第28話 反撃の糸口
午前七時四十二分。
大阪の空は、朝から厚い雲に覆われていた。
NEXの事務所には、まだほとんど人がいない。
その静かな空間で、朝倉凪は一人、パソコンの画面を見つめていた。
「……やっぱり、ここや」
机の上には、飲みかけのコーヒー。
画面には、ライオン運輸と東和ロジスティクスの取引記録が表示されている。
昨夜、玲司が持ち帰った封筒については、神宮寺彪に連絡を入れた。落とし物としての扱いや、尾行された経緯を含めて確認してもらうことになっている。
凪が今調べているのは、NEXに保管されていた正規の資料だった。
その一部は、数日前の不正アクセスによって外部へ流出している。
だが、問題はそれだけではなかった。
「消えてるんちゃう……」
凪はキーボードを叩いた。
「消したように見せてるだけや」
画面の中で、古い保存履歴が開かれる。
通常の一覧からは確認できなくなっていた取引記録。
しかし、バックアップには更新前の情報が残っていた。
凪は一つずつ照合していく。
取引日。
請求金額。
振込先。
搬入場所。
そして、承認者。
「……何やねん、これ」
同じ日付に、二つの支払いがあった。
一つはライオン運輸から東和ロジスティクスへ。
もう一つは、東和ロジスティクスから別の会社へ。
金額はほぼ同じ。
しかし、取引内容は異なっていた。
前者は運送業務委託費。
後者は設備管理費。
「荷物を運んだことになってる金が、設備管理費に変わってる……?」
凪はさらに記録を追った。
その先にも、別の会社があった。
名前だけが変わり、資金が移動している。
正当な再委託の可能性はある。
だが、契約書の所在が不明な取引が多すぎた。
「……誰かが、わざと分かりにくくしてる」
凪は新しいフォルダを作成した。
名前は『B-24/取引照合』。
そして、復元した記録を一つずつ保存していった。
*
午前八時三十分。
「おはよう、凪」
白石美月が事務所に入ってきた。
「……って、もう仕事してるん?」
「おはよ」
「何時から?」
「七時くらい」
「早っ」
白石は凪の机をのぞき込んだ。
「昨日も遅かったやろ?」
「ちょっと気になって」
「その『ちょっと』が信用できへんのよ」
白石は苦笑しながら、コンビニの袋を机に置いた。
「はい」
「何?」
「サンドイッチ。朝ごはん食べてへんやろ?」
「……何で分かるん」
「顔見たら分かる」
「そんな顔してる?」
「してる」
凪は少し笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
白石は自分の席に座った。
だが、パソコンを開いた瞬間、その表情が変わった。
「……凪」
「ん?」
「また来てる」
「何が?」
「取引先からの問い合わせ」
白石はメールを開いた。
件名は『NEXからの重要なお知らせについて』。
本文には、昨日とは異なる内容の偽メールが届いたと書かれていた。
NEXの内部情報が流出したため、今後の取引を見直す必要がある。
そんな文章が、NEXの名前を使って送信されていた。
「……今度はログインさせるんちゃうんや」
凪がつぶやいた。
「うん。今回は、うちが信用できへん会社やって思わせたいみたい」
白石は受信したメールを見つめた。
「しかも、送信先が増えてる」
「何社?」
「今確認できてるだけで七社」
凪の表情が険しくなった。
「……狙いを変えてきたな」
「そうやね」
白石はすぐに電話を手に取った。
「私、取引先に連絡する」
「待って」
凪が声をかけた。
「まず、偽メールの原本を残して。送信元の情報も必要やから」
「分かった」
「それと、取引先にはメールのリンクや添付ファイルを開かんように伝えて」
「うん」
白石はメモを取った。
「凪は?」
「こっちを調べる」
凪は画面を切り替えた。
「向こうが何を使って送ってきたんか、確認する」
白石はうなずいた。
「じゃあ、私は人間相手に戦うわ」
