第六話:センパ・パラタス(常に備えよ)
第六話:センパ・パラタス(常に備えよ)
ボルチモアの煤けた街並みを脱出し、US-40から州間高速道路95号線(I-95)、そしてアパラチア山脈の険しい背骨に沿って南北に伸びるI-81へとトラックを滑り込ませるにつれ、窓から吹き込んでくる風の質が劇的に変化していった。
ここに至るまで例のイリノイナンバーのセダンは付いて来なかった。
目的が読めない。
チェサピーク湾の湿り気を帯びた重たく塩くさい潮風は次第に影を潜め、代わりに鬱蒼と茂る広葉樹林の深緑と、太陽に照らされた赤土の濃密な匂いが鼻腔を満たし始める。
ガタの来ているトラックのキャビンは、時速60マイルを超えるとエンジンの振動と路面からの突き上げで激しく揺れた。
ダッシュボードの奥からは、どこかのボルトが緩んでいるのか「カタカタ」という不快な金属音が絶え間なく響いている。
長距離運転特有の、腰の奥にズシリと溜まる重い疲労感がマーカスの身体を蝕み始めているのかも知れない。
最初の給油と休憩のために車を滑り込ませたのは、チェサピーク湾の余韻を残すハイウェイ脇の小さなロードサイド・スタンドだ。
塗料の剥げかけたプレハブ小屋の脇に、数台の大型トラックがエンジンをかけっぱなしで停まっている
マーカスが買い求めたのは、この地域で採れるロックフィッシュ(ストライプドバス)の極厚なフライを、素朴な白パンのバンズで挟んだ
フィッシュサンドイッチだ。
車内のシートに深々と腰を下ろし、油の染みた紙包みを広げる。
カリッと黄金色に揚げられた白身魚のフライに豪快にかぶりつくと、サクサクとした衣の歯ごたえとともに、引き締まった魚肉の豊かな旨味が口いっぱいに弾けた。
(……悪くない。正解だ)
噛みしめながら、マーカスはふと遠い記憶の扉を開いていた。
かつて警察に入る前、ボーリング会社に身を置いていた頃、出張の仕事でこの近辺の調査現場を訪れたことがあった。
石油採掘のような華々しいものではなく、地盤の構造や水脈を調べるための地質調査——要するに、ただひたすら泥にまみれて地面に穴を掘り続ける、骨の折れる過酷な作業だ。
あの時も、苛立ちと疲労に任せて路傍の粗末なダイナーへ駆け込んだ。
メニューも見ずに手近な肉料理を注文したのだが、出てきたのは解凍に失敗したパサパサのハンバーガーで、食べた直後から酷い胸やけと胃痛に苦しめられた。
仲間たちが旨そうに魚のフライを突っついていたのを、指をくわえて眺めるしかなかった苦い記憶だ。
「あのときは選択を誤った。魚を選ばなかった自分をどれほど後悔したことか。……だが、今回は違う」
たっぷり塗られた濃厚なタルタルソースの酸味と、ボルチモアの伝統であるオールドベイ・シーズニン
グのパンチの効いたスパイスが、長時間のドライブで麻痺しかけていた舌と脳を心地よく刺激する。
胃の奥からじんわりと広がっていく熱が、強張っていた筋肉をほぐしていくようだった。
その日の夜、マーカスらはI-81沿いの寂れたロードサイドにぽつんと佇む、古いモーテルに車を滑り込ませた。
屋根の上に掲げられたピンク色のネオンサインは、いくつかの文字が切れて哀れっぽくチカチカと点滅している。
フロントで手早く現金を支払って鍵を受け取ると、部屋に入った瞬間にまず、長年の習慣に従って厚手の遮光カーテンをきっちりと隙間なく締め切り、外からの視線や光漏れを完全に遮断する。
次いで洗面所へ向かい、備え付けの厚手のガラスコップを2つ手に取った。
部屋の玄関ドアの真内側、ノブの金属部分の上に、コップの底を上にして倒れないよう絶妙なバランスで逆さに引っかける。
その真下にはトイレのタンクの上蓋を置く、ドアが外からわずか数ミリでも動けば、ノブの振動でコップが落下し、硬い上蓋に叩きつけられて派手な砕裂音を響かせるはずだった。
原始的ではあるが、どんな電子アラームよりも確実に眠りを覚ましてくれる頼もしいトラップだ。
一人旅の往路と違い鈴を使わず、より大きな音が鳴るコップを使用したことが、危険度がアップししたと認める様で少々気が引けたが、致し方ない。
「……足を洗面台で洗っておけ、デレク。明日は長くなるぞ」
マーカスはデレクの薄い肩を小突き、部屋の最も奥にあるベッドへと押し込んだ。
長旅の汗と脂で汚れた体は、思考を鈍らせ、いざという時の反応速度を奪う。
特に足元を清潔に保つことは、逃亡においても追跡においても意外と重要なのだった。
制服時代に行った火災現場の実況見分の帰り道、炎天下の現場で、泥や灰、様々な残渣物に塗れて作業したため靴の中までドロドロになり、更に得も言われぬ悪臭を放っていたときに、当時の上司にしてパートナーのボブから教わったものだった。
ボブはマーカスによく目をかけてくれていた、制服から刑事に異動、更に他の分署や本部に異動になった後も、いや、未だにマーカスのメンターだった。
見た目は、気さくな退職間際の「スコットランド系のおじさん」だが、LAの表から裏まで知らないことが無い、下手な情報屋など足元にも及ばないネットワークを持っている、表にも裏にもだ。
どんなに緊張した場面でもジョークを言う、時として不謹慎と思えるほどだった。
仕事はといえば、口調は優しく、内容は厳しかった。
そして、彼のモットーは「準備が勝負」「常に備えよ」そして「修羅場で笑え」だった。
マーカスは、ドアと窓の双方に同時に視線が届く、部屋の隅に置かれた使い古しの木製椅子に深く腰掛けた。
ジャケットを脱ぐことすら固く拒み、ブーツの紐すら緩めない。
右手を上着の懐にそっと滑らせ、愛銃であるチーフス(S&W M36)のグリップを覆う、冷たく硬いチェッカリングの感触を親指で確かめる。
5発の38スペシャル弾が装填されたシリンダーの重みが、掌を通じて確固たる安心感を伝えてきた。
「寝ないのかよ、おっさん……」
洗面台から戻ってきたデレクが、不気味そうにマーカスを見て、ベッドに潜り込みながら言った。
「余計な心配をせず横になれ」
カチリ、と頭の中で意識のスイッチを警戒モードへと切り替え、マーカスは静かに瞼を閉じたのだった。
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次回もお楽しみに。




