第77話:初日のチャイム、あるいは鉄板の上の覚悟
「——命を、代償に……」
深夜の薄暗い厨房で、俺は親父の残した古い契約書を凝視したまま立ち尽くしていた。
百年前の地主と初代マスターの契約。店主さんが突然俺たちの前から消え、迷宮の街のシステムに囚われていた本当の理由が、この紙切れ一枚に残酷な事実として刻まれている。
御子柴の一族は、この店の売上やルカたちの身柄を揺さぶりながら、最終的には俺という『現在のマスターの命』をシステムごと回収するつもりなのだ。
「カイト、そんなところで何をしているの?」
不意に背後から声をかけられ、俺は慌てて書類を背中に隠した。
そこに立っていたのは、シルクのパジャマの上に薄いカーディガンを羽織ったリザだった。
眠れなかったのか、その美しい碧眼には微かな疲労の色があったが、俺の不自然な動きを彼女が見逃すはずもなかった。
「隠さなくていいわ。……それが何なのか、大体の予測はついているから」
リザは静かに歩み寄り、俺の背後からその書類をすっと抜き取った。
月明かりに照らされた彼女の横顔が、一瞬だけ厳しく引き締まる。
「リザ……知ってたのか?」
「店主さんが消え、千影がこの店に固執し、そして御子柴がこのタイミングで現れた。
これだけのピースが揃えば、この土地にかけられた『呪い』の正体くらい、王宮の書庫で歴史を学んできた私には分かるわ」
リザは書類を強く握りしめ、まっすぐに俺を見つめた。
「でもね、カイト。あっちの世界で、数千人の命を背負って戦ってきたあなたを、こんな古い紙切れ一枚のために死なせたりしない。
あなたは私たちのマスターであり、私が……私が現実に残るって決めた、たった一人の男なんだから」
リザの言葉に、胸の奥が熱くなる。
彼女の気高さと、その裏にある少女としての強い情愛。
守るべき日常のために、彼女はすでに己のすべてを賭ける覚悟を決めていた。
「ありがとう、リザ。……絶対に負けられないな」
そして迎えた、商戦初日の午前11時。
喫茶『夜鴉』の入り口に吊るされた真鍮のベルが、カランコロンと勢いよく鳴り響いた。
「新装開店にゃ! いらっしゃいませにゃ!」
ミアが店の前で元気に声を張り上げる。
シルヴィアがデザインしたチラシと、彼女自身が門番のように美しく店の前に佇んでいる効果は絶大だった。
SNSの噂を聞きつけた地元の若者や、商店街の常連たちが、次々と店内に吸い込まれていく。
「カイトさん、ハンバーグセット5、珈琲付きです!」
ルカが活気のある声でオーダーを厨房に伝えてくる。
彼の手はもう透けていない。しっかりと現実のトレイを握りしめ、妹のリィナも「お待たせしました!」と笑顔でお冷を運んでいる。
二人のひたむきな姿に、商店街の八百屋の店主が「お、頑張ってるな」と目を細めていた。
「リザ、ソースの温度は?」
「完璧よ。肉汁の旨味を完全に閉じ込める沸点に達しているわ」
厨房でのリザの手捌きは、昨日までの不器用さが嘘のように洗練されていた。
王族としての徹底的な『完璧主義』が、今や料理のクオリティを高める最高の才能へと昇華している。
ジュウジュウと鉄板の上で弾ける特製デミグラスソースの香ばしい匂いが、店内を幸福な空気で満たしていく。
「よし、阿良多、売上のリアルタイムデータはどうだ?」
カウンターの隅で、阿良多が凄まじい速度でノートPCを叩いていた。
「初日の出だしとしては最高だ。客単価、回転率ともに大手チェーンの予測数値を上回っている。
……だけど、向こうも黙っちゃいない。御子柴の息がかかったあのチェーン店、数分前から『全品半額キャンペーン』のゲリラ告知を打ち出してきた」
阿良多の画面には、商店街の入り口にある大手カフェの前に、凄まじい大行列が出来始めていく様子が映し出されていた。
資金力に物を言わせた、えげつない価格破壊。
こちらの売上を物理的にゼロにしようとする、御子柴の容赦ない現実の牙が、初日から俺たちの前に立ちはだかった。
タイムリミットまで、あと6日。
初日の歓喜から一転、圧倒的な資本の暴力に、夜鴉のメンバーは再び息を呑んだ。
だが、俺たちの料理の熱量と絆は、まだ一歩も引いてはいない。




