第86話:切り抜かれた記憶、あるいは三人目の名前
「三人目の、開発者……?」
御子柴の脅威が去り、歓声に包まれる商店街の喧騒の裏で、喫茶『夜鴉』の店内は奇妙な静寂に支配されていた。
俺は千影が差し出してきた、色褪せた古い写真を凝視した。
親父と店主さん、そして中央で肩を組んでいるはずの男の顔は、鋭利な刃物で抉り取られたように、ぽっかりと白い空白の穴になっていた。
「ああ。僕のフロント企業の最深部、暗号化されたログの残滓にだけ、その男のコードネームが残されていた」
千影は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、灰色の瞳を酷く冷たく光らせた。
「その名は『メビウス』。十年前、おじさんの資金を千影の口座へ誘導し、店主さんをそそのかして迷宮の街のシステムを構築させた、本当の張本人さ」
「そんな……それじゃあ、店主さんは騙されて、あの電子の檻に閉じ込められていたっていうの!?」
リザが王女の礼服の袖を強く握りしめ、碧眼を驚愕に揺らした。
彼女の持つ鋭い政治的直感が、この「三人目の男」の存在が持つ、底知れない悪意の本質を一瞬で見抜いていた。
冷徹な王女としての仮面の下で、彼女はまた、大切な人を奪われる恐怖と戦い始めている。
「カイトくん、まずい。千影のデータと同期した途端、僕のメインサーバーに、その『メビウス』を名乗るドメインから、直接アクセスが来てる」
阿良多が血の気の引いた顔で、ノートPCを俺たちの方へと向けた。
画面には、規則正しく並ぶプログラムの文字列を侵食するように、おぞましい漆黒の数式がリアルタイムで書き込まれていく。
「……この街の、匂いがするニャ」
ミアがカウンターの椅子の上で低く身を構え、クンクンと鼻を鳴らした。
「異世界のバグの匂いじゃないニャ。
もっとドロドロした、人間の、この商店街の裏にずっとこびり付いてる、古い油みたいな匂いだニャ!」
ミアの言う通り、画面の向こうから伝わってくるのは、世界を滅ぼすような大層な悪意ではない。
この狭い街の片隅で、十年間じっと息を潜め、他人の日常を観察し続けてきた変執者の、生々しい人間の悪意だった。
規模が小さいからこそ、その狂気はリアルに俺たちの肌を粟立たせる。
「フン、姿を見せぬ卑怯者が。主の珈琲を汚す者は、この私が許さん」
シルヴィアが錆びついた太刀の鞘をカチリと鳴らし、不敵に唇を歪めた。
重機との戦いで右腕の痛みが再発しているはずなのに、彼女の戦闘美は一ミリも損なわれていない。
その立ち姿の凛々しさに、ルカとリィナは「僕たちも、お店を絶対に守る!」と、お互いの手を握りしめて強く頷いた。
その時、店内の壁に掛けられた古い柱時計が、ゴーン、ゴーンと、あり得ない速度で鐘を鳴らし始めた。
同時に、店の固定電話が、ジリリリンとけたたましい音を立てる。
俺が受話器を取ると、スピーカーの向こうから、酷く聞き覚えのある『声』が聞こえてきた。
それは、低くて、掠れていて、毎朝この厨房で俺に珈琲の淹れ方を教えてくれていた、あの人の声に酷く似ていた。
『——よく御子柴のチェックメイトを破ったね、カイト。
だが、その程度で“日常”を手に入れたと思わないでほしいな』
「お前……店主さんなのか……!?」
俺の叫びに、店内の全員が息を呑んだ。
『私は店主であり、店主を裏切った男でもある。
さあ、本当の最終ゲームを始めよう。
今夜十二時、商店街の時計塔の真下で待っている。
来なければ、ルカくんとリィナちゃんのエンブレムを逆回転させ、この街の全住人の記憶から、喫茶『夜鴉』の存在そのものを“最初から無かったこと”に消去する』
プツリ、と非情な音を立てて通話が切れた。
日常を守り抜いたはずの六日目の夜。
俺たちの前に現れたのは、かつて最も信頼し、最も慕っていた『日常の象徴』そのものだった。
百年の因縁を越えた先にある、本当の裏切りと、悲しき最終決戦へのカウントダウンが、静かに始まりを告げた。




