第67話:夜明けの焙煎、あるいは最上階の招待状
親父が買ってきた大量の骨付き肉を囲んだ昨夜の晩餐は、この現実世界で迎える最初の、そして最高に騒がしい団欒だった。
ミアは両手に肉を持って「美味いニャ!」と顔を油だらけにし、リザはそんなミアの口元を呆れながらも優しい手つきで拭っていた。
シルヴィアは親父と謎の意気投合を果たしてコップを傾け、ルカとリィナの兄妹は本当に安心したように微笑み合っていた。
その光景を静かに見守っていた俺の胸には、何があってもこの日常を千影の冷徹な数式に塗りつぶさせないという、静かな炎が灯っていた。
そして、運命の朝が来る。
午前七時、開店前の喫茶『夜鴉』の厨房には、ガラス瓶から取り出された数粒の『最初の珈琲豆』が置かれていた。
「……カイト、本当に私が焙煎をしてもいいの?」
リザが、少し緊張した面持ちでフライパン型の小さな手回しロースターを握っていた。
彼女の美しい碧眼は、いつもの毅然とした強さの裏に、失敗したらすべてが終わるという繊細なプレッシャーを滲ませている。
あちらの世界では王女として完璧を求められてきた彼女が、今は一人の少女として、俺のためにその責任を背負おうとしてくれていた。
「ああ。リザの丁寧な仕事じゃなきゃ、この豆の『温かさのデータ』は引き出せない。頼む」
俺が言葉をかけると、リザは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに、だけど少し悪戯っぽく微笑んだ。
「……そこまで言われたら、極上の日常を淹れてあげるしかないわね」
シャカ、シャカ、と規則正しい音が厨房に響き始める。
火加減を細かく調整しながら豆を見つめる彼女の横顔は、どんな高価な宝石よりも気高く、そして美しかった。
その手元を、阿良多がノートPCのカメラで完全にキャプチャし、豆がパチリと爆ぜる瞬間の熱量データを、マイクロSDカードの原典プログラムへとリアルタイムで同期させていく。
「焙煎完了、そしてデータの抽出も完璧だ。……これで千影のシステムをリセットするための『弾丸』は完成したよ」
阿良多が眼鏡をクイと押し上げ、完成した特殊なメモリーカードを俺に手渡した。
彼の指先は、昨夜からの徹夜の作業で微かに震えていたが、その表情にはかつて迷宮の街のバグを支配していた天才プログラマーとしての絶対的な自信が満ちていた。
「よし。タイムリミットの九時まで、あと一時間半。千影のいる雑居ビルへ突入するぞ」
俺が鉄の棒の代わりに、そのメモリーカードをポケットにしまい込むと、店の扉のベルがカランと涼やかな音を立てて鳴った。
まだ開店前の時間のはずだ。
入ってきたのは、あのスーツを着た千影の部下ではなかった。
新聞受けから一枚の『黒いカード』を咥えて戻ってきた、ミアだった。
「カイト、ポストにこれが入ってたニャ。あの嫌な奴の匂いが思いっきりついてるニャ!」
ミアがフンスと鼻を鳴らし、俺の手にそのカードを握らせる。
彼女はすでに戦闘態勢に入っているのか、いつでも地を蹴り出せるようにしなやかな身体を低く構えていた。耳が消えても、その仲間を守ろうとする健気な野性は少しも鈍っていない。
カードには、あの流麗で傲慢な千影の筆跡で、こう書かれていた。
『おはよう、カイト。
僕のビルの一階から最上階のサーバー室まで、現実の警備員を三十人ほど配置させてもらった。
現実世界の法律の枠内で、君たちがどうやって僕の元まで“配達”に来てくれるのか、楽しみにしているよ。
九時を過ぎたら、まずはその商店街の八百屋と魚屋の差し押さえから始めようか』
「……三十人の警備員か。現実の暴力は罪になるのだろう? 面倒なルールだな」
シルヴィアが木刀を腰に差し、長い髪を結び直しながら不敵に笑った。
「だが、安心しろカイト殿。相手が人間であれば、峰打ちすら必要ない。
関節を極め、戦意を削ぎ、道を開くだけならば、我が騎士の技の範疇だ。左手一本でも、十人や二十人に遅れは取らん」
彼女の言葉には、システムによる身体能力の補正が消えた今だからこそ際立つ、本物の『武人』としての圧倒的な説得力があった。
「私も行くわ、カイト。現実の経済や交渉という戦場なら、王女である私の独壇場よ。
警備会社への法的な揺さぶりは、移動中の車内で阿良多の端末を使って済ませてあげる」
リザが俺の隣に並び、その小さな手を強く握りしめてきた。
彼女の指先からは、先ほど焙煎したばかりの、珈琲の香ばしくて温かい残り香が微かに漂っていた。
千影のいる雑居ビルは、この商店街の目と鼻の先。
相手が仕掛けてきたのは、現実の法律と警備システムという名の、極めてリアルな迷宮だ。
だけど、俺たちにはあっちの世界で培った、何物にも代えがたい絆と、ユキが遺してくれた最初の日常の記憶がある。
「全員、行くぞ。千影に、夜鴉の本当の味を教えてやる」
俺たちの日常を買い戻すための、タイムリミット一時間の正面突破。
朝日が差し込む商店街を、俺たちは一歩もためらうことなく走り出した。




