第四話:ノーマン・ロックウェルの犬
第五話「違和感」は10月30日午後6時30分!!
第四話:ノーマン・ロックウェルの犬
US-40(国道40号線)をひたすら東へ向け、弾丸のごとく飛ばしてきたつもりだったが、長年の酷使でガタが来ているフォード・F-150の悲鳴を上げるV8エンジンをなだめ、オーバーヒートの予兆に気を配りながらでは、結局ボルチモアの市街地に入るまでに丸4日もかかってしまった。
若いころなら血気にはやらせて不眠不休でアクセルを踏み込んだかもしれない。
だが今のマーカスには、道中にある『タッカーズ・オニオンバーガー』の鉄板で焦げる玉ねぎと肉汁の強烈な香りを無視してまで先を急ぐような青臭い使命感も、ましてやクライアントであるベイル・ボンズマン(保釈保証業者)のカストラスに対する忠誠心など微塵も持ち合わせていなかった。
今回のヤマは、公判の期日を無視して逃亡した若いコソ泥を連れ戻すだけの地味な仕事だ。
これ以上急ぐ理由などどこにも見当たらなかった。
判事の心証を悪くして求刑が重くなろうが、それは公判から逃げ出した青年の自業自得というものだ。
「俺が気にすることじゃない」
ダッシュボードの灰皿の脇に置いた、すっかり冷めきったコーヒーを一口すすり、マーカスは吐き捨てるように低く独り言を呟いた。
チェサピーク湾から吹き込んでくる湿った風に乗り、ボルチモアの街角には独特の匂いが充満していた
港町特有の錆びた鉄と重油の澱んだ匂い、水揚げされたばかりの蒸したブルークラブ(ワタリガニ)の生臭い磯の香り、そしてこの街の代名詞でもあるオールドベイ・シーズニングの強烈でスパイシーな香りが、うらぶれたレンガ造りの街並みが放つ湿気と混ざり合って、マーカスの鼻腔を容赦なく突いた。
「さて、折角のボルチモアだ。先ずは町の情勢把握だな」
マーカスは長旅の疲労で遊びの大きくなったステアリングを握り直し、観光客の誰も近づかない港近くの寂れたストリートへと車首を向けた。
この手の閉鎖的で泥臭い街の空気を手っ取り早く肌で感じるには、地元の労働者が集まる小さな店で安くて旨いローカルフードを腹に収めるのが一番の近道だった。
港の裏路地にトラックを滑り込ませると、トタン屋根の下にある塗料の剥げかけたテイクアウト専門の小さなスタンドの前で足を止めた。
紙皿に乗せられて差し出されたのは、きつね色に揚げたての
クラブケーキ・サンドイッチだ。
カニの身が惜しげもなくぎっしりと詰まった香ばしいカニミートの塊に、くし形に切られたレモンを力いっぱい絞りかける。
トラックの熱を帯びたボンネットに浅く腰掛け、一口大に噛みしめた。
「上等だ、悪くない」
サクッとした衣の中から、カニの豊かな甘みとスパイシーな調味料の塩気が口いっぱいに広がる。熱々のサンドイッチを咀嚼しながら、マーカスは路地裏の錆びた看板を見やった。
「本来はナッティー・ボーが欲しいところだが」
地元の労働者たちが愛してやまない下町の缶ビール、ナショナル・ボヘミアン——通称『ナッティー・ボー』の冷えた黄色い缶のイラストが頭をよぎる。
だが、これから乗り込む現場を前に酒を煽るほどマーカスは甘くはない。
一応は仕事だ、冷たいビールの強烈な誘惑を冷徹に断ち切ると、指先の油を雑に拭い、再びトラックのエンジンをかけた。
車を走らせることおよそ20分。目的地である住宅地に到着した。
決して「理想的な高級住宅地」と呼べる代物ではなかったが、かといって治安が完全に崩壊したスラムというわけでもない。
通りには手入れのされていない芝生が広がり、ペンキの剥げたフェンスが並ぶ。
取り立てて特徴のない、この国のどこにでも転がっている平凡で煤けた小規模プロジェクト(雇用促進住宅)のアパートメントだ。
マーカスはトラックを路肩の空きスペースに停めると、キャメルのメンソールに火をつけ何となく周囲に目をやり観察した。
青白い紫煙の向こうで、目的の部屋がある古びたアパートの窓を見上げる。
外階段を上り、2階の廊下へ進む。
