2話. 新しい生活
僕は田舎の農家の家に飼われていた。
いつもお日様が顔を出し始めた時間から、朝の湿ったいい匂いのする森や畑に、ご主人様のおじいちゃんがお散歩に連れていってくれていた。
いつも行く森はもう僕の庭と言っても良いくらいに慣れていた。
紐を外してもらい、自由にそこらじゅう走り回っては身体中に葉っぱや泥を付けて汚していた。
「ハヤテー戻ってこーい!」
おじいちゃんの声が聞こえると急いで戻らないと!心配させちゃうもんね。
ハアハアと息を荒くして戻る。
「ハヤテ、お前は本当に元気なやんちゃ坊主だなぁ」
おじいちゃんは身体に付いた葉っぱを摘まみとり、しわくちゃの笑顔で頭を撫でていた。
『森や畑の周りには沢山の危険な生き物がいるから、本当はパトロールしているのさ!おじいちゃんとおばあちゃんは、僕が守らないとね!』
僕はいつもそんな気持ちで、色々な臭いを嗅ぎながら毎日を過ごしていたんだ。
おじいちゃんがお仕事をしている間は、木陰の涼しい場所でお昼寝をしたり、おじいちゃんの姿を眺めたりしていた。
日も落ちてくる頃になると、おじいちゃんの鼻歌を聴きながら2人でお家に帰った。
「あらまあ…今日もたーくさん走り回ったのね」
ふふふと笑顔のおばあちゃんに言われながら、大きな桶で泡まみれになってワシャワシャと洗われていた。
おばあちゃんが作ってくれるご飯は、いつもお肉やお魚、沢山のお野菜が混ざっていて、今日はどんなメニューが出るのかな?と考えるのも楽しみだった。
毎日違う朝の香り、澄んだ空気、色の変わっていく景色を見ながら幸せな日々を過ごしていたんだ。
そんな大好きなおじいちゃんが、足や腰を辛そうな顔をして擦る姿をよく見かけるようになり、森の方までパトロールに連れ出してくれなくなった。
おじいちゃんからは今までと違った匂いがするようになって、僕はなんだか胸が苦しくなったんだ。
そして、お仕事をしている時間もだんだんと短くなってきて、僕のお昼寝も少なくなり、早くお家に帰る機会が増えてきた。
『おじいちゃん、大丈夫かなぁ…』
顔すらも見れない日が増えはじめて、パトロールにすら行けなくなってしまった…
いつもご飯を持ってきてくれる優しいおばあちゃんは、最近ずっと悲しそうな匂いが漂い…
抱きついてほっぺたを舐めたらしょっぱかった。
ある日の夕方、突然にけたたましい音を鳴らしながら家の前に車が止まり、沢山の人達がバタバタと急ぎ足で入っていった。
白い服を着て大きな鞄を持った人や、帽子をかぶって何やら四角いものに口を当てては喋っている人もいた。
そして暫くすると、目を真っ赤にして、玄関先で深々と頭を下げているおばあちゃんに見送られ、その人達は帰っていった。
おばあちゃんはよろよろと足取りも重く、僕のところに来て、いつも抱き締める強さよりちょっと強く抱きしめた。
されるがままに座っていた僕の背中には温かい雨がポツポツと降ったような感触を感じた。
その翌日からは、また色々な人が慌ただしく出入りをし、本当におばあちゃんはバタバタと忙しそうだった。
ご飯は出してくれるけど、今までのような色んな物が混ざった豪華なものではなくなっていて、パトロールどころの話ではなかった。
日も落ちて暗くなってくると、悲しい顔をして黒い服ばかりを着た人達が家に入ってくる。
嫌な煙の臭いが家の外まで臭ってきて、何かを叩く規則正しい音が聞こえてきた。
そしてみんなうつ向きながら帰っていった。
その次の日も昨日の夜と同じように、昼間から黒い服を着た人達が来た。
煙の匂い、何かを叩く音が聞こえてきて、その音が止まったと思ったら大きな箱を持って家から出ていった。
バタバタが落ち着いてから、僕に接するおばあちゃんはどんどんと弱々しくなっていき…
笑いながら話しかけてはくれるけれど、悲しい匂いは薄まることもなかった。
パトロールも家の近所をゆっくりとした足取りで少し回っては、早々と家に帰る事が多くなった。
おじいちゃんの臭いが家の周りから薄れていき、ずっと元気がなく、歩くのも大変そうなおばあちゃんを見て、僕は心配な気持ちでいっぱいになっていた。
◇◆◇◆◇
寒さも薄らいで若葉が芽吹く季節になった頃、おばあちゃんの娘さんが旦那さんと2人で家にやって来た。
「ハヤテ、うちの子になろうか?おばあちゃんね、もうお散歩に行くのも足が痛くて大変なのよ…」
おばあちゃんの娘さんの仁美さんが、僕の頭を優しく撫でながら話しかけてきた。
旦那さんの晃樹さんも僕のそばに寄り添い
「ハヤテ…お庭は今より小さくなっちゃうし、森や畑はなくなっちゃうけど、お前の見たことのない様な物がいっぱいあって楽しいぞ!」
そう言って僕の背中を撫でてくれた。
それから数日後、おばあちゃんは仁美さんと晃樹さんに支えられて家から出てきて
「ハヤテお前は賢い強い子だから大丈夫だよ。私も大丈夫だから心配しないでね」
僕に話しかけ、しわくちゃの顔でにっこりと笑って頭を撫でたあと、車に乗せられてどこかに出掛けていった。
