第五話:違和感
第五話:違和感。
そうとしか言いようのない不穏な感覚が、マーカスの皮膚をチリチリと刺す。
長年、警察の現場や裏社会の修羅場を潜り抜けてきた男の勘だ。
答えが脳裏のすぐ近くまで浮かび上がっているのに、厚い靄がかかって思い出せないもどかしさ。
だが、経験上確実なことが一つだけあった。
マーカスがこの「違和感」を覚えたとき、事態が穏便に収まった試しは一度もないということだ。
決して良いサインではなかった。
例えるなら、パズルのピースが「少しだけ」足りないと思って作業を始めたものの、実際に枠にはめ込んでいくうちに、「少しだけ」どころか「大部分の重要なピース」が根本から抜け落ちていることに気づかされたときのような、背筋が寒くなるような感覚だった。
「ひとつずつ紐解いていこう」
部屋の奥へ進むと、デレクは不安そうに身を寄せ合うようにして、小柄な祖母と並んで古びたソファに腰掛けた。
祖母は腰が少し曲がり、洗いざらしの色褪せたエプロンを身にまとっていた。
彼女の顔には深い皺が刻まれ、その目元には孫を案じ続けた長い夜の疲労が色濃く滲んでいる。
祖母が気を利かせて来客にお茶でも出そうと震える手で立ち上がりかけたが、マーカスは「お構いなく」と穏やかな手つきでそれを制し、ゆっくりと質問を開始した。
「デレク、君の罪状はL.A.での車上荒らしで、被害品はカーナビ」
マーカスは指を折りながら、頭の中の情報を確認していく。
「計画性はなく、前科も軽微で少年時代のものだけ。被害品もすでに警察に回収されてい て、犯行時
は飲酒していた」
「その後、お祖母ちゃんによる保釈申請が認められて釈放。だが、後日送られてきた在宅起訴の通知を
無視して逃亡した」
「だから、俺がこうして連れ戻しに来た」
マーカスは青年を真っ直ぐ見つめた。
「と、ここまでは合ってるか? 違っているところがあれば教えてくれ」
デレクは自分の身に起きた惨状に嫌気がさしたと言わんばかりの表情を浮かべ、力なく頭を左右に振りながら答えた。
「……まぁ、大体合ってるよ」
答えを聞いても、マーカスの違和感は消えるどころか増すばかりだった。
住居不定の身でありながら、これほど早い釈放。
遠く離れた土地に住む、お世辞にも裕福とは言えない高齢の祖母による、異常にスムーズな保釈申請。
そして、表に潜んでいるイリノイナンバーの車。
マーカスは静かに追及を続けた。
「シカゴでも、何かしたのか?」
その問いを聞いた瞬間、デレクは重いため息をつき、両手で顔を覆った。
隣に座る祖母は無言のまま、我が子の腕をすがりつくように細い手でしっかりと握りしめ、うつむいている。
「……シカゴで泥棒をしたんだ。怖くなって、逃げるようにL.A.まで行った」
デレクは途切れ途切れに話し始めた。
「L.A.で車上荒らしをして捕まったとき、警察からはなぜかL.A.の事件のことじゃなく、シカゴで盗ん
だ物のことばかりしつこく聞かれたんだ。だから俺は、シカゴの件も全部バレたんだと思って絶望し
た。てっきりそのままシカゴへ移送されて収監されるのだと思ってたら……なぜかあっさり釈放された
んだ」
L.A.警察の不可解な取調べ。
シカゴの窃盗事件。
あっけなさすぎる釈放。
そして、外で目を光らせるイリノイナンバーのセダンと、デレクの手首の生々しい傷痕。
すべてのピースが頭の中で結びつかないまま、防衛本能だけが激しい警告音を打ち鳴らした。
「デレク、よく聞け」
マーカスはトーンを落とし、静かだが拒絶を許さない声で言った。
「外に止まっているイリノイナンバーの黒いセダンは、お前に用があるらしい。心当たりはあるか?
