第83話:未完成のレシピ、あるいは五感の錨
「……アタシ、お前のこと、知ってるニャ。知ってるはずなのに……」
地下の暗闇の中、ミアは自分の小さな両手を見つめながら、ぽろぽろと大粒の涙を床にこぼした。
御子柴の冷酷な嘲笑が、湿ったレンガの壁に反響する。
俺の脳裏からも、目の前で泣いている獣耳の少女の『名前』が、どうしても思い出せずにいた。
記憶の断絶。それはどんな物理的な暴力よりも、俺たちの心を絶望で叩き潰していく。
「無駄な抵抗はやめなさい」
御子柴はステッキでトントンと地面を叩き、冷たく言い放った。
「あなたがたが地下でどれほど売上を伸ばそうと、互いの存在を忘れてしまえば、それはただの『機能不全の店』だ。
絆という不確かなものに頼ったツケが、この結果ですよ」
老紳士の背後で、漆黒のバグの塊がさらに巨大な影を広げ、俺たちを完全に飲み込もうと蠢く。
意識が遠のき、自分がなぜここにいるのかさえ曖昧になりかけたその時、俺の背負っていた保温バッグから、微かな『匂い』が漏れ出してきた。
それは、じっくりと時間をかけて炒めた玉ねぎと、肉汁、そして数種類のスパイスが混ざり合った、どこまでも香ばしいハンバーグの匂いだった。
「……あ」
ミアの鼻先がピくりと動いた。
その瞬間、彼女の瞳に強い光が戻る。
「この匂い……アタシ、知ってる。まいにち、厨房でアタシが玉ねぎを刻んで、お前が肉を捏ねてたニャ!
名前なんて、名前なんて忘れても、アタシの鼻とお前の料理は、ちゃんと繋がってるニャ!」
「ミア……!」
その瞬間、俺の口から、彼女の名前が自然と飛び出していた。
言葉や文字列としての記憶が消されても、毎日五感で刻み込んできた『夜鴉の味』と、共に過ごした調理場の熱気までは、御子柴のシステムでも削除しきれなかったのだ。
かつて異世界で出会った初期の頃、ミアはいつも俺の作る試作のハンバーグを真っ先に毒見(つまみ食い)しては、率直な感想をくれていた。
あの『未完成のレシピ』を何度も改良してきた日々こそが、俺たちの魂に直接打ち込まれた、最強の錨だった。
「チッ……不快な野生の直感ですね」
御子柴が初めて不快そうに眉をひそめた。
「だが、地上のリザはどうかな? 彼女の持つ絶望の深さは、あなたの料理人ごっこの匂い程度では拭えませんよ」
御子柴の影が揺らめき、彼は闇の奥へと消え去った。
残されたバグの障壁を、ミアの驚異的な跳躍と爪の一撃が切り裂く。
「カイト、戻るニャ! 店の皆が危ないニャ!」
俺たちは、魚屋のハッチから全速力で地上の『夜鴉』へと駆け戻った。
店内に飛び込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
カウンターの奥で、リザが呆然と、自分の淹れた珈琲のカップを見つめていた。
彼女の美しい碧眼には、完全に光が失われている。
「私は……誰のために、この珈琲を淹れていたのかしら。
私は王女で……この店を守らなければならなくて……でも、どうして?」
「リザ!」
俺が駆け寄って彼女の肩を掴むが、リザは怯えたように身を硬くした。
「来ないで……。失うのが怖い。名前を忘れるくらいなら、私は最初から、誰も愛さなければよかった……」
彼女の記憶の摩耗は、俺たちよりも遥かに深刻だった。
異世界での亡国のトラウマ、そして大切な臣下を忘れてしまった過去の傷が、このバグの呪いによって強制的に引き出されていたのだ。
阿良多のノートPCは、無情にも『リザの記憶残量:残り15%』を示していた。
「リザ殿、しっかりしろ!」
シルヴィアが右腕の激痛を堪えながら叫ぶが、リザの耳には届かない。
俺は、厨房へ走り、まだ熱い鉄板の上から、一つのハンバーグを皿に盛ってリザの前に差し出した。
ソースさえかかっていない、肉の旨味だけで勝負する、あの異世界で最初に出した『未完成のレシピ』のハンバーグだ。
「リザ、これを食べてくれ。お願いだ」
リザは震える手でフォークを持ち、小さく一口、肉を口に運んだ。
咀嚼した瞬間、彼女の身体が大きく震えた。
涙が、ぽたぽたと皿の上に落ちていく。
「……熱い。不器用で、ちょっと焦げてて……でも、どこまでも優しい。
私、知ってる。この味を、ずっと探していたの。
私を『王女』としてではなく、ただの『リザ』として見てくれた、大切な人の……」
リザの瞳に、美しいサファイアのような輝きがゆっくりと戻ってくる。
彼女は俺の顔を見つめ、泣き笑いのような表情で、その愛おしい唇を動かした。
「……カイト。私、あなたを忘れたりしない。絶対に」
伏線は回収された。
御子柴の狙いは、俺たちの絆を内側から破壊することだったが、皮肉にもこの極限状態が、リザの心を過去のトラウマから完全に解放し、俺たちとの絆を『絶対の物』へと昇華させたのだ。
「みんな、グラフを見てくれ!」
阿良多が興奮した声を上げた。
「リザさんの意識が戻った瞬間、店のサーバーがものすごい出力を叩き出してる!
地下の売上だけじゃない、商店街の連中が、御子柴の封鎖を外側から崩し始めてるんだ!」
窓の外を見ると、魚屋の源さんを筆頭に、商店街の店主たちが『地下工事』の看板を掲げる男たちに猛抗議を始めていた。
「おい! うちの厨房の床下を勝手に通るんじゃねぇ!」と、大騒ぎを起こして警察を巻き込み、物理封鎖を強制的に解除させようとしていたのだ。
地主の権力に対し、商店街の『人情』という名の逆襲が始まった。
だが、モニターを凝視していた阿良多の顔が、突如として血の気を失った。
「……待ってくれ。御子柴のチェーン店の売上データが、今、不自然な挙動をしてる。
これ……売上を偽装してるんじゃない。
御子柴は、明日、この商店街全体の土地を『強制売却』する手続きを完了させる気だ……!」
タイムリミットまで、あと2日。
商戦のルールそのものを物理的に消し去ろうとする御子柴の最終手段。
記憶を取り戻した夜鴉たちの前に、最大のチェックメイトが迫ろうとしていた。




