第84話:二日前のチェックメイト、あるいは地主の印鑑
「土地の、強制売却……!?」
五日目の夜、阿良多のノートPCが映し出した絶望的な電子登記申請書を前に、俺の声は裏返っていた。
画面の向こうでは、この商店街全体の土地の所有権を、御子柴の一族が別の巨大デベロッパーへと一括で譲渡する手続きが、冷酷なカウントダウンとともに進められていた。
「そうか、あのタヌキ……最初から僕たちの売上に勝つ気なんてなかったんだ」
阿良多が眼鏡を外し、激しい疲労と悔しさで顔を両手で覆った。
「商戦はただの時間稼ぎ。明日、この売却手続きが完了すれば、この商店街の店舗はすべて立ち退きを命じられる。
うちの店が物理的に解体されれば、ユキちゃんのシステムごと、ルカくんたちの存在も、僕たちの現実もすべて消えてなくなる……っ!」
「そんなの、あんまりニャ! 街の皆も、せっかくアタシたちの料理を美味しいって言ってくれたのに!」
ミアがカウンターを爪で激しく引っ掻き、怒りと悲しみで耳(のあった場所)を震わせた。
「落ち着き naysa、ミア。まだ負けたわけではないわ」
リザが珈琲のカップを静かにソーサーへと戻した。
彼女の碧眼には、先ほど記憶を取り戻した時の涙の痕がまだ微かに残っていたが、その佇まいはすでに一国の命運を握る『冷徹な王女』そのものだった。
「カイト、千影が四日前に電話で言っていた言葉を覚えている?
『御子柴が過去に犯した不正土地買収の証拠が、まだ一つだけ残っている』……。
あの男のやり口が昔から変わっていないなら、この強制売却の申請書類のどこかに、必ず決定的な『不備』があるはずよ」
「千影のデータ口座……! でも、あいつは『商戦で一週間持ちこたえたらパスワードを教える』って言ってた。明日土地が売られたら、一週間経つ前に終わっちまう!」
俺が焦り混じりに叫んだ、その時だった。
カランコロン、と、夜の静寂を切り裂いて店の鈴が鳴った。
入ってきたのは、仕立てのいいスーツのあちこちを焦がし、煤に汚れながらも、不敵な薄笑いを浮かべた千影だった。
「やあカイト、ずいぶん手こずっているみたいだね」
「千影……!? お前、警察に連行されたんじゃ……」
シルヴィアが驚愕し、太刀の柄に手をかけた。
「おじさんの残した『最終決済データ』のおかげで、僕の容疑の半分はただの民事不介入に切り替わってね。保釈金を積んで出てきたのさ」
千影はカウンターに寄りかかり、一枚の古びた『実印の印影の紙』を俺の前に滑らせた。
「御子柴のじいさんは、百年前の最初の契約書にある“マスターの命を代償にする”というバグを起動させるために、今回の売却書類に、あえて当時の『初代マスターの偽造印』を使っている。
現行の法律上、それは明らかな有印私文書偽造さ。……阿良多、僕の口座のパスワードを教える。今すぐそのデータと、御子柴の申請書を照合しろ」
「ち、千影……お前、どうして僕たちを助けるんだ?」
阿良多が戸惑いながらも、猛烈な速度でパスワードを入力し始める。
千影はフッと目を逸らし、少しだけ寂しそうに笑った。
「勘違いしないでくれよ。僕はただ、僕の計算を狂わせた君たちの『熱量』が、あんな古臭い地主の老害に、数字の暴力だけで踏みつぶされるのが気に入らないだけさ。
……それに、おじさん(親父)に、これ以上泣き顔をさせたくないからね」
かつての親友の、ひねくれた、だけど本物の不器用な優しさ。
その言葉と同時に、阿良多の画面に鮮やかな緑色のログが走り出した。
「繋がった……! 千影の隠しデータと、御子柴の売却申請書のエラーコードが完全に一致した!
この証拠を明日、商店街の組合を通して法務局に提出すれば、土地の強制売却は確実に差し止められる!」
「やったニャアアアッ!!」
ミアが千影の背中に容赦なく飛びつき、千影が「痛いな、君は相変わらず野生児だ……」と顔を顰める。
店内に、今日一番の希望の笑顔が広がった。
だが、喜びも束の間、阿良多の画面が突如として真っ赤な警告色に染まった。
「……待って。御子柴が、法務局での手続きを待たずに、明日の朝、強制執行の『解体業者』を物理的にこの店に突っ込ませる気だ。
書類が差し止められる前に、店を、物理的に破壊して証拠ごと隠滅するつもりなんだ……!」
時計の針は、午前3時を回ろうとしていた。
夜明けとともにやってくる、御子柴の最後の、そして最も狂暴な物理的排除。
喫茶『夜鴉』の日常をかけた最終決戦の朝が、すぐそこに迫っていた。




