第97話:境界の少年、あるいは隣町の雨音
「隣の商店街が、丸ごと消えかかっている……?」
激しい夕立の音が窓を叩く喫茶『夜鴉』の店内に、少年の悲痛な叫びが響き渡った。
カウンターの前で激しく肩を揺らし、床に雨水の水たまりを作っているのは、見慣れない中学生ほどの少年だった。
すべてを解決し、異世界の仲間たちとも「本物の人間」として日常を歩み始めたはずの俺たちに、街の境界線の向こうから新たな異変が突きつけられていた。
「ボクの街は、この商店街のすぐ隣の『旭通り商店街』なんだ。
少し前から、夕方になると街の端っこがモザイクみたいに歪み始めて……。
さっき、ボクの家のパン屋の裏口が、完全に真っ黒な壁になっちゃったんだ!
そしたら、街の皆が『最初からそんな場所はなかった』って言い出して……!」
少年は、手渡された温かいタオルを握り締め、恐怖に唇を震わせながら必死に言葉を紡いだ。
「……なるほど。地脈のバランスが崩れたツケが、隣町に回ったわけね」
カウンターの奥から歩み出てきたのは、すっかり店のチーフとしての風格が馴染んだリザだった。
彼女は少年の前に、お盆に乗せた温かいミルクココアと、焼き立てのクッキーを静かに置いた。
王女としての冷徹な分析眼を光らせつつも、怯える子供を真っ先に安心させようとするその仕草。
冷たい仮面の下に宿る、彼女のどこまでも深い包容力と優しさが、その佇まいから溢れ出ていた。
「リザの言う通りニャ。このお兄ちゃんから、地下四階のあの歯車と“そっくりだけど裏返しの匂い”がするニャ!」
ミアがカウンターの上から身を乗り出し、少年の濡れた髪をクンクンと嗅いで耳をぴょこぴょこと動かした。
本物の猫耳を手に入れたことで、彼女の野生の直感と愛らしさはさらに研ぎ澄まされている。
「ただのバグじゃないニャ。この匂い、すごく寂しくて、お腹が空いてる匂いだニャ……」
「ふむ……。我らがこの場所を守り抜いたことで、因縁のシステムが隣の土地へと染み出した、というわけか」
シルヴィアが、すっかり完治した右腕で愛刀の鞘をカチリと鳴らし、不敵に唇を歪めてみせた。
彼女の放つ、凛とした無敵の騎士の戦闘美。
だが、その視線は少年に向けられると、まるで年の離れた弟を慈しむような、柔らかくも頼もしい光へと変わる。
「案ずるな、少年。我が主の淹れる珈琲が届く範囲ならば、いかなる怪異であれ、このシルヴィアの刃が届かぬ道理はない」
「カイトくん、千影! 旭通り商店街のデジタルマップ、今、リアルタイムで座標データが消失し続けてる!」
店内の特等席でノートPCを開いた阿良多が、悲鳴に近い声を上げた。
画面には、俺たちの商店街と隣接するエリアが、まるでインクが滲むように不自然な黒い空白へと書き換えられていく様子が映し出されていた。
「……チッ、皮肉なものだな」
千影が珈琲を口に含み、眼鏡の奥の灰色の瞳を冷酷に細めた。
「僕たちの親たちが作った『最初のシステム』は、この飯塚の土地の均衡を保つための双子の構造だったのさ。
こちらのフタを完全に閉めて現実化させた結果、抑え込まれたエネルギーの歪みが、隣の古い商店街の脆弱なネットワークへ一気に流れ込んだ。
……計算( kitaichi )するまでもない。明日の夕方には、隣の街は人々の記憶ごと完全に消滅する」
かつてメビウスが語っていた「この街を創った最初のシステム」の本当の伏線。
俺たちが勝ち取った幸福の裏側で、隣り合うもう一つの日常が、その代償として生贄に捧げられようとしていた。
矛盾のない冷徹な世界のシステムが、再び俺たちに不条理な選択を迫ってくる。
「マスター……お願い、助けて……っ」
少年がすがるように俺のシャツの袖を掴んだ。
俺は少年の目線に合わせて屈み、その冷えた手をしっかりと握り返した。
「大丈夫だ。お前の街も、お前の家のパン屋の匂いも、絶対に消させやしない」
俺が顔を上げてみんなを見ると、リザも、ミアも、シルヴィアも、すでにいつでも厨房を飛び出せるような、最高の笑顔と戦闘意志をその瞳に宿していた。
「カイト、今度はアタシたちの番ね」
リザが不敵に微笑み、碧眼を輝かせる。
「私たちがこの店でもらった最高の日常を、今度は隣の街の皆にも、お裾分けしてあげましょう」
「おうよニャ! 夜鴉の出張営業の始まりだニャ!」
ミアが拳を突き上げる。
俺は懐にある、あの地下四階のマスターキーを強く握りしめた。
隣町を飲み込もうとする暗黒のバグに対し、夜鴉たちが仕掛ける、一世一代の「出張調理」。
激しい雨の音の向こう側で、新たな街の命運をかけた、本当の第二幕の幕が上がろうとしていた。




