第81話:地下の配管網、あるいは漆黒の配達人
「カイト、リザ、ここから先は本当に真っ暗だニャ。でも、アタシの目には全部見えてるニャ」
喫茶『夜鴉』の床裏に隠されていた、古びた鋳鉄製の螺旋階段。
そこを下りきった先には、百年前のレンガ造りの地下貯水池と、現代の太い水道配管が複雑に交差する暗黒の迷宮が広がっていた。
手元を照らすのは、阿良多が渡してくれたノートPCの微かなバックライトだけだ。
地上は御子柴の息がかかった男たちによって完全封鎖され、客足は途絶えた。
だが、この暗闇の配管網こそが、商店街のすべての建物の床下へと繋がる、俺たちの反撃のライフラインだった。
俺は焼きたてのハンバーグサンドを詰め込んだ保温バッグを背負い、隣を歩くリザの小さな手を引いた。
「カイト、私の心配は要らないわ。これでも元は戦場を駆けた王女よ。泥にまみれる覚悟なんて、あの国を出た日に済ませてあるわ」
リザは碧眼を鋭く光らせ、手にした保温ボトルを愛おしそうに抱きしめた。
その凛とした言葉とは裏腹に、俺の手を握り返す彼女の指先が微かに震えているのを、俺は感じていた。
気高く、だけど本当は誰よりも繊細な少女。そのギャップが、仲間たちの、そして俺の戦う意志を何倍にも強くさせる。
「……待つニャ! 前方から、あの千影のサーバー室にいたのと同じ『冷たい影』が来るニャ!」
先頭を歩いていたミアが、低く身を構えて鋭い牙を剥いた。
暗闇の奥から、ドロリとした黒いバグの塊が、実体を持った泥のようにレンガの床を這って現れた。
御子柴の一族が百年前からこの土地の底に溜め込んできた、怨念のようなシステムエラー。
それが、ルカの胸のエンブレムの輝きを奪おうと、触手を伸ばして襲いかかってくる。
「フン、有象無象が。我が主の商路を邪魔させるか!」
その瞬間、シルヴィアの身体が闇を切り裂いて跳躍した。
彼女の手にあるのは、物置の奥で眠っていた錆びついた鉄の太刀。
現実世界の物理法則に縛られ、右腕も満足に動かないはずの彼女だったが、その一閃は完璧な軌道を描いて黒い泥を真っ二つに一刀両断した。
激しい金属音が響き、バグの塊が霧のように霧散していく。
「はぁ……はぁ……。左手一本の剣技ゆえ、少し型が崩れたな。カイト殿、見苦しいところを見せた」
シルヴィアは息を乱しながらも、刀を美しく引き、長い髪をサッと払って不敵に笑ってみせた。
どんな逆境でも騎士としての誇りを失わない彼女の戦闘美に、後方に控えていたルカが「すごすぎる……!」と、拳を握りしめて目を輝かせていた。
「みんな、今のうちに走るんだ! 次のバグが来る前に、最初の配達ポイントへ!」
通信インカムから、地上の店でモニターを監視している阿良多の叫び声が響く。
「その配管の真上が、商店街の『魚屋の源さん』の厨房床下だ! データを同期させた、ハッチを開けてくれ!」
俺たちはレンガの通路を駆け抜け、錆びついた鉄のハッチを押し上げた。
ガラガラと音を立てて顔を出すと、そこはいつも仕入れでお世話になっている魚屋の厨房だった。
「うおっ!? カイトにリザちゃん、それにシルヴィアたちまで、一体どこから……!」
長靴を履いた源さんが、驚愕のあまり持っていた出刃包丁を落としそうになった。
「源さん、地上が御子柴に封鎖されたんだ。これ、特製のハンバーグサンドと、淹れたての珈琲。食べてくれ!」
俺が保温バッグから熱々のサンドを取り出すと、厨房に香ばしい肉の匂いと、リザの珈琲の温かい香りが爆発的に広がった。
源さんはそれを受け取り、大きな口でガブリと噛みついた。
「……美味い! なんだこれ、冷え切った身体に一気に元気が湧いてきやがる!
そうか、あの御子柴のタヌキ、お前たちを潰すために路地を閉めやがったな。
舐めるんじゃねぇ、商店街の連中を全員集めて、地下からこのサンドを買いにこさせてやるよ!」
伏線は、俺たちがこの商店街で何年もかけて築いてきた『人情』という名の信頼だった。
御子柴がどれだけ法律や看板で地上を塞ごうとも、この味を知る人々の胃袋までを支配することはできない。
源さんの呼びかけにより、地下の配管網を通じて、八百屋、肉屋、時計店の店主たちが、次々と夜鴉のデリバリーを求めて集まり始めた。
阿良多のPC画面の売上グラフが、地下からの注文によって、再び垂直に跳ね上がっていく。
しかし、三日目の夜。
怒涛の地下配達を終えて店に戻った俺たちの前に、阿良多が信じられないデータを突きつけた。
「カイトくん、大変だ……。地下のバグをシルヴィアさんが斬るたびに、システムの処理負荷が、僕たちの現実の『記憶』の領域に逆流し始めている。
このまま商戦を続ければ、一週間後の決戦を前に……僕たちは、お互いの名前を忘れてしまうかもしれない」
画面に表示された『記憶データ・破損率60%』の文字。
勝ち進むたびに、仲間との絆の記憶が消えていく。
あまりにも残酷な等価交換のルールを前に、リザが呆然と、その場に崩れ落ちそうになった。