おばあちゃんを連れて行き、帰ってきたときには、仁美さんと晃樹さんの2人だけになっていた。
「おばあちゃんはね、足が悪くなっちゃって近くの施設に入ることになっちゃったの。だからハヤテは一緒に行くことができないんだよ…ごめんね」
仁美さんの説明はよく分からなかったけど、おばあちゃんが辛そうな匂いは感じていたし、僕は素直に従った。
「ハヤテ、じゃあ新しいお家に行こうか」
晃樹さんが僕にいった。
そしておばあちゃんの匂いがうっすら残る車で、長い時間を移動して新しいお家へと迎えられた。
新しいお家とやらに着いた頃には、車の中のおばあちゃんの匂いもしなくなっていた。
◇◆◇◆◇
新しいお家のお庭は本当に狭かった。
全力で走ったら向こうの壁まで3秒かからないんじゃないか?横幅も歩いて数歩あるかないか…
でも、僕の寝床はちゃんとお外に作ってくれて、かわいい屋根付きにふかふかのベッドが入っていた。
これはこれで僕の好みで気に入ったし、おじいちゃんとおばあちゃんがよく遊んでくれてた、2人の匂いがうっすらと残るおもちゃも置かれていた。
前に暮らしていた家は、あんなに広かったのに…そして土や風のいい匂いがしていたのに…
ここは埃っぽいし変な匂いがするし嫌だなぁ。
そんな気持ちを心の奥にしまい、新しい優しいご主人様達との生活に慣れようとしていた。
「ハヤテ!今日は天気もいいし桜も綺麗よ!少し遠くまでお散歩に行きましょう!」
仁美さんが僕の首輪に紐を付けて、パトロールに連れて行ってくれた。
足の下は相変わらず固くて歩きづらいし、僕の好きな草や木は殆ど生えてない。
もちろん森や畑のいい匂いはしないし、自由に走り回ることもできない。
何よりも周りを歩いている人が多いのには驚いた!
全然気に入らなかったけどパトロールに行くたびに自分の臭いをつけて、街並みにも少しずつ慣れてはきていた。
車の通る大きな音のする道や、細い道、色んな食べ物のいい匂いのする道、僕は自分の陣地だとばかりに臭いを付けて歩いた。
中でも特に気に入ったのは昔のお家と同じ匂いのする公園というところと、お寺というところだった。
その2ヵ所は桃色の花びらが風に舞い、木や草や土の匂いがして懐かしい気持ちになれる場所だった。
ただ、お寺ではおじいちゃんと会えなくなった日と同じ匂いがうっすらとして、あの幸せだった日々を思い出して悲しい気持ちになったな…
「ハヤテ~もう今日は流石に歩き疲れたわ…そろそろお家に帰ろうよぉ~もう無理よぉ~」
どのくらい連れ回してしまったのだろう...仁美さんが泣きそうな声で懇願してきたので、仕方なしに家路につくことにした。
家の玄関が見え始めたところで、正面からいい匂いを風に漂わさせた綺麗な女の人と、黄色い帽子を被ったかわいい女の子の声が聞こえてきた。
「あ!ママ!見て!かわいい柴犬ちゃん!触りたい~」
黄色い帽子の女の子が、いい匂いのするママという人の手をグイグイと引っ張りながら近づいてくる。
「こんにちは!可愛い柴犬ちゃんですね。娘が触りたいと言ってるんですけど、ご迷惑ではないでしょうか?」
ママさんが仁美さんに聞いてくる。
直ぐ後ろには今すぐにでも僕に触れてきそうな勢いを、ママさんに抑えられてる女の子。
ママさんの背中から顔だけをちょこっと出して僕を見るその目は、キラキラと輝いていた。
「大丈夫だと思いますよ。ただ急に触るとビックリして噛んじゃうといけないから、しゃがんで低くしてから優しく撫でてあげてね。名前はハヤテって言うのよ」
仁美さんがそう答える。
女の子は興奮する気持ちを抑えるように、そっと近くにしゃがむ。
噛まれたら少し怖いなという匂いを漂わせたまま、小さな手で恐る恐る頭を撫でてきた。
「ハヤテくん、いいこ!いいこ!」
大人しくされるがままの僕に安心したのか、バーっと晴れたような満面の笑顔になり、とても嬉しそうだった。
僕もその女の子の期待に応えるように、しゃがんだ膝に足を乗せ柔らかいほっぺたをペロリと舐めた。
女の子のほっぺたと左右2つに結んだ髪の毛からは、女の子とママさんとは違う魅力的な他の何かの匂いもした。
仁美さんとママさんはこちらの様子を伺いつつ、特に問題がないことを確認して安心したようで、楽しそうに話している。
「ねえねえ、ハヤテくん、うちには可愛い猫ちゃんがいるんだよ~。ほら!見て見て!お2階の窓からこっち見てるでしょ?あの黒い猫だよ!名前はココっていうの!」
女の子は撫でていた手を離し、僕の家のすぐ隣にある広いお庭の大きな家、そこの2階の窓を指差す。
ふと見上げたその窓にはまるで絵に描いたような黒く艶やかな猫。
その猫の光り輝く金色の瞳と一瞬目があった!?と思った矢先にサッとその姿が隠れてしまった。
今までに見たことのある、どんな綺麗な石よりもキラキラだった!!!真っ暗な夜に光るお星さまのように金色に光り輝いていたんだ!!
僕は魅了されたかのように、姿の消えた窓辺を見つめ続けていた。




