第73話:最初の出資額、あるいは家族の暗号
喫茶『夜鴉』の地下室へと続く錆びた階段を、俺は転がるように駆け下りていた。
立ち込めるカビの匂いと、電子機器が放つ独特の熱気。
その最奥で、ミアが親父の胸ぐらに掴みかかり、リザがノートPCのキーボードの前に立ち尽くしていた。
「おじさん、早く思い出すニャ! 最初の数字は何ニャ!?
ルカとリィナの身体が、もう半分透き通って消えそうなんだニャ!」
ミアが鋭い牙を剥き出しにして叫ぶ。だが、その瞳には大粒の涙がたまっていた。
親父は床にへたり込んだまま、灰色の頭を抱えて激しく首を振っていた。
「思い出せん……! 十年前、千影のフロント企業に、とにかく手元にある金をすべて振り込んだんだ。
あの時はカイトが倒れる前で、あいつの怪しい研究に投資すれば、いつか息子の役に立つとしか考えていなかった……。
正確な1円単位の数字なんて、老いぼれた俺の頭じゃ……っ!」
「おじ様、落ち着いてください!」
リザが親父の肩を強く抱きしめた。
「数字そのものを追ってはダメです。あなたがカイトを救うために、その時『何を捨てて、何を残したか』を思い出してください。
異世界の戦術でも同じです。極限状態の人間が選ぶ数字には、必ずその人の『心』が刻まれます!」
リザの凛とした、けれど包み込むような温かい声に、親父の激しい呼吸が不意にピタリと止まった。
親父の脳裏に、十年前のあの静かな夜の光景が蘇っていく。
「……そうだ。あの時、俺はカイトの母親の遺品整理を終えたばかりだった」
親父がぽつりと、掠れた声を出した。
「母さんの、遺品……?」
俺は息を切らせながら、親父の前に膝をついた。
「ああ。お前がまだ幼い頃に亡くなった、母さんの貯金通帳と、俺の全財産を合わせたんだ。
千影に『全額出せ』と言われて、俺は迷わずそうした。だが、どうしても全額は出せなかった。
お前が高校を卒業して、いつか自分の店を持つって言った時のために、その『開店資金』の分だけは、絶対に手をつけないと決めて差し引いたんだ」
親父が顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。
「カイト、お前が生まれた日の体重と、母さんの命日の日付……。
俺が口座に残した、お前のための『未来の軍資金』は……4,103,208円だ。
ということは、千影の口座に振り込まれた最初の額は、当時の全財産からそれを引いた、残りの……!」
「それニャアッ!!」
ミアが叫ぶと同時に、リザが親父の古い通帳の裏にメモされていた当時の総資産の数字から、その『未来の軍資金』の額を瞬時に引き算した。
「出たわ! 最初の決済額は『5,492,100円』よ!」
リザの指先が、ユキのメインサーバーのパスワード入力欄に、その7桁の数字を叩き込んだ。
エンターキーが押された瞬間、地下室の大型モニターに、赤文字のエラーではなく、緑色の『APPROVED(承認)』の文字が弾けるように浮かび上がった。
ワンテンポ遅れて、俺のポケットの中でインカムがパチパチと音を立てる。
『……カイトくん! 成功だ!』
5階に残っていた阿良多の、歓喜に震える声が響いた。
『ルカくんとリィナさんのデータの輪郭が、完全に固定された!
システムが彼らをこの現実世界の“正式な住人”として書き換えたんだ! 二人とも、ちゃんとここにいるよ!』
「やった……やったニャアアアッ!」
ミアが俺の首に飛びつき、獣のようにもみくちゃになって喜んだ。
リザも、崩れ落ちるように安堵の息を漏らし、その美しい顔にいつもの穏やかな微笑みを取り戻していた。
すべてが終わった。千影の計算を、親父の残した『410万3208円』という、歪で、最高に温かい家族の暗号が打ち破ったのだ。
俺は親父のゴツゴツした手を強く握りしめた。
だが、緑色に輝くメインサーバーの画面が、不意に暗転した。
そこへ、誰も予期していなかった『自動音声』のメッセージが、静かに流れ始める。
『——警告。全権利がユキへ譲渡されたことにより、システムは最終フェーズへと移行します。
これより、現実世界へ上書きされたすべての住人に対し、この街の“真の所有者”から課される『日常の維持税』の徴収を開始します。
最初の執行官が、まもなく喫茶『夜鴉』の入り口に到着します』
「維持、税……? 執行官って、何のことだ……!?」
俺の背筋に、千影の時とは全く違う、底知れない冷たい戦慄が走った。
その時、1階の店舗の方から、カランコロンと、不気味に静まり返ったドアの呼び鈴が鳴り響いた。




