめた。
「……何これ」
添付ファイルはない。
リンクもない。
ただの短い文章。
凪は差出人の情報を確認した。
しかし、それだけで相手を特定できるはずもなかった。
「いたずら……?」
そうつぶやきながらも、凪はメールを削除しなかった。
なぜか、妙に引っかかった。
今日一日、感じていた違和感。
三浦への連絡。
過去の事件。
情報がどこまで伝わったのかを確認するような質問。
そして、このメール。
すべてがつながっている証拠はない。
それでも。
「……誰や、お前」
凪は画面を見つめた。
その表情から、先ほどまでの笑みが消えていた。
同じ頃。
大阪のどこかで、一人の男がスマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。
窓の外には、街の明かりが広がっている。
男は冷めたコーヒーを口にした。
「坂東航……」
その名前を口にすると、わずかに表情が変わった。
「人の商売、潰しといて……」
男は小さく笑った。
「自分だけ、次の仕事か」
机の上には、古い取引記録が置かれていた。
そこには、すでに使われなくなった取引先の名前と金額が並んでいる。
男は書類を閉じた。
「まあ、ええわ」
窓の外へ視線を向ける。
「今度はこっちの番や」
その声を聞く者は、誰もいなかった。
HACK 第25話「再び動く影」――完




