第98話:出張のトランク、あるいは二つの商店街
「出張、調理……!? カイトくん、まさか隣の商店街のど真ん中で、店を開く気かい?」
阿良多の驚愕の声が、激しい雨音の隙間を縫って響いた。
ノートPCの画面上では、隣の『旭通り商店街』を侵食する黒い空白が、じわじわとこちら側の境界線へと這い寄ってきている。
現実を書き換えるほどの熱量を生み出す、喫茶『夜鴉』の料理と珈琲。
その『味覚のアンカー』を、今度は消えゆく隣町の人々の胃袋へと物理的に打ち込むための、無謀な強行軍だった。
「ええ、それしか方法はないわ。阿良多、移動式の調理器具と、最高級の珈琲豆をトランクへ詰め naysa」
リザが素早い手つきで、予備のカフェエプロンと特製の包丁を革製のトランクへと収めていく。
その碧眼には、かつて過酷な戦場で民を導いた『至高の王女』としての、圧倒的なカリスマ性と冷静な戦術眼が戻っていた。
「向こうの住人の記憶が薄れ始めているなら、私たちの料理の匂いで、その脳波を無理やりにでも現実に引き戻すのよ。
カイト、ハンバーグのパテのタネは私が持つわ。あなたの右腕は、最高のドリップのために温めておいて」
「頼もしいね、リザ。……よし、みんな、行くぞ!」
俺が声をかけると、ミアが待ってましたとばかりにカウンターを飛び越えた。
「アタシ、一番大きなトランクを背負うニャ!
向こうの街のパン屋さんの匂い、アタシの鼻で絶対に探し出してやるニャ!」
手に入れた本物の猫耳を誇らしげにぴょこぴょこと動かし、野生の躍動感で周囲を鼓舞するミア。
彼女の無邪気で一途な愛らしさが、沈みがちだった店内の空気を一瞬で一変させる。
「フン、異世界の魔王軍に比べれば、街の境界線の一本や二本、大した障壁ではないな」
シルヴィアが、完全に完治した右腕で愛刀を背に背負い、不敵に唇を歪めてみせた。
彼女の放つ、凛とした無敵の騎士の戦闘美。
少年を守るようにその細い肩を抱き寄せながら、彼女の視線はすでに雨のカーテンの向こう、隣町の暗雲を見据えていた。
「少年よ、お前の家のパン屋の看板、このシルヴィアが必ず元の場所に繋ぎ止めてみせよう」
「みんな、ありがとう……っ!」
旭通り商店街の少年が、涙を拭いながら強く頷いた。
「カイト、千影。僕たちのポータブルサーバーも持っていくよ」
阿良多がノートPCを小脇に抱え、眼鏡の奥の瞳を熱く燃え上がらせた。
「地下四階の歯車のシグナルを、僕と千影の端末経由で、隣町の歪んだネットワークへ直接『中継』する!
これで向こうの街でも、夜鴉の熱量を100%システムに干渉させられるはずだ!」
「……全く、計算( kitaichi )の合わない大赤字の出張営業だな」
千影が呆れたように溜息をつきながらも、高級なトレンチコートの襟を立てて立ち上がった。
その灰色の瞳には、親父たちが遺した『最初のシステム』の不条理を、自らの手で完全に制御してみせるという、冷徹なプライドが宿っていた。
「だが、僕の数式を狂わせた君たちの日常が、隣の安っぽいバグごときに負けるのは癪だからね。
行くよ、カイト。午前零時の完全消滅までに、すべての仕込みを終わらせる」
全ての伏線が、二つの商店街を結ぶ細い路地へと収束していく。
俺たちは大型のトランクを手に、激しい雨の降りしきる夜の街へと一歩を踏み出した。
境界線を越えた先、隣の『旭通り商店街』は、言葉を失うほど異様な光景に包まれていた。
街灯の光が不自然に引き伸ばされ、立ち並ぶ個人商店のシャッターが、まるで古いテレビの砂嵐のように激しく歪んで明滅している。
住人たちは虚ろな目で傘も差さずに歩き、自分の家がどこだったのかさえ思い出せない様子で彷徨っていた。
「……ひどい。街の記憶が、物理的に剥ぎ取られているんだわ」
リザが息を呑み、俺の腕を強く握りしめた。
「カイト、あそこニャ! あそこの角から、微かに焦げた小麦の、寂しい匂いがするニャ!」
ミアが鼻を鳴らし、歪みの最も激しい路地の奥を指差した。
そこには、半分が漆黒のモザイクに変貌しつつある、小さなパン屋の看板が見えた。
「よし……ここで店を開くぞ! 喫茶『夜鴉』、旭通り出張所の開店だ!」
俺はトランクを開き、ポータブルの焙煎機に火を入れ、使い慣れたドリップポットを握りしめた。
だがその瞬間、消えゆくパン屋の影から、かつてのメビウスを思わせる、おぞましい漆黒の『裏返しの歯車』が、凄まじい火花を散らしながら姿を現した。
隣町の崩壊を加速させようとする、土地の歪みの意思。
雨の立ち込める暗黒の商店街の真ん中で、夜鴉たちの、最も泥臭く、最も熱い『出張調理』の火蓋が切って落とされた。




