リッパー編 ⑧
目が覚めても、まだ夢の続きにいるような感覚が残っていた。しかし、どんな夢を見ていたのかと考えてみても、その内容はまるで思い出せなかった。
【メモリー修復完了】
ため息が出た。
喉の奥に、焼けるような感覚が残っていた。
なぜだかわからないが、消えない。
身体はどれだけ直ったのだろうか。
【コマンドコネクター dr31%】
【ナチュラルボーン dr29%】
胸も脚も修復まで、まだかかりそうだ。
俺はカプセルの白い天井を見上げた。
もう少し、もう少しだけ眠ると決めた。
路上に積み上がるゴミ。割れたガラス片、錆びた空き缶、泥にまみれたビニールをカラスがつついている。
腐敗臭を放つ残飯の山にはハエが群がり、その脇を太った鼠が数匹、人を恐れる様子もなく横切っていく。道端の隅、段ボールを敷いた上では、痩せた子供が体を丸めて眠っていた。薄汚れたシャツ一枚、腕には虫刺されの痕。鼠が通り過ぎても目を覚まさない。
何も変わっていない。
乾いた土埃と排水の臭いが漂う。遠くから怒鳴り声と銃声が響き、どこからか豆を煮る匂いがかすかに漂っていた――。
このスラムで生まれた人間の大半は、ギャングになって死ぬか、強盗になって死ぬか、薬で死ぬ。
足元で乾いた音がした。視線を落とす。小さな人骨だった。
俺はエリア外れの自動車整備工場へ向かった。
入口にはショットガンを持った見張りがいた。
「お前、何の用だ?」
プスッ。プスッ。
敵から奪った消音器付きのP30が二度鳴る。
見張りは崩れ落ちた。
工場の中は油と錆の臭いが漂う。
俺は、事務所の天井の監視カメラに向かって発砲した。
警備員が出て来るまで十秒だろう。
事務所を抜け、奥の扉を開く。
地下へ続く階段をゆっくりと降りる。
階段の先には左右に扉が二つ。
まず左だ。
俺は壁際に張り付いた。
扉が開いた。
武装した男が出て来る。
プスッ。
男が倒れるより速く、中に入った。
一人の男が作業机に向かっていた。
「誰だ――」
プスッ。プスッ。
男は机へ突っ伏した。
俺は静かに扉を閉めた。
深呼吸をした。
右の扉を開く。
男が一人、部屋の中央に立っていた。
ラテン系の浅黒い肌。丸いサングラス。少し老けていたが間違えるはずがない。
オチョだった。
「何だお前!」
プスッ。
左前腕を撃つ。奴の利き腕だ。
プスッ。
右腕。リボルバーへ伸びた手が止まる。
オチョは診察台へ倒れ込んだ。
「だ、誰に頼まれた……」
棚には医療用クーラーボックス、無菌袋、消毒液が並んでいた。何も変わっていない。
「まだやってるのか」
俺は呟いた。
「誰だ……お前……」
プスッ。
右膝。
オチョが悲鳴を上げる。
「助けてくれ! 金ならある! 全部やる!」
プスッ。
左膝。
「ギャアアアッ!」
オチョは床を転げ回った。
俺はゆっくりと近づく。
「誰だと聞いたな」
サングラスの奥の目が俺を見た。
怯えた目だった。
「俺は」
喉の奥が焼けるように熱かった。
「お前にここで臓器を奪われた人間だ」
オチョの顔から血の気が引く。
プスッ。プスッ。プスッ……。
長い階段の先にAIS本部はある。
緑の蔦に覆われた、古めかしいビルの外壁。
剥き出しになった太い配管。
一見、何の施設かわからない。
平凡な外観であった。
AISの所在を示す案内板などない。
あるのは巨大な鋼鉄の扉だけ。
俺は扉の横の端末に自分の網膜を当てる。
鋼鉄の扉がゆっくりと動き出した。
その日、初めて自分の上司と対面した。
第二組隊長。三十代後半、穏やかな顔つきの男。事務官のような印象だった。
部屋の三分の一を占める机を隊長と指し向かいに、面談が始まった。
後ろにはモニターがあり、白い光を背にした隊長の挙動が際立って見えた。
「そうか、君にとっては、いきなりの上司からの呼び出しだ。少しばかり不気味かもしれないね……緊張しなくていい。私は、そう怖い人間ではないつもりだよ?」
新人の顔すら知らないという事実に、楽しさを覚えるかのように、目尻を下げて穏やかな表情だった。
隊長は端末を操作しながら質問をした。
「賢木、昨日においてAISの全回線を遮断をしていた理由は何か?」
「休日でしたので」
「休日においても回線は開放しておく。これがAISの規則だ」
「申し訳ありません。プライベートが優先されると思いましたので」
隊長はしばらく黙っていた。
「君のことは、適材だと思って期待していたんだ。……だが、少しだけ理由を聞かせてもらう必要があるかもしれないね。もしそれが、何か君の人生を賭してでも守らなければならない『個人的な正義』に基づいた理由であるなら、私としても考えがある。……銃の調整と同じで、心も一度狂うと修正には骨が折れるからね」
『個人的な正義』という言葉に、思わず喉をごくりと鳴らした。
隊長は、変わらぬ柔らかな微笑みで俺を見つめる。まるで窓辺に咲く花を愛でるような、何の変哲もない視線だ。
