第72話:透き通る輪郭、あるいは親父の背中
「ルカ! リィナ!」
エレベーターへ向かって走る俺の背後で、リザの悲痛な叫びが響いた。
振り返ると、ルカだけでなく、彼のシャツの袖を掴んでいた妹のリィナの身体までもが、まるで朝の光に溶ける霧のように、境界線を失って透き通っていっている。
「……カイトさん、ごめんなさい。やっぱり、僕たちはこの世界に、うまく馴染めなかったみたいです」
ルカが消え入りそうな声で、それでも無理に微笑もうとしていた。
彼の胸のエンブレムは、もうチクタクという音を立てていない。ただ弱々しく、消滅を待つ蝋燭のように明滅しているだけだ。
「バカなことを言うな! ここまで来て、誰一人置いていくわけがないだろ!」
俺はルカの透けかけた肩を掴もうとしたが、俺の手は虚しく空を切った。
物理的な質量が、彼らから急速に失われている。
千影のサーバーを破壊し、日常を取り戻したはずの5階のフロアに、再び冷酷な『消去』の気配が立ち込めていた。
「カイトくん、原因が分かった!」
阿良多がエレベーターの壁にノートPCを押し付け、血走った目で画面を解析する。
「お父様が地下のメインサーバーへ送った最終決済データ……あれは千影への支払いじゃない!
千影の医療システムを強引に買い取り、その全権利をユキちゃんへ譲渡するための処理だ!
だけど、その莫大な手続きの負荷のせいで、システムがルカくんたちを『未承認のデータ』だと誤認して排除しようとしている!」
「排除、だと……!?」
「このままじゃ、あと3分で二人の存在データが完全に消去される。
防ぐには、地下のメインサーバーに直接、承認の『手動パスワード』を打ち込むしかない。
だけどそのパスワードは、お父様の口座の、十年前の『最初の取引履歴の金額』だ。僕のハッキングでも、そこまでは追いきれない……!」
阿良多がキーボードを叩く拳を血がにじむほど強く握りしめた。
天才プログラマーの彼が、現実の銀行システムの壁に阻まれて足掻いている。
その横で、シルヴィアが悔しげに唇を噛み、千影の身柄を掴んだまま低く唸った。
「千影! 貴殿ならその金額を知っているはずだ! 言え!」
「……さあね。十年前の最初の出資額なんて、僕の古いハードディスクの奥底さ。
今からサルベージしても、3分じゃ間に合わないよ」
千影は拘束されたまま、いつもと変わらない冷徹な目でルカたちを見つめていた。
あいつの計算では、ルカたちの消滅すらも、システムが正常化するための『仕方のないコスト』でしかないのだ。
「——アタシ、覚えてるニャ」
その時、エレベーターの隅で低く身を構えていたミアが、静かに声を上げた。
彼女の目は、人間の姿のままでありながら、かつて迷宮の街で見たあの鋭い『夜の獣』の光を完全に取り戻していた。
「ミア……? 覚えているって、親父の口座の数字をか!?」
「数字は分からないニャ。でも、匂いは覚えてるニャ!
三年前、カイトが倒れたあの改札口のベンチの裏に、おじさんが落とした『古い通帳』があったニャ。
アタシ、その通帳に染み付いていた、おじさんの涙と、インクの古びた匂いを今でも鼻が覚えてるニャ!」
ミアが弾丸のようにエレベーターの扉をこじ開け、まだ動き出していない階段の暗がりへと飛び降りた。
「アタシが先に行って、おじさんからその数字を嗅ぎ出すニャ! カイト、リザ、みんなを頼んだニャアッ!」
「ミア! 待って、私も行くわ!」
リザが保温ボトルを抱えたまま、ミアの後に続いて階段を駆け下りていく。
王女としてのプライドも、日常の躊躇いもすべて捨て去り、ただ仲間を救うために走る彼女の背中は、誰よりも気高く、頼もしかった。
「シルヴィア、千影を見張っててくれ! 阿良多、ルカたちを頼む!」
「承知した! カイト殿、ここは任せて、お前は親父殿の元へ!」
シルヴィアの左手が千影の肩をガチリと固定する。
俺は階段の段差を3段飛ばしで駆け下りた。
心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、手のひらの火傷の痕が、まるで地下にあるユキのサーバーに呼応するように熱く疼き始める。
親父が十年間、俺のために隠し続けてきた歪んだ通帳。
そこに刻まれた最初の数字こそが、ルカとリィナをこの現実世界へ繋ぎ止める、最後の、そして本当の『日常の鍵』だ。
1階へ、そして喫茶『夜鴉』の床下へ。
俺たちの歪で愛おしい家族の真実を暴くための、最後の数十秒の疾走が始まった。




