第99話:歪みのベーカリー、あるいは出張の鉄板
「アタシたちの邪魔はさせないニャアアッ!」
激しい雨が降り頻る旭通り商店街の路上で、ミアが地を蹴った。
パン屋の看板を侵食しようと這い出てきた漆黒の『裏返しの歯車』へ向け、彼女は驚異的な跳躍で飛び込んでいく。
本物の猫耳をピンと立て、鋭い爪が火花を散らしながら黒いノイズを削り取る。
「この街のお兄ちゃんのパン屋さんは、絶対に消させないニャ!」
恐怖に怯える少年を背中でかばいながら戦う彼女の躍動感と一途な愛らしさに、住人たちの虚ろな目が微かに動き始めた。
「フン、街の歪みが生み出した急造の歯車風情が、この私の右腕に敵うと思うなよ!」
シルヴィアが背中から愛刀を抜き放ち、雨のカーテンを真っ二つに切り裂くような美しい一閃を放った。
完全に完治し、本来の無敵の強さを取り戻した異世界最強の騎士の戦闘美。
その刃が放つ鋭い風圧が、迫り来る黒いバグの触手を次々と叩き斬り、少年のパン屋の周囲に絶対の防衛線を構築していく。
凛とした立ち姿でありながら、隣でトランクを支える阿良多に「そこは危ない、私の後ろへ」と囁く優しさが、彼女の魅力をより一層際立たせていた。
「カイト、ポータブルの鉄板の温度は最高よ! いつでもいけるわ!」
リザが素早い手つきでトランクから取り出した即席の調理台に立ち、碧眼を力強く輝かせた。
彼女の持つ王女としての完璧な統率力と、エプロン姿の家庭的な温かさ。
「隣の街の皆さんの胃袋を、私たちの料理の熱量で叩き起こしてあげるわ。カイト、最高の珈琲で私に続いて naysa!」
「ああ、いくぞ!」
俺はポータブル焙煎機から弾け出たばかりの香ばしい豆をドリッパーへセットし、お湯を注いだ。
ドリップポットの細い注ぎ口から、漆黒の液体が落ちていく。
同時に、リザの鉄板の上で、特製のハンバーグパテがジュウウッと激しい音を立てて肉汁を溢れさせた。
雨の冷気を完全に吹き飛ばすほどの、圧倒的な『料理の匂い』が、砂嵐のように歪んでいた旭通り商店街の空間へと爆発的に広がっていく。
それは、俺たちの商店街がかつて持っていた、そしてこの隣町も確かに持っていたはずの、温かい夕食の日常の匂いだった。
「……あれ? 俺、何でこんな雨の中に立って……」
「この匂い、昔よく食べた、あのパン屋の隣の……」
虚ろな目で彷徨っていた住人たちが、一人、また一人と足を止め、お腹の虫を鳴らしながら俺たちの即席カウンターへと引き寄せられてきた。
伏線は、二つの商店街が長年共有してきた『味の記憶』にあった。
かつて店主さんが現役だった頃、この二つの街は一つの美味しい匂いで繋がっていたのだ。
住人たちがリザの焼き立てのハンバーグを口にし、俺の淹れた珈琲を飲み干した瞬間、彼らの脳波が現実に激しくアンカー(錨)を打ち込まれていく。
明滅していたシャッターが本来の錆びた色を取り戻し、黒いモザイクが次々と消滅していった。
「カイトくん、千影! 隣町の基幹サーバーのバグ数値が急速に低下してる! 料理の熱量がシステムを圧倒しているぞ!」
阿良多が雨に濡れた眼鏡を拭いながら、ノートPCの画面を見て歓喜の声を上げる。
「……フン、当然の結果さ。僕と君の共同中継が完璧だからね」
千影がキーボードを叩く指を止めず、眼鏡の奥の灰色の瞳を不敵に細めた。
「だが、おめでたいたちの勝負はここからだ。旭通りのコアが、僕たちの予想以上に『ある一つの未練』を溜め込んでいる」
千影の警告と同時に、商店街の歪みの最深部から、ゴゴゴと地鳴りのような音が響いた。
住人たちの記憶が戻り、街が再生していく光景の真ん中で、残された最後の巨大な『裏返しの歯車』が、真っ赤な拒絶の光を放って肥大化していく。
その歯車の中央に浮かび上がったのは、十年前、店主さんたちと袂を分かつ直前の、キョウコの父親の残した『最後の思念の塊』だった。
「カイトさん、あれが父の本当の遺恨の核よ……!」
キョウコがトレンチコートを濡らしながら、厳しい表情で叫んだ。
二つの街の運命を左右する、午前零時の一分前。
夜鴉たちの出張営業は、隣町の崩壊を仕組んだ『初代開発者の亡霊』との、本当の最終決戦へと突入しようとしていた。