塩害で赤茶けたペンキの剥げた鉄製の廊下を歩き、角を一度曲がると、6部屋が横一列に並んでいた。
その一番西側の角部屋の前で足を止める。
玄関ドアの脇にある古びたブザーボタンに指を押し当てると、乾いた色気のないブザー音が、薄暗い廊下に不気味に響き渡った。
『誰だい』
内側から聞こえてきたのは、まだあどけなさが残る若い男の声だった。
ターゲットであるデレク・ギブソン(20歳)本人だろうか。
マーカスはドアに向かって、低く、しかししっかりと芯のある声で答えた。
「L.A.のベイルボンズから派遣された者です」
一呼吸置き、はっきりとした口調で付け加える。
「デレク・ギブソン君を連れ戻しに来ました」
変に偽名を使ったり、誤魔化したりはしない。
最初から本当のことを告げるのが、無用な流血を避ける一番のやり方だった。
数秒間の重苦しい沈黙が流れた。
やがて、ドアの裏側から3つの鍵が順番にガチャリ、ガチャリと重い金属音を立てて解錠される。ゆっくりと外側に向かってドアが開いた。
そこに立っていたのは、伏し目がちで異様なほど華奢な印象を与える細身の青年だった。
身長はマーカスよりも10センチ以上高く、180センチ半ばはあるだろう。
だが、その恵まれた長身とは裏腹に、青年の身体は頼りなく縮こまっていた。
着古した色褪せたグレーのスウェットシャツはサイズが合っていないのか肩が落ち、足元はボロボロのスリッパ履きだ。
その表情には追っ手に対する抵抗の兆候など微塵もなかった。
ただ、自らの将来に対する底知れない不安と、いつ何時殴られるか知れないという恐怖の影だけが、その虚ろな瞳に色濃く漂っていた。
マーカスは静かに問いかけた。
「私はマーカス・ヴァンス。君がデレクかい?」
デレクは言葉を発せず、怯えたように小さく頷いた。
マーカスはポケットから身分証を取り出して提示し、そのまま顎で室内を指しながら、奥へ入るよう身振りで促した。
アパートの室内へと足を踏み入れながら、マーカスの頭の中では警戒のアラームが鳴り響いていた。
そこは、決して広くはないリビング兼用の部屋で、壁紙のあちこちに黄ばみ、天井の隅には古い埃がたまっている。
部屋の中央には、中央のクッションが完全にヘタって沈み込んだ古いファブリックのソファが置かれ、その脇の小さなサイドテーブルには、飲みかけの水が入ったプラスチックのコップが無造作に放置されていた。
ノーマン・ロックウェルの犬の絵葉書が冷蔵庫に、マグネットではなく、四方を粘着テープで貼られている、かつては犬を飼っていたこともあるのだろうか、貧相だが、整然とし、どこか生活の匂いが染み付いた空間だ。
マーカスが警官時代に何度も見た光景、老婦人達の慎ましい生活、胸が締め付けられる感覚。
ここに来た瞬間から、マーカスの脳裏ではどうしても確認しておきたい疑問が膨らみ続けていた。
デレクの本来の罪状は、L.A.での軽微な車上荒らしに過ぎない。
だが、玄関を開けた彼の長袖のスウェットの袖口からチラリと見えた両手首には、手荒な拘束具か何かで力任せに締め上げられたような、生々しく赤黒い「打撃痕と擦り傷」が残されていた。
そして何より、先ほどから表のストリートにアイドリング状態で停まっている、いかつい男たちが乗ったイリノイナンバーの黒いセダン。
最後までお読みいただきありがとうございます。
第四話「ノーマン・ロックウェルの犬」、いかがでしたでしょうか。ボルチモアの名物である熱々のクラブケーキ・サンドイッチで胃袋を満たしたマーカスがたどり着いたのは、どこにでもある煤けたアパートでした。冷蔵庫に貼られたノーマン・ロックウェルの絵葉書に見る、老婦人の慎ましい生活の匂いと、デレクの手首に残された生々しい傷、そして外に停まる怪しげな黒いセダン——。物語はいよいよ核心へと動き出します。
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次回もお楽しみに。第五話「違和感」は10月30日午後6時30分!!




