第76話:仕込みの夜、あるいは焦げ付いた秘密
千影からの電話が切れた後、店内の空気は戦う者たちの熱気で満ちていた。
御子柴を倒すための最後の鍵は、千影が残した不正の証拠。
そしてそれを手に入れる条件は、一週間後の商戦で大手カフェチェーンに勝利すること。
「千影の奴、最後までひねくれてるニャ……。でも、あいつのおかげで目標がはっきりしたニャ!」
ミアがカウンターの椅子から軽やかに飛び降り、拳を握りしめる。
「ええ。泣いても笑っても、この一週間が私たちのすべての境界線になるわ」
リザはノートから顔を上げ、厨房の奥にある焙煎機を見つめた。
彼女の碧眼には、かつて己の領地を救うために冷徹な商人と渡り合った時と同じ、冷徹なまでの『経営者』の計算が走っている。
だが、俺と目が合った瞬間、その瞳に少女のような微かな迷いが過ったのを、俺は見逃さなかった。
「……リザ、どうかしたか?」
俺が声をかけると、彼女は少しだけ耳の付け根を赤くして、広げたノートの隅を指先でなぞった。
「カイト、私……あちらの世界では王族として、最高級の茶葉や香辛料の流通しか扱ってこなかったわ。
でも、この街の人たちが求めているのは、もっと身近で、安価で、だけど毎日通いたくなるような『日常の味』でしょう?
私のような高飛車なやり方が、この庶民的な商店街で本当に通用するのか、少しだけ……不安なのよ」
「高飛車なんてことないわよ、リザさん!」
ルカが透けなくなった両手を強く握りしめ、身を乗り出した。
「リザさんが今朝淹れてくれた珈琲、僕、今まで生きてきた中で一番温かくて、ホッとしたんです。
高級とか庶民的とか関係ないです。リザさんの真剣な気持ちは、絶対にこの街の人たちにも伝わります!」
「ルカ……」
リザは驚いたように目を見開き、それから本当に愛おしそうな、柔らかい笑みを浮かべた。
彼女の持つ『完璧な気品』と、時折見せる『等身大の不器用さ』。
そのギャップが、夜鴉のメンバーだけでなく、これからの顧客をも惹きつける最大の武器になることを、俺は確信していた。
「よし、まずは看板メニューの決定だ」
俺は厨房から、親父が昨日買ってきた肉の残りと、地元の八百屋から仕入れた新鮮な野菜をカウンターに並べた。
「相手のチェーン店は、洗練されたサンドイッチやフラペチーノが売りだ。
ならうちは、店主さんが昔作ってくれた、あの『特製デミグラスの煮込みハンバーグ』をベースにしたランチで勝負する。
珈琲とセットで、この商店街の人たちのお腹と心を同時に満たすんだ」
「素晴らしいニャ! アタシ、その肉の匂いなら何時間でも嗅いでいられるニャ!」
ミアが嬉しそうに俺の腕にすり寄ってくる。
彼女の無邪気な野性が、張り詰めた店内の空気をいつも最高に和ませてくれた。
「カイト殿、チラシのデザイン案ができたぞ」
シルヴィアが、阿良多に教わりながら慣れない手つきでタブレットを操作し、画面を掲げて見せた。
そこには、彼女の美しい立ち姿の写真を背景に、流麗な文字で『夜鴉、新装開店』と書かれていた。
「文字の配置などは阿良多殿に修正してもらったが……どうだろうか? 私が直々に商店街でこれを配れば、少しは効果があるだろうか」
「少しどころじゃないよ、シルヴィアさん」
阿良多が眼鏡を押し上げながら苦笑する。
「君がその服で商店街に立ったら、それだけで大行列ができるさ。
すでにSNSのローカルタグで、うちの店の前の『靴べら無双』が都市伝説みたいに拡散され始めてるんだから」
「む、無双とは人聞きが悪いな……。私はただ、無礼者を軽くお諌めしただけだぞ」
シルヴィアが顔を赤くしてそっぽを向く。
異世界最強の女騎士が、現実のSNSという概念に戸惑っている姿は、最高にチャーミングだった。
全員がそれぞれの持ち味を活かし、一週間後の決戦に向けて歯車が噛み合い始める。
ユキが命を懸けて繋いだこの店で、親父の残してくれた軍資金を元手に、俺たちは本当の反撃の仕込みを始めた。
しかし、夜が更けた午前2時。
全員が眠りについた静まり返る厨房で、俺は一枚の古い書類を見つけてしまった。
それは、親父が地下室に残していった、十年前の最初の出資契約書の『焦げ付いた裏面』だった。
そこには、御子柴の一族の印章とともに、不気味な一文が残されていた。
『——喫茶店『夜鴉』の土地は、百年前の契約により、システムが起動した瞬間に最初のマスターの命を代償として捧げるものとする』
「店主さんが、消えた理由は……これだったのか……」
俺の手が、静かに震え出す。
御子柴の狙いは、ルカたちの身柄だけではない。この店のシステムそのものを完全に掌握するために、俺の命をも狙っているのだ。
日常を取り戻すための商戦の裏で、血塗られた百年前の因縁が、暗い牙を剥いて俺たちの足元へ忍び寄っていた。




