第三話:モンクモード(ミズーリ~ボルチモア)
第三話:モンクモード(ミズーリ~ボルチモア)
翌朝、ミズーリの果てしない平原の地平線を完全に置き去りにした頃、ハイウェイを走るトラックの窓から見える景色は、これまでの乾いた荒野のそれから、全く異なる表情へと冷酷に変貌を遂げていた。
インディアナ州からオハイオ州にかけての一帯をすっぽりと覆い隠していたのは、太陽の光を一切通さない、まるで熔解した鉛を空一面に流し込んだような、低く淀んだ鉛色の重い空だった。
その空の色はアスファルトの灰色と完全に溶け合い、世界全体から鮮やかな色彩の温もりを根こそぎ奪い去っている。
そこは、かつてアメリカの工業化と富の心臓部であった「ラストベルト(錆びた帯)」の領域だった。
道路脇には、全盛期の栄華の残骸である赤茶けたトタン屋根の巨大な工場群や、鉄骨むき出しの倉庫街が、まるで朽ち果てた巨大な墓標のように延々と立ち並んでいる。
錆びついたガントリークレーン、打ち捨てられた貨物列車の操車場、かつてもうもうと黒煙を吐き出していたコンクリートの煙突は今や完全に沈黙し、窓ガラスの割れたコンビナートの廃墟からは冷たい風だけが虚しく吹き抜けていた。
地面のあちこちには煤けた黒い澱みがこびりつき、空気そのものが鉄粉と古びた機械油の匂いを帯びて重く沈み込んでいる。
かつての圧倒的な活気が失われ、鉄と錆の匂いだけが生霊のように取り残されたこの退廃的な工業地帯の景観は、マーカスの胸の奥に澱む割り切れない予感と奇妙なまでに共鳴していた。
鉛色の空から、やがて細かな冷たい霧雨がアスファルトを濡らし始め、2,700マイルの過酷な旅を続けるボロボロのフォードのフロントガラスを鈍く叩き続けていた。
このインディアナ州一帯は、かつてアメリカ最初の本格的な国道路線である「ナショナル・ロード(US-40)」が東西を貫き、幾多の開拓者たちが夢を乗せたワゴンを走らせた歴史の十字路である。
平坦な大地にはどこまでも「コーンベルト」の緑豊かなトウモロコシ畑が広がる一方、北部の工業都市周辺へと目を向ければ、かつての自動車産業や製鉄の繁栄を今に伝える「ラストベルト」の赤茶けた巨大工場跡や、煤けた労働者街の退廃的な景観が重苦しい影を落としていた。
住民たちの血肉には世界最高峰の自動車レース「インディ500」を生んだモータースポーツの熱量が深く刻まれており、街道沿いの古びたガレージやダイナーには、オイルの匂いと車への異常なまでの執着が濃厚に漂っている。
そんな無骨な空気が支配するインディアナの街道沿いで胃袋に収めたのは、この州の伝説的なソウルフードである
ポーク・テンダーロイン・サンドイッチだ。
「はははっ、まじかっ」
運ばれてきた皿を見て、マーカスは思わず苦笑した。
バンズの大きさが人間の手のひらほどしかないのに対し、中身の豚ヒレ肉のカツレツはその3倍近いサイズがあり、皿全体から豪快にはみ出しているのだ。
叩いて驚くほど薄く延ばした豚肉をラードでカリッと揚げただけのシンプルなものだが、マスタードとピクルスを挟んでかぶりつけば、過酷な肉体労働に従事する男たちの胃袋を支えてきた中西部ロードの泥臭い活気がダイレクトに伝わってきた。
このエリア一帯で神経を使うのは、頻繁に料金所が現れる有料道路と、州警察による容赦のないスピード違反の取り締まりだ。
特に州境付近や、視界の開けた長い直線区間では、彼らは緑の茂みの陰やオービスの裏に息を潜めて待っている。
他州のナンバープレートをぶら下げた、埃まみれで怪しげな古トラックなどは、格好の獲物になりやすかった。
マーカスはクルーズコントロールを制限速度きっちりにセットし、バックミラーを数秒おきに確認しながら、一切の隙を見せないよう徹底的に気配を殺して走り続けた。
やがてウェストバージニア州に入ると、そびえ立つアパラチア山脈の険しい越境ルートに差し掛かる。
ここで地元の古いガソリンスタンドに立ち寄り、山男たちの間で「炭鉱夫の携帯食」として代々愛されてきた