凪が顔を上げた。
「……何それ」
「凪はパソコン。私は電話」
白石は笑った。
「役割分担やろ?」
凪も小さく笑った。
「せやな」
その瞬間、二人の表情が引き締まった。
*
午前十時十五分。
NEXの会議室。
坂東航は、白石から報告を受けていた。
「現時点で、七社に偽メールが届いています。ただ、こちらから先に連絡できた会社もあるので、大きな混乱にはなっていません」
「取引停止の話は?」
「まだありません。でも、説明を求められている会社はあります」
航はうなずいた。
「分かった。必要なら俺が直接説明する」
「ありがとうございます」
「白石、一人で抱え込まんでええからな」
「はい」
白石は少し笑った。
「でも、今は私が対応した方が早いと思います」
「……頼もしいな」
航が笑う。
「ただ、何かあったらすぐ言ってくれ」
「もちろんです」
白石が会議室を出ると、航は凪の方を向いた。
「どうや?」
「まだ途中」
凪はノートパソコンを開いた。
「でも、少し分かってきた」
画面には、複数の通信記録が表示されていた。
「今回の偽メールと、前回の不正アクセス。直接の送信元は違う」
「別の犯人ってことか?」
「それはまだ分からん」
凪は首を振った。
「ただ、攻撃に使われた設備の一部に、共通する特徴がある」
「特徴?」
「通信の中継に使われたサーバーの設定や、アクセスした時間帯。それと、残ってた接続履歴」
凪は画面を拡大した。
「前回の不正アクセスは、いくつかの中継地点を通ってた。今回の偽メールも、別の経路を使ってるように見える」
「追えるんか?」
「全部は無理。でも、共通する部分はある」
航は画面を見つめた。
「つまり、同じ人間が関わってる可能性がある?」
「うん。ただし、確証はない」
凪は少し間を置いた。
「それと……」
「何や?」
「昨日、玲司が調べてた建物」
航の目が動いた。
「あそこか」
「うん。あの場所に関係する会社が、過去に通信設備の契約をしてた記録がある」
「東和ロジスティクス?」
「関連会社の名義やけどな」
凪は資料を表示した。
「今も使われてるかは分からん。でも、調べる価値はある」
航は腕を組んだ。
「……ただの事務所やなかった可能性があるんか」
「そう」
凪は画面を見つめた。
「もしかしたら、あそこは……」
少し考えてから、続けた。
「本当の拠点やなくて、途中で情報を通す場所やったんかもしれん」
*
同じ頃。
大阪市内の喫茶店。
神崎玲司は、窓際の席に座っていた。
目の前には、一杯のアイスコーヒー。
スマートフォンには、凪から送られてきたメッセージが表示されている。
『斎藤恭介について、何か思い出したら教えて』
玲司はその名前を見つめた。
「……斎藤、恭介」
昨夜は、知らないと答えた。
正確には、名前だけでは思い出せなかった。
だが、東和ロジスティクスという会社名。
そして、取引記録に残された古い住所。
その二つを見たときから、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
「……まさかな」
玲司は目を閉じた。
記憶が、少しずつ戻ってくる。
*
十数年前。
大阪の古い住宅街。
まだ少年だった玲司は、自宅の玄関に立っていた。
目の前には、スーツ姿の男が二人。
一人は体格のいい男。
もう一人は、細身で整った顔立ちの男だった。
「お母様はいらっしゃいますか?」
細身の男が、丁寧な口調で尋ねた。
「……おらん」
「そうですか」
男は微笑んだ。
「では、お戻りになりましたら、こちらをお渡しください」
差し出されたのは、一枚の封筒だった。
玲司は受け取らなかった。
「また金の話か」
男は少しだけ首を傾げた。
「お金の話、と言えばそうですね」
「もう何回も来てるやろ」
「申し訳ありません。ただ、こちらにも事情がありますので」
「事情?」
玲司は男をにらんだ。
「うちにも事情あるわ!」
体格のいい男が一歩前に出た。
