第68話:一階の静寂、あるいは騎士の面目
千影の拠点である雑居ビルは、商店街の裏路地にそびえ立つ、古びた5階建ての建物だった。
午前8時30分。
自動ドアを抜けてエントランスへ足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気が俺たちの肌を刺した。
大理石の床が広がるロビーの奥には、黒い防刃ベストを着用した屈強な民間警備員が、きっちり10人、一列に並んで行く手を阻んでいる。
「……本当にいたニャ。全員、あいつの会社のバッジをつけてるニャ」
ミアが俺の斜め前に進み出、低く身を構えた。
鋭い視線が警備員たちの重心の動きを完全に捉えている。
現実世界に戻り、異能の力が制限されているはずの彼女だが、その身のこなしには野生の獣が持つ特有のしなやかさと、一瞬で敵の懐へ飛び込める爆発的な気配が満ちていた。
その「絶対にカイトを傷つけさせない」という一途な瞳が、仲間としての信頼を何よりも物語っている。
「カイト殿、ここは私とミアの戦場だ。貴殿らは先へ進む準備を」
シルヴィアが前に出た。彼女の手には、使い慣れた木刀ではなく、喫茶『夜鴉』の物置にあった古い『金属製の靴べら』が握られている。
いくら千影が仕掛けたゲームとはいえ、現実世界で木刀を振るえば過剰防衛に問われかねない。
だが、彼女の佇まいは、まるで円卓の騎士が聖剣を構えたかのように堂々としており、その凛とした美しさに警備員の一人が思わず気圧されたように唾を呑んだ。
「現実の警備員諸君。我が主の行く手を阻むというのなら、容赦はせん。
……ただし、我が騎士の誇りに懸けて、諸君の命までは奪わぬと約束しよう」
「なんだあ? ナメた真似しやがって、捕まえろ!」
先頭の警備員が無線を叩きながら一歩を踏み出した、その瞬間だった。
シルヴィアの身体が陽炎のようにブレた。
ガツン、と鈍い音が響いたときには、先頭の男の顎の下に金属製の靴べらがピタリと突き立てられ、その頸椎の動きを完全に封じ込めている。
驚異的な体術。システムによる身体能力の補正が消えたはずのこの世界で、彼女は純粋な『個の武技』だけで、現実のプロを圧倒していた。
「ミア、左だ!」
「任せるニャァッ!」
シルヴィアの鋭い指示に呼応し、ミアが弾丸のように地を蹴った。
襲いかかろうとした二人の警備員の制服の袖を鋭く引っ張り、強引に体勢を崩れさせる。
バランスを失った男たちの手首を、シルヴィアが流れるような手捌きで掴み、一瞬で関節を極めて床へと組み伏せた。
「ぐああっ!? 動けねぇ!」
「ば、化け物か……っ!」
「失礼。ただのしがない喫茶店の給仕係だ」
シルヴィアは長い髪を美しくなびかせながら、不敵に笑ってみせた。
左手一本でこれだけの立ち回りを演じる彼女の戦闘美は、あちらの世界の戦場を知る俺たちでさえ見惚れるほどの完成度だった。
動かないはずの右腕を、ミアが背後からそっと支えるように位置取り、二人の連携は一分の隙もない完璧な壁となってロビーを制圧していく。
「カイト、今のうちにエレベーターへ! 2階以上のセキュリティは私が通信でジャミングするわ!」
ロビーの端で、阿良多がリザに背中を支えられながら、凄まじい速度でノートPCを操作していた。
「ビルの防犯カメラとエレベーターの制御ロック、今すべて書き換えた!
千影のいる最上階のサーバー室まで、ノンストップで上がれるルートを開放したよ!」
「阿良多、リザ、ありがとう! シルヴィア、ミア、無理はするなよ!」
「案ずるな、カイト殿! この程度の有象無象、我が剣……いや、我が靴べらの敵ではない!」
シルヴィアの力強い言葉に背を押され、俺はリザ、阿良多、そしてルカとリィナを連れて、開放されたエレベーターへと飛び込んだ。
閉まる扉の隙間から見えたのは、床に倒れ伏す警備員たちと、その中央で背中を合わせ、不敵に微笑むシルヴィアとミアの最高に格好いい姿だった。
チーン、と静かな電子音が鳴り、エレベーターは2階、3階へと急速に高度を上げていく。
だが、目的地の5階が近づくにつれ、俺のポケットの中にある『最初の珈琲豆』のデータカードが、まるで千影の悪意に共鳴するように、微かに熱を帯び始めるのを感じていた。
タイムリミットの午前9時まで、あと45分。
守り抜いた仲間たちの熱量を胸に、俺はかつての親友が待つ、最上階の深淵へと足を踏み入れようとしていた。




