第87話:時計塔の針、あるいは黒いメビウス
受話器から流れる不気味なツートン音が、静まり返った店内に虚しく響いていた。
かつて俺に珈琲の全てを教えてくれた店主さんの声。
だが、その響きには、あの温厚だった人の面影は微塵もなく、ただ冷徹な電子の響きだけが混ざり合っていた。
「店主さんが、全ての黒幕……? そんなの嘘ニャ! アタシ、信じないニャ!」
ミアが耳を伏せ、カウンターに突っ伏して激しく首を振った。
いつも真っ先に俺を信じてくれた彼女の心が、かつての恩人の豹変によって激しく引き裂かれている。
「落ち着き naysa、ミア。……カイト、あの声の主は、おそらく店主さんの“形”をした別の何かだわ」
リザが俺の震える肩を後ろからそっと抱きしめた。
その碧眼には、激しい動揺を押し殺した、理性的で冷徹な光が灯っている。
「異世界でもあったわ。システムの最深部に囚われた者が、自らの絶望をバグに喰われ、全く別の怪物に変貌してしまうことが。
メビウスとは、店主さんの絶望が生み出した『もう一つの人格』かもしれない」
「……それなら、なおさら私が斬らねばならんな」
シルヴィアが錆びついた太刀の柄を強く握り締め、一歩前に出た。
彼女の右腕は、先ほどの重機との戦闘による負荷で、制服の袖の上からでも分かるほど細かく震えている。
だが、その立ち姿の美しさと、主のために刃を振るうという騎士の誇りは、今この瞬間が最も眩しく輝いていた。
「かつて迷宮で私を救い、この現実世界という温かい居場所をくれた店主殿だ。
もし彼が闇に堕ちたというなら、我が一閃をもって、その縛鎖を断ち切るのが恩返しというもの」
「シルヴィアさん……」
ルカがその言葉に胸を打たれたように顔を上げ、リィナの手をきつく握り直した。
「僕たちも行きます。エンブレムが消える恐怖より、大切な人を置き去りにする方が、ずっと怖いから」
全員の覚悟が、一つの線に繋がっていく。
たとえその先に、どれほど残酷な現実が待っていようとも。
「……阿良多、千影。時計塔のシステムのバックドアは開けられるか?」
俺が振り返ると、二人の天才ハッカーは、すでに並んで一つの画面を睨みつけていた。
「開けるさ。僕とお前で組めば、店主さんの作った骨董品の癖くらい、一分で丸裸にしてみせる」
千影が不敵に口元を歪め、煤汚れたネクタイを緩める。
「カイト、お前は店主さんから貰ったあの『最初の焙煎匙』を持っていけ。
あれには十年前、彼がメビウスに書き換えられる前の、本当の“日常のデータ”が物理的に刻まれているはずだ」
「分かった。……よし、みんな。喫茶『夜鴉』の本当の営業時間を始めよう」
夜十一時四十五分。
俺たちは使い慣れた厨房の火を落とし、鍵を閉めて、深夜の商店街へと歩み出した。
街灯がまばらに照らす静まり返ったアスファルトの先に、古びた時計塔が不気味な黒い影を落として突っ立っている。
約束の十二時まで、あと5分。
カランコロン、と、風もないのに俺たちの脳裏で、あの始まりの鈴の音が鳴り響いた。
日常を取り戻すための、夜鴉たちの本当の、最後の夜が明ける。