「おい、ガキ――」
「やめなさい」
細身の男が静かに制した。
「子ども相手に大きな声を出す必要はありません」
男は玲司へ向き直った。
「お名前は?」
「……神崎玲司」
「玲司くんですか」
男は微笑んだ。
「私は斎藤と申します」
玲司は黙っていた。
「お母様には、約束を守っていただきたい。それだけなんです」
「払える金なんかないって言うてるやろ!」
「そうかもしれません」
斎藤は穏やかに答えた。
「ですが、払えないことと、払わなくていいことは違います」
玲司は拳を握った。
「……帰れや」
斎藤は少しだけ目を細めた。
「分かりました」
意外にも、あっさり引き下がった。
しかし、帰り際。
斎藤は振り返った。
「玲司くん」
「……何や」
「大切な人を守りたいなら、感情だけで動かないことです」
そして、微笑んだ。
「世の中は、そういう仕組みですから」
*
数日後。
玲司は一人で、指定された事務所を訪ねていた。
家族には内緒だった。
古い商業ビル。
狭い階段。
薄暗い廊下。
扉の向こうには、斎藤がいた。
「……おや」
斎藤は少し驚いた顔をした。
「玲司くん」
「話がある」
「どうぞ」
斎藤は椅子を勧めた。
玲司は座らなかった。
「もう家に来んといてくれ」
斎藤は静かに聞いていた。
「母ちゃん、毎日しんどそうやねん。電話も鳴るし、夜も寝られへんし」
「……そうですか」
「俺、働くから」
斎藤の指が止まった。
「働く?」
「金、返したらええんやろ。俺が何とかする」
斎藤はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「玲司くん」
「何や」
「君は、いくつですか?」
「……十五」
「十五歳」
斎藤は小さくうなずいた。
「残念ですが、君が今すぐ全額を返すのは現実的ではありません」
「じゃあ、どうしたらええねん!」
玲司の声が大きくなった。
斎藤は動じなかった。
「まず、落ち着きましょう」
「落ち着けるか!」
「怒っても、金額は減りませんよ」
その一言に、玲司は言葉を失った。
斎藤は机の上に書類を置いた。
「私が必要としているのは、約束が守られることです」
「……」
「君が家族を守りたい気持ちは分かります」
男は微笑んだ。
「ですが、気持ちと結果は別です」
玲司は唇をかんだ。
何も言い返せなかった。
斎藤は最後に、こう告げた。
「強くなりなさい、玲司くん」
「……何?」
「本当に誰かを守りたいなら、相手と交渉できるだけの力を持つことです」
その声は、どこまでも穏やかだった。
だからこそ、玲司には恐ろしく聞こえた。
*
現在。
喫茶店の窓に、玲司の顔が映っていた。
「……あいつか」
玲司はゆっくりと息を吐いた。
忘れたつもりだった。
いや、忘れようとしていた。
あの男の顔。
あの声。
そして、笑いながら人を追い詰めるような話し方。
「……斎藤恭介」
玲司はスマートフォンを手に取った。
凪へ電話をかける。
「もしもし」
『玲司?』
「……思い出した」
『何を?』
「斎藤のことや」
電話の向こうで、凪が黙った。
「俺、昔あいつに会ってる」
*
午後一時四十分。
NEXの会議室。
玲司は、過去の出来事を話していた。
凪、白石、航が黙って聞いている。
「……家の借金?」
白石が静かに尋ねた。
「そう」
玲司はうなずいた。
「詳しい事情は、当時の俺には分からんかった。でも、母ちゃんが金のことで苦しんでたんは覚えてる」
「斎藤が取り立てに来てたんか」
航が聞いた。
「少なくとも、あいつはその話をしに来てた」
玲司は答えた。
「直接、家にも来た。俺が事務所に行ったこともある」
凪は画面に表示された住所を指さした。
「その事務所、ここ?」
玲司はしばらく見つめた。
「……似てる」
「同じ?」
「断定はできへん。でも、階段の位置とか、建物の感じは覚えてる」
凪はうなずいた。
「分かった。確認してみる」
白石が玲司を見た。
「……大丈夫?」
