第82話:消えゆく名札、あるいは水底の約束
「……名前が、消えるニャ?」
四日目の朝、静まり返った喫茶『夜鴉』の厨房で、ミアが自分の胸に付けた真鍮の名札をそっと触りながら、小さく呟いた。
阿良多のノートPCが弾き出したのは、地下のバグを排除する代償として、俺たちの現実の記憶が摩耗していくという非情なバグの数式だった。
商売で勝たなければルカたちを奪われ、かと言って地下ルートを守るために戦えば、仲間との思い出を失う。
御子柴の仕掛けた呪いは、どこまでも俺たちの「繋がり」を標的にしていた。
「嘘よ……そんなの、絶対に認めないわ」
リザがカウンターに両手をつき、悔しさに唇を噛んだ。
彼女の碧眼には、かつて異世界で大切な臣下たちを失った時の、深い喪失の記憶が過っている。
「カイト、私は……あなたに名前を呼ばれなくなるくらいなら、最初からこの現実に残ったりしなかった!」
いつもの冷静な王女の仮面をかなぐり捨て、感情を露わにするリザ。
その必死な姿に、俺の胸が締め付けられる。
彼女の気高さの裏にある、誰よりも強い「孤独への恐怖」と俺への一途な想いが、店内の全員の心を動かしていた。
「案ずるな、リザ殿。そしてカイト殿」
シルヴィアが、未だ鈍い痛みを放つ右腕を左手で庇いながら、静かに、けれど揺るぎない足取りで前に出た。
「たとえ私の脳からお前たちの名が消え去ろうとも、この左腕に刻まれた武人の記憶と、主を守るという魂の誓いは、決して消えはせん。
記憶がなんだ。そんなものは、この商戦に勝利した後に、またこの店で一杯の珈琲を飲みながら、いくらでも作り直せばいい!」
長い髪をなびかせ、不敵に言い放ったシルヴィアの戦闘美。
どんな絶望的な等価交換を突きつけられても一歩も引かない彼女の気高さに、ルカとリリィの兄妹は「僕たちも、絶対に諦めません!」と、涙を拭って力強く頷いた。
「よし……! 阿良多、地下のバグの配置図を更新してくれ。
ミア、シルヴィア、戦闘は最低限に抑える。一撃で路を開き、記憶の摩耗を最小限に食い止めるぞ」
俺の言葉に、全員が「応!」と短く叫んだ。
たとえ明日、お互いの顔を忘れる恐怖が迫っていようとも、夜鴉たちの結束はさらに硬く、熱く燃え上がっていた。
四日目の商戦が始まった。
地上の封鎖は続いているが、魚屋の源さんが商店街の裏ネットワークで声をかけてくれたおかげで、地下ハッチからの注文は昨日を遥かに凌駕していた。
俺とリザは、壊れそうな記憶を繋ぎ止めるように、お互いの呼吸を合わせて特製ハンバーグを焼き、珈琲をドリップし続けた。
阿良多の画面の売上は、御子柴のチェーン店を確実に、ミリ単位で追い詰め始めている。
しかし、午後三時。
地下三階の、最も深い配管のハッチへデリバリーに向かった俺とミアの前に、かつてないほど巨大な、漆黒のバグの壁が立ち塞がった。
それは、百年前の最初の地主が残した、この土地の呪いの本尊だった。
「カイト、後ろに下がるニャ! こいつの匂いは、今までの一雑魚とはレベルが違うニャ!」
ミアが俊敏に跳躍し、バグの触手を鋭い爪で引き裂く。
だが、その衝撃の瞬間、俺の頭の中に強烈なノイズが走った。
(あれ……? 俺の目の前で、必死に戦ってくれている、この耳の尖った可愛い女の子の……名前は、何だっけ……?)
脳の奥の引き出しが、物理的にロックされていくような恐ろしい感覚。
俺だけじゃない。ミアもまた、着地した瞬間に一瞬だけ呆然と俺を見つめ、「カ……カ……」と言葉を詰まらせた。
お互いの名前が、爪の先から砂のように崩れ落ちていく。
その時、暗闇の奥から、コツン、コツンと、あの聞き覚えのある黒いステッキの音が響いてきた。
現れたのは、灰色のスーツを完璧に着こなした御子柴だった。
老紳士は、地下のバグを従えるように冷酷に微笑み、俺たちを見下ろした。
「素晴らしい足掻きだ、現在のマスター。だが、それもここまでです。
記憶を失い、お互いをただの他人だと思い込んだ時、あなた方のその砂上の城は、内側から瓦解する。
さあ、その壊れた頭で、一週間後のチェス盤をどう進めるつもりかね?」
タイムリミットまで、あと3日。
売上では追い詰めているはずの現実の裏側で、俺たちの絆の根幹が、今まさに完全に消滅しようとしていた。