ペパロニ・ロールを買い込んだ。
ふっくらとした少し甘みのある白パンの生地の中に、たっぷりのスパイシーなペパロニソーセージが丸ごと巻き込まれて焼き上げられており、かじると中の赤い脂がパンの生地に染み出してたまらない旨味を醸し出す。
片手でハンドルを握りながらガツガツと胃袋に放り込むには、これ以上手っ取り早く、頼もしいカロリー源はなかった。
だが、ここから先が、2,700マイルを休むことなく走り続けてすでに満身創痍となっている古いフォードのエンジンとブレーキシステムにとって、文字通り最大の、そして最後の試練だった。
標高を上げるにつれて、アパラチア山脈の深い森林地帯は文字通りの漆黒の闇と、視界を数メートル先まで完全に奪う濃い乳白色の霧に飲み込まれていった。
延々と続く急勾配の登り坂では、V8エンジンのパワーバンドが限界に達し、ボンネットの下から熱せられた冷却水の不気味な沸騰音が伝わってくる。
アクセルペダルを床まで踏み込んでも、トラックはまるで足枷を嵌められたかのように鈍い金属音を唸らせるだけで、スピードメーターの針は情けなく下がり続ける。
マーカスはオーバーヒートを防ぐために窓を開け、ヒーターのスイッチを最大にひねり、まるで熱風が吹き抜けるサウナのようなキャビンで汗だくになりながらステアリングにしがみついた。
「神様、どうか次はカストラスが最新のテスラを差し押さえます様に。」
そして、ようやくたどり着いた峠の向こうに待ち受けていたのは、ガードレールすらない断崖絶壁の急カーブが九十九折り(つづらおり)に続く、恐怖の下り坂だった。
ここで不用意にフットブレーキを踏み続ければ、重い車重と摩擦熱でたちまちペダルがスカスカになる
「フェード現象」を引き起こし、一瞬で数千フィート下の深い谷底へ真っ逆さまに転落する。一瞬の油断も許されない極限状態の中、マーカスは瞬時に判断を下し、フロアシフトのトランスミッションを力任せにローギアへと叩き込んだ。
強烈なエンジンブレーキの抵抗で車体を無理やり引き締め、けたたましく悲鳴を上げるエンジンの過回転をなだめるように、両手でステアリングをねじ伏せるように力強く抑え込むのだった。
キャビンの窓から吹き込む風には、完全に焼き切れたブレーキパッドの刺激臭と、ゴムが限界を超えて焦げ付く悪臭が混ざり合い、マーカスの鼻腔を容赦なく突き刺した。
ダッシュボードの警告灯が不気味に明滅する中、まるで僧侶の鞭打ち苦行の様に祈りながら、命がけで九十九折りの山道をねじ伏せるように下りきると、前方の視界がようやく開け、眼下にメリーランド州の平野部が夜の闇の中に広がり始めた。
ロサンゼルスを出発してから、すでに4日目の夕刻を迎えていた。
フロントガラスやボディのあちこちには、大陸横断の道中で激突した無数の虫の死骸が幾重にもこびりつき、2,700マイル分の乾いた砂塵と泥が焼き付いたことで、愛車の本来の塗装の色すらもはや判別がつかない。
あちこちが悲鳴を上げて軋むボロボロのトラックは、重く不気味なタイヤの音をアスファルトに響かせながら、ついに東海岸の終着点。
泥と錆、そして裏社会の澱みにまみれたボルチモアの市街地へと、その重い車体をひっそりと滑り込ませた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
第三話「モンクモード」、いかがでしたでしょうか。鉛色の空が広がるラストベルトの荒涼とした景観から、インディアナの巨大な「ポーク・テンダーロイン」、ウェストバージニアの「ペパロニ・ロール」、そしてアパラチア山脈の命がけの山越えまで、一気にボルチモアへと走り抜けた過酷な道のりを感じていただけたなら幸いです。
ボロボロのフォードと満身創痍のマーカスの旅も、ついに東海岸の終着点へとたどり着きました。
ここから物語はいよいよ本格的な核心へと動き出します。
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次回もお楽しみに。