「何が?」
「昔のこと、思い出して」
玲司は少し笑った。
「大丈夫やって」
しかし、その笑顔はどこかぎこちなかった。
白石はそれ以上、聞かなかった。
代わりに、静かに言った。
「無理せんといてな」
「……ありがと」
航が口を開いた。
「玲司」
「ん?」
「斎藤に個人的な因縁があるんは分かった」
「……ああ」
「でも、一人で動くなよ」
玲司は航を見た。
「お前が昔、どんな思いしたんか、俺には全部分からん」
航は続けた。
「せやけど、今は一人ちゃうやろ」
玲司はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……分かってる」
凪も口を開いた。
「斎藤が今の攻撃に関わってるかは、まだ分からん」
「うん」
「せやから、ちゃんと証拠を集める」
玲司は凪を見た。
「……頼むわ」
「任せとき」
凪は少し笑った。
「情報戦なら、こっちの仕事や」
*
午後三時十分。
大阪市内の高層ビル。
斎藤恭介は、机の上に置かれた資料を読んでいた。
NEXの取引先一覧。
その横には、複数の会社名が並んでいる。
スマートフォンが鳴った。
「はい」
『予定どおり、メールは送信しました』
「反応は?」
『NEX側が早く動いています。取引先への説明も始まっているようです』
「そうですか」
斎藤はペンを置いた。
『追加で送りますか?』
「いいえ」
『……よろしいんですか?』
「同じ方法を繰り返しても、相手は慣れます」
斎藤は穏やかに答えた。
「今回は、反応を見ることが目的でしたから」
『反応、ですか』
「ええ」
斎藤は資料をめくった。
「誰が動くのか。誰が判断するのか。どこに負担が集中するのか」
その指が、白石美月の名前の上で止まった。
「……なるほど」
『何か?』
「いえ。思ったより、組織として機能しているようです」
斎藤は微笑んだ。
「坂東航は、人を使うのが上手い」
『では、次は?』
「別の方向から確認しましょう」
斎藤は一枚の資料を取り出した。
そこには、神崎玲司の名前があった。
「……彼には、昔お会いしたことがあります」
『神崎玲司、ですか?』
「ええ」
斎藤は目を細めた。
「随分、立派になられたようですね」
『接触しますか?』
「そうですね」
斎藤は少し考えた。
「ただし、脅す必要はありません」
『では?』
「思い出していただくだけで十分です」
電話の向こうが静かになった。
斎藤は続けた。
「人は、過去を忘れたつもりでも、完全には忘れられないものです」
その声には、わずかな笑みが含まれていた。
*
午後五時二十二分。
NEXの事務所。
白石は、最後の取引先への電話を終えた。
「……よし」
受話器を置く。
大きく息を吐いた。
凪が顔を上げる。
「終わった?」
「今日の分はね」
「どうやった?」
「全部説明できた。何社かは追加資料が必要やけど、今のところ取引停止の話は出てへん」
「……すごいやん」
「いやいや、まだ安心できへんよ」
白石は笑った。
「でも、ひとまずはね」
凪はうなずいた。
「ありがとう、美月」
「何で凪がお礼言うん?」
「私が止めきれへんかった攻撃やから」
白石は少し驚いた顔をした。
そして、椅子を引いて凪の隣に座った。
「凪」
「ん?」
「それ、違うで」
「……何が?」
「凪が全部止めなあかんわけちゃうやろ」
凪は黙った。
「私かて、取引先に説明はできるけど、偽メールの仕組みなんか分からへん」
「……うん」
「でも、凪が調べてくれたから、ちゃんと説明できた」
白石は微笑んだ。
「一人で全部できへんから、みんなでやってるんやろ?」
凪は少しだけ目を伏せた。
そして、笑った。
「……せやな」
「そうそう」
白石は立ち上がった。
「ほな、コーヒー入れてくる」
「私も欲しい」
「知ってる」
「何でやねん」
二人は笑った。
その直後。
凪のパソコンから、小さな通知音が鳴った。
「……ん?」
凪は画面を見た。