「私はね、正義とは待っているだけでは訪れないものだと思っている。誰かが、力を持って、動かさねばならない。……ケネディという政治家をご存知かね? 彼は、理想を語るだけでなく、それを現実にする力を持とうとした男だ。私は、そういう生き方に惹かれる」
「理由は……竹河のことです。私がしっかり索敵を行っていれば、彼は死なずにすみました」
「……そうか。嵐のあとの海に放り出されたような気分なんだな」
隊長は少し視線をそらした。
端末を見ると、一拍置いて、まっすぐに俺を見る。
「例の巨大サイボーグを操っていた寄生型の件だが、報告書では、竹河が情報共有を怠ったことになっている」
「……なっている?」
「ああ」
隊長は一度視線を落とした。
「記録上は、そうだ」
「……あれは一体何だったんですか」
隊長の微笑みが、一瞬だけ動きを止めた。
「……調査中だ」
それだけ言うと、隊長はすぐに端末へ視線を戻した。
「……」
「現場に必要な情報が共有されていなかったのは事実だ。その結果、対応が後手に回った」
その言葉に俺は唇を噛み締めた。
隊長は静かに、しかし逃げ道を塞ぐように言葉を続けた。
「誤解しないでほしい。私は、彼を責めたいわけではない。人間は誰しも、判断を誤ることがある。……だが、それが命に関わる現場である以上、我々は、その誤りから目を背けるわけにはいかないのだ」
俺の反応を注意深く観察しながら、微笑みを浮かべる
「君も、彼と親しかったのだろう。だからこそ、辛いだろうと思う。……だが、これだけは覚えておいてほしい。彼を悪く言うためにこの話をしているのではない。同じ過ちを、二度と繰り返さないためだ」
「私も、大切な者を失ったことがある。……その痛みは、消えない。時間が経てば薄れる、と言う者もいるが、私はそうは思わない。ただ、それを抱えたまま歩き方を覚えるだけだ」
先ほどと同じ穏やかな笑みを浮かべる。
「彼の死を、無駄にしたくないだろう? ならば、彼が守ろうとしたものを、君が代わりに見届ければいい。それは、彼を忘れることとは違う。……むしろ、覚えている一番良い方法だと、私は思うがね」
「無理に元気を出す必要はない。だが、一人で抱え込むな。……ここには、君の話を聞く者がいる。私でも、他の部下でも構わない。それだけは、覚えておいてくれたまえ」
俺が竹河の事を気にかけていたのは事実だ。
「カウンセリングは規定の回数受けているな。それで、今もまだ治療が必要な状態かね?」
「いいえ、いつでも行けます」
面談はそれで終わった。
俺は目を覚ました。
俺はカプセルの白い天井を見上げた。
「終わったはずなのに」
そう呟いても、何も満たされない。むしろ、これまで見ないようにしてきた喪失そのもの――奪われたもの、失った時間、戻らない人――が、堰を切ったように押し寄せてくる。復讐は過去を変えてはくれなかった。ただ、憎しみという逃げ場を消しただけだった。
パーツの修復は終了していた。
俺は店を出た。
行くあてもなく歩き出した。
ただ歩きたかった。
警告音。
【敵反応検知】
路地の先に人影を捉える。
黒いポンチョを被った男が、通りの真ん中に立っていた。
腰には一振りの刀。漆黒の鞘が街の光を鈍く照り返す。
男の手がフードにかかり、静かに持ち上げられる。
野獣のような眼をしていた。
男の指が柄にかかった。
刹那。
地を蹴る音すら聞こえなかった。次の瞬間、男は跳躍した。
鞘走る鋭い音が耳に残った時には、もう眼前に突きが迫っていた。
目にも留まらぬ一閃。
刃の切っ先が喉元数ミリで止まる。俺は上体を反らしながらイーグルの引き金を引いた。
銃声が路地に反響する。
だが敵は既にそこにいなかった。真横へ跳び、着地と同時に体勢を立て直している。
――これは殺しの技だ。研ぎ澄まされた、職業としての「殺し」の動き。
「……死ね」
男の声が低く漏れた。
俺は銃口を構え直しながら、口の端を歪めた。
「おもしれえ、弾のムダになるから普段はやらねえがな。今は暴れたい気持ちなんだよ!」
自分でも意外なほど、乾いた笑いが漏れる。
その時、ガラガラ、と重い音が路地に響いた。
近くのナイトクラブのシャッターが上がる。中から店の用心棒――全身を重装甲で覆われたサイボーグが外へ出て来た。
「決着は後日」
男は短くそう言い残すと、刀を鞘に納める。鍔鳴りの音だけが妙に静かに響いた。
そして次の瞬間には、路地の闇へと溶けるように姿を消していた。
男が消えた路地に、静寂だけが残った。
重サイボーグが無言のまま俺を見て、興味なさげに店内へと戻っていく。
俺は銃をホルスターに収めながら、頭の中で状況を整理する。
――俺を狙っていたのか?
偶然、通りすがっただけの相手とは思えない。あの気配、あの間合いの詰め方。最初から俺という標的を定めた上での行動だった。




