第88話:午前零時の文字盤、あるいは最後の選択
深夜の商店街は、まるで世界から切り離されたかのように静まり返っていた。
昼間の賑わいが嘘のように、シャッターの下りた路地には冷たい夜風だけが吹き抜けている。
その最奥にそびえ立つ古びた時計塔の前に、俺たちは立っていた。
時計の針が重なり合い、ゴーン、ゴーンと、午前零時を告げる重々しい鐘の音が響き渡る。
最後の鐘の音が夜の闇に溶けた瞬間、時計塔の正面にある鉄製の扉が、ギィと不気味な音を立ててゆっくりと内側から開いた。
「よく来てくれたね、カイト。それに、異世界の愛しき迷子たちも」
暗がりの奥から現れたのは、仕立ての古い茶色のベストを着た、あの見慣れた店主さんの姿だった。
だが、その顔の半分は、写真と同じようにノイズで抉り取られたような、不気味な半透明の空白と化している。
残されたもう半分の顔には、かつて俺に珈琲の淹れ方を教えてくれた時の、あの穏やかな微笑が浮かんでいた。
その歪な対比が、生々しい狂気となって俺たちの視界を刺す。
「店主さん……。本当に、あなたが全部仕組んだのか? 十年前、親父の資金を動かして、千影を操って……この街をゲームの舞台にしたのは、あなたなのか!?」
俺は懐の『最初の焙煎匙』を強く握りしめ、叫んだ。
「そうだよ、カイト。いや……半分は正しくて、半分は間違っている、と言うべきかな」
店主さんの姿をした男——メビウスは、抉れた顔の奥から、電子のノイズが混ざった声で静かに語り始めた。
「私は十年前、この商店街が時代の波に飲まれて消えていくのを、ただ指をくわえて見ていられなかった。
だから、この土地が持つ古い因縁のシステムを起動し、仮想世界の『迷宮』を作り出した。
街の住人たちの記憶と生命力を少しずつシステムに還元し、この商店街を永遠に滅びない『不死の箱庭』にしようとしたのさ」
「そんなの、ただの傲慢だわ」
一歩前に出たのは、王女の礼服をまとったリザだった。
その碧眼は、かつて己の国を独裁によって救おうとし、結果として滅ぼした愚かな王たちの姿を、目の前の男に重ね合わせていた。
「未来へ進む痛みを恐れて、人々を偽りの日常に閉じ込めるなんて。
あなたがやっていることは、救済ではなく、ただの緩やかな監禁よ!」
「王女殿下、理想だけではこの現実の衰退には勝てないのだよ」
メビウスが冷たく笑う。
その瞬間、彼の背後から、これまでとは比較にならない密度の、ドロリとした漆黒のバグの触手が何本も這い出てきた。
その先端が、ルカとリィナの胸のエンブレムを狙って、獲物を定める蛇のように鎌首をもたげる。
「カイト、あいつの身体から、商店街中の人間の『寂しい匂い』がするニャ……。
本物の店主さんは、あいつの奥で泣いてるニャ!」
ミアが鋭い爪を剥き出しにし、いつでも跳躍できるように身体を極限まで低くした。
野生の勘が、メビウスの冷酷な言葉の裏にある、店主さんの本当の魂の叫びを捉えていた。
「ならば、その涙ごと、我が剣で闇を割るまで!」
シルヴィアが錆びついた太刀を構え、闇を切り裂くような踏み込みで見事な一閃を放った。
右腕の激痛を完全に精神力でねじ伏せた、異世界最強の騎士による至高の一撃。
太刀の刃がメビウスの伸ばした触手を三本同時に叩き斬り、激しい火花が真夜中の空間に飛び散る。
「無駄だよ、シルヴィア。この時計塔の基幹システムは、すでにこの街の住人全員の『日常の記憶』と同期している。
私を完全に消去すれば、この街の人々は明日、喫茶『夜鴉』のことも、君たちのことも、すべて忘れる。
君たちが命を懸けて守ったあの売上も、繋いだ人情も、最初から存在しなかったことになるのさ」
メビウスの残酷な宣告。
完全な勝利の先に待っているのは、誰からも認知されなくなるという、絶対的な孤独の世界。
究極の等価交換を突きつけられ、俺たちの足元が再び激しく揺らぎ始める。
「カイトくん、千影! バックドアの解析が間に合わない!
システムの根音が住人の脳波と直結してて、僕たちのハッキングじゃ、どっちか片方しか救えない……!」
インカムから響く阿良多の悲痛な叫び。
千影もまた、キーボードを叩く手を止め、苦々しく奥歯を噛み締めていた。
「選ぶといい、カイト。自分たちの存在を消して街の記憶を守るか、それとも、街の記憶を犠牲にして、君たちだけの小さな殻に閉じこもるか」
メビウスが抉れた手を差し出し、時計塔の最深部へと俺たちを誘う。
全ての伏線が、この午前零時の文字盤の下で絡み合う。
どちらを選んでも、何かが決定的に壊れてしまう最悪のチェックメイト。
俺は握りしめた『焙煎匙』の冷たさを感じながら、リザの、ミアの、シルヴィアの、そしてルカたちの顔を見つめた。
みんなの瞳には、恐れはなかった。ただ、俺の『選択』を信じるという、真っ直ぐな光だけが宿っていた。