復元処理が完了していた。
古い取引記録の一部。
その中に、これまで見つからなかった資料があった。
ファイル名。
『B24_管理費精算_旧』
凪は慎重にファイルを開いた。
そこには、複数の支払い記録が記載されていた。
ライオン運輸。
東和ロジスティクス。
そして、別の管理会社。
凪は金額を照合した。
「……待って」
画面を拡大する。
ある取引だけ、他の記録と異なる処理がされていた。
支払いが完了した後、同じ金額が別の名目で戻されている。
しかし、戻された先は元の会社ではない。
「……何これ」
凪はさらに調べた。
取引先コード。
承認番号。
管理担当者。
そして、備考欄。
そこには短い文章が残されていた。
『旧契約分については、S担当へ確認』
「……S?」
凪は別の資料を開いた。
斎藤恭介。
過去の取引記録に残された名前。
その横には、同じ担当者コードが記載されていた。
凪の指が止まった。
「……つながった」
白石が戻ってきた。
「何が?」
凪は画面を指さした。
「この取引。斎藤の名前が残ってる」
「えっ?」
「それだけちゃう」
凪は別の画面を表示した。
前回の不正アクセスの記録。
そこには、流出した資料の一覧があった。
そして、今回復元した資料と同じ取引番号が含まれていた。
「……これ」
白石が画面を見つめる。
「向こうが盗もうとした資料?」
「そう」
凪はうなずいた。
「偶然かもしれん。でも、敵が欲しがってた情報と、斎藤が関わった可能性のある取引が重なってる」
「じゃあ、斎藤が犯人?」
「まだ決めつけられへん」
凪は首を振った。
「ただ、少なくとも……」
その目が鋭くなる。
「敵が何を探してたんか、少し見えてきた」
*
午後六時四十八分。
玲司のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
知らない番号だった。
『お久しぶりです。神崎玲司さん』
玲司は足を止めた。
続けて、もう一通。
『ご家族は、お元気ですか?』
玲司の表情が変わった。
「……まさか」
三通目。
『昔、お話ししたことを覚えていらっしゃいますか?』
玲司は画面を握りしめた。
頭の中に、あの声がよみがえる。
丁寧な口調。
穏やかな笑顔。
そして、冷たい目。
「……斎藤」
玲司は返信しようとした。
しかし、指が止まった。
航の言葉を思い出した。
『今は一人ちゃうやろ』
玲司はゆっくり息を吐いた。
そして、メッセージの画面を保存した。
凪へ送る。
『斎藤らしき相手から連絡来た。これ見てくれ』
すぐに既読がついた。
『返信せんといて。今どこ?』
『帰る途中』
『そのままNEX来れる?』
『行く』
玲司はスマートフォンをポケットにしまった。
「……今度は、一人で行かへんからな」
*
午後七時三十五分。
NEXの会議室。
凪は、玲司から送られてきたメッセージを確認していた。
「……これは、明らかに玲司の過去を知ってる人間やな」
玲司がうなずく。
「たぶん斎藤やと思う」
「でも、番号だけでは本人と断定できへん」
「分かってる」
白石が静かに言った。
「相手は、玲司くんが一人で動くのを待ってるんかもしれへんね」
航も同意した。
「その可能性はあるな」
玲司は椅子にもたれた。
「……昔と同じや」
「何が?」
凪が聞いた。
「あいつ、怒鳴ったりせえへんねん」
玲司は苦笑した。
「普通に話しかけてくる。丁寧に、優しく」
少し間を置いた。
「でも、こっちが何を嫌がるか、全部分かってるみたいな話し方する」
凪は画面を見つめた。
「……嫌なタイプやな」
「せやろ」
白石が玲司を見た。
「でも、今回は違うよ」
「……何が?」
「玲司くん一人に連絡が来たけど、もう私ら全員知ってる」
玲司は少し驚いた顔をした。
白石は続けた。
「相手が一人ずつ狙ってくるなら、こっちは一人にせえへんかったらええ」
航が笑った。
「それやな」
凪もうなずいた。
「うん」