理由はなんだ?」
祖母がギョッとして丸く目を見開いた。
彼女はこの存在を全く知らなかったのだろう。
一方、デレクの顔に浮かんだのは驚きではなく、より根深い恐怖と怯えだった。
「いずれにせよ、奴らの本当の目的はここ(祖母の家)じゃないな」
マーカスは思考を巡らせながら続ける。
「それと……俺がここに来ることも、奴らにとっては想定内だったというわけか」
マーカスの確信に満ちた口調を聞いて、デレクの表情にほんのわずかな安堵が広がった。
「祖母に危害を加えることが奴らの目的ではない」
というマーカスの分析が、彼にとって唯一の救いに感じられたのだろう。
しかし、実のところマーカス自身、その考えに完全な自信があったわけではない。
半ば希望的観測に過ぎなかった。
ただ、自分がこのアパートに到着した時点で既に監視の目が配置されていたこと、そして奴らが未だにドアを破って踏み込んでくるような暴力的な手段に訴えていないという事実は、ひとつの揺るぎない裏付けではあった。
さて、こういう泥沼の状況下で最も有効な手立ては何か。
それは意外にも、陰でコソコソ探るのではなく、相手の懐へ直接コンタクトすること。つまり、正面から叩き起こして話しかけることだった。
マーカスは立ち上がると、デレクに向かって言った。
「玄関の鍵をしっかり閉めて、中で待っていろ」
アパートの外に出ると、湿った夜風がマーカスの頬を撫でた。
マーカスはポケットに両手を突っ込んだまま、表のストリートに停まっているイリノイナンバーの黒いセダンに向かって静かに歩き出した。
フロントガラス越しに、運転席と助手席の男たちの視線がこちらに注がれているのが分かる、動揺や露骨な敵意は見せない。
だが、近づいてくるマーカスの存在に明らかに気づいているにもかかわらず、彼らは窓を開けようとせず、ただ無機質な視線でマーカスを凝視していた。
マーカスは車の脇に立つと、「調子はどうだい」と言いながら、手振りで窓を下げるよう指示した。
重いモーター音とともにパワーウィンドウが下がる。
運転席に座っていたのは、40代半ばと思われる、頭髪の薄いダークスーツの男だった。
男は眩しそうに目を細め、底意地の悪い視線でマーカスを見上げてくる。
助手席の男も同年代のダークスーツ姿だが、こちらはプロレスラーのように太い首と分厚い胸板。
二人とも、一言も発しない。
マーカスは、無言のまま睨み続けてやろうかとも考えた。
だが、こちらには余計な時間を費やす余裕はない。
イリノイナンバー、「シカゴ」か。
マーカスにとっては、二度と関わりたくない因縁の深い土地だ。
マーカスは運転席の男に、軽薄な笑みを向けた。
「助手席のボーイフレンドは随分と退屈そうだな。ドライブデートなら、もっと景気のいい場所を探し
たらどうだ?」
ふっ、と車内の男たちが同時に鼻で笑った。
マーカスに対して「俺たちの方が上だ」というマウントを取りたい男特有のくだらない衝動が、その顔に露骨に浮かび上がる。
無自覚な自尊心だ。
マーカスはその一瞬の隙を見逃さず、男達の感情をさらに逆撫でする言葉を畳みかけた。
「お前らがどこの何者かは知らんが、職場じゃせいぜい2軍か3軍扱いだろ。……まあ、そうだろうな。
上から言われた通りに監視するだけで、自分の頭で判断することは何一つ許されていないんだからな」
運転席の男が、不快そうに鼻から大きく息を吸い込んだ。
威圧感や組織の権力、あるいは己の腕力でマーカスを叩きのめしたいという激しい衝動が、男の瞳の奥で渦巻いている。
相手を煽り、冷静さを欠かせて本性を炙り出す——これは刑事時代からのマーカスの常套手段だった。
「早めに上司に判断を仰いだ方がいいぞ」
マーカスは追い打ちをかけるようにニヤリと笑った。
「『賞金稼ぎに見つかりました、どうしましょう?』ってな。俺が上司ならこう言ってやるね——ただの張り込みすら満足にできねえのか、お前らは一体何ができるんだ、とな」
それだけ言い放つと、マーカスは大げさに鼻で笑いながらスマートフォンを取り出し、車のナンバープレートと男たちの顔写真を数枚、遠慮なくカメラに収めた。
男たちが怒りで顔を歪めるのを背に、サッと踵を返してデレクの待つ部屋へと戻った。
部屋に戻り、鍵をかけると、マーカスは短く告げた。
「シカゴ警察だったぞ。……たぶんな」
デレクは言葉を失い、蒼白な顔で固まっていた。
その怯えた表情を見て、マーカスは悟った。
このタイミングで追いつめて質問攻めにしたところで、この青年が本当のことを素直に話さないかもな
今は時間を浪費するべきではなかった。
マーカスは喉まで出かかった問いかけを一旦飲み込むと、静かに言った。
「とにかく出発だ」
必要最低限の着替えだけをバッグに詰めさせ、ショックを受ける祖母には後日必ず連絡を入れるよう伝えた。
不貞腐れるデレクの首根っこを掴むようにして古いトラックの助手席に押し込む。
バックミラー越しに、路肩で忌々しそうにこちらを睨んでいる例のイリノイナンバーを一瞥すると、マーカスはL.A.を目指して力強くハンドルを切った。
I-40 W(州間高速道路40号線・西行き)。
西海岸への帰路——2,700マイルにおよぶ過酷な長旅が、こうして幕を開けたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
第五話「違和感」、いかがでしたでしょうか。ボルチモアの煤けたアパートでデレクから事情を聞き出し、外に張り込んでいた「シカゴ警察」の男たちを軽くいなして見せたマーカス。いよいよ物語の裏に潜む大きな影が輪郭を現し始めました。
そして、再びL.A.へ向けた2,700マイルの帰路がここから幕を開けます。
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次回もお楽しみに。