そして、ノートパソコンを開いた。
「それに、こっちにも一つ分かったことがある」
画面には、復元された取引記録。
通信経路の分析結果。
そして、斎藤恭介の名前。
「過去の取引と、今回の攻撃。まだ全部はつながってへん」
凪は続けた。
「でも、相手が探してる資料には共通点がある」
航が尋ねた。
「何や?」
「倉庫B-24に関係する、特定の資金移動」
凪は画面を拡大した。
「それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「通信の中継地点」
凪は地図を表示した。
玲司が調べていた古い商業ビル。
その周辺に、複数の通信設備の契約履歴が残っていた。
「全部が今回の攻撃に使われたとは限らん。でも、調査する価値はある」
航はうなずいた。
「神宮寺さんにも相談しよう」
「うん」
凪は画面を閉じた。
そして、三人を見た。
「……今までは、向こうの攻撃を止めるだけやった」
白石がうなずく。
「そうやね」
「でも、ようやく分かった」
凪は小さく笑った。
「相手も、何かを隠そうとしてる」
玲司が顔を上げた。
「……ほな?」
「探すで」
凪は静かに答えた。
「向こうが隠したいものを」
*
午後十時十一分。
大阪市内の高層ビル。
斎藤恭介は、窓の外を見つめていた。
スマートフォンには、短い報告が届いている。
『神崎玲司、返信なし』
斎藤は小さく笑った。
「……成長しましたね」
机の上には、NEXに関する資料。
その中に、朝倉凪の名前があった。
斎藤はそのページを開いた。
「坂東航」
続いて、白石美月。
神崎玲司。
そして、朝倉凪。
斎藤は万年筆を置いた。
「……なるほど」
電話が鳴った。
相手の名前は表示されていない。
「はい」
『NEXが、古い記録を復元し始めています』
低い声が聞こえた。
「そうですか」
『予想より早いです』
「ええ。少し意外でした」
『どうしますか?』
斎藤はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「今は、そのままで」
『……よろしいんですか?』
「構いません」
斎藤は資料を閉じた。
「彼らが何を見つけるのか、確認しましょう」
『危険では?』
「危険かどうかは、情報の使い方次第です」
斎藤は微笑んだ。
「それに……」
窓の外で、車のライトが流れていく。
「人は、答えに近づいたと思ったときほど、周りが見えなくなるものです」
通話が終わった。
斎藤は一人、夜景を見つめた。
その表情は、相変わらず穏やかだった。
*
同じ頃。
NEXの事務所。
凪は一人、最後の確認作業を続けていた。
復元された取引記録。
不正アクセスの履歴。
偽メールの送信情報。
それぞれを別々に見ている限り、分からなかった。
だが、時系列に並べると、一つの共通点が浮かび上がった。
過去の取引記録が閲覧された直後に、不審な通信が発生している。
しかも、複数回。
「……これ」
凪は目を細めた。
偶然では説明しにくい。
誰かが、NEX側の調査状況を知ろうとしている。
ただし、どの方法で把握しているのかは不明だった。
「……見られてる?」
凪は一度、手を止めた。
そして、画面を閉じた。
すぐに新しい作業を始める。
アクセス権限の再確認。
保存履歴の保全。
外部との共有設定の点検。
攻撃者を追う前に、自分たちの情報を守る。
その必要性を、凪は誰よりも理解していた。
「……好きにはさせへんで」
凪は小さくつぶやいた。
画面には、保存された取引記録の一覧が並んでいる。
消されたはずの情報。
隠された資金の流れ。
そして、斎藤恭介という名前。
まだ、真相には遠い。
敵の正体も、目的も、すべては分かっていない。
それでも。
凪は確かに、一つの糸口をつかんでいた。
追われる側から、追う側へ。
守るだけの戦いは、ここで終わる。
反撃は、まだ始まったばかりだった。
第28話「反撃の糸口」終




