第64話:冷たい口座、あるいは真鍮の鍵
親父が「とびきりの肉を仕入れてくる」と、少し照れくさそうにワンボックスカーで出かけてから一時間。
喫茶店『夜鴉』の厨房では、リザが慣れない手つきで野菜を刻み、その横でミアが「まだニャ? お腹と背中がくっつくニャ」と机を叩いていた。
現実世界のガスコンロの青い炎を見つめながら、俺はこれが幻ではないことを何度も確かめるように、火傷の痕が残る右手を擦り合わせた。
「カイトくん、少し手を止めてこれをまとめてくれないか」
カウンターの端で、阿良多が新しい現実のノートPCを睨みながら手招きをしていた。
彼の眼鏡の奥の瞳は、迷宮の街にいた頃よりもさらに鋭く、冷徹な光を放っている。
「何が分かった、阿良多」
「千影が仕掛けてきた『現実のゲーム』の初期盤面だよ。
彼がデータから変換した莫大な資金の流動先を追ったんだが……。
驚いたことに、この喫茶店『夜鴉』がある商店街の、まさに裏手にある雑居ビルの一棟が、数時間前に丸ごと買い取られている」
阿良多が画面をこちらに向けた。
そこには、登記簿のデータが表示されており、所有者の欄には流麗なアルファベットで『CHIKAGE』の名が刻まれていた。
「あいつ、本当にすぐ近くに拠点を構えやがったのか……」
「それだけじゃない。彼が買い漁っているのは土地だけじゃないんだ。
この商店街一帯の個人商店が抱えている『負債』の債権を、次々と裏のルートで買い集めている。
つまり千影は、この街の経済の首輪を握ることで、僕たちの日常を物理的に兵糧攻めにするつもりさ」
「……相変わらず、陰湿な戦い方をする男ね」
いつの間にか厨房から出てきていたリザが、包丁を握ったまま冷たい声を響かせた。
その碧眼には、かつて己の国を理不尽に奪おうとした敵に向けたものと同じ、毅然とした王女の怒りが宿っている。
「カイト、あちらの世界の剣や魔法は使えなくても、守るべきもののために戦う術なら、私も知っているわ。
私の名義で用意された身分証があるのなら、それを使って私がこの商店街の盾になりましょう」
「リザ……。いや、無理はしないでくれ。現実の法律や金が絡むと、あっちの戦いとはルールが違いすぎる」
「ルールなら、これから覚えればいいだけの話よ。あなたにばかり、また熱い鉄の棒を握らせるわけにはいかないもの」
リザは不敵に微笑むと、俺の火傷の痕にそっと自分の冷たい指先を重ねた。
その一瞬の触れ合いだけで、俺の胸の奥の焦燥感がすっと消えていく。
彼女はただ守られるだけのヒロインじゃない。俺と一緒に戦線に立つ、最高のパートナーなんだ。
「カイト殿、それとこれを見ていただきたい」
今度は、リィナの面倒を見ていたシルヴィアが、古びた真鍮の鍵を一本、カウンターに置いた。
それは、ユキが遺した身分証の入った封筒の底に、ひっそりと沈んでいたものだという。
「ユキ殿の用意した鍵だが、この店のどこの扉にも合わんのだ。
右腕が動くようになったからといって、力任せに回して壊すわけにもいかんしな……」
シルヴィアが長い髪をかき上げながら、悔しげに息を吐く。
彼女の美しい横顔と、相変わらず生真面目で融通の利かない騎士らしさに、俺は少しだけ心が和んだ。
「……いや、その鍵の形状、見覚えがあるよ」
ルカがリィナの隣から顔を出し、鍵をじっと見つめた。
「僕たちの故郷の街が消える直前、あの包帯の店主が持っていた『金庫』の鍵にそっくりです。
店主は、千影さんから与えられた『最初のプログラムの原典』を、その金庫に隠していたはず……」
「原典……。つまり、千影の持つルート権限を無効化できる、唯一のバグの塊か!」
阿良多がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
ユキはただ逃げるための迷宮を作ったのではなかった。
現実の千影に対抗するための、最大の切り札を、この喫茶店『夜鴉』のどこかに物理的に隠し、その鍵を俺たちに託していたのだ。
「なるほどな。千影があのコインを必死に進化させようとしていたのも、この原典が目覚める前に、俺たちのデータを初期化したかったからか」
俺は真鍮の鍵を手に取り、その冷たい質感を指先で確かめた。
その時、店の正面入り口のガラス扉が、コツン、コツンと不自然な音を立てて激しく震えた。
夜の商店街の街灯が、扉の向こう側に立つ『影』を歪に映し出す。
親父の車ではない。
そこに立っていたのは、黒いスーツを着た、血の通っていない人形のような顔をした三人の男たちだった。
その胸元には、千影のあの黄金のコインと同じ、十字の紋章のピンバッジが鈍く光っている。
「——喫茶『夜鴉』の皆様。
CHIKAGE様より、第一期の中間通告に参りました。
明日朝九時をもって、この土地の底地権の移転手続きを執行いたします。
営業を継続されたい場合は、以下の条件をお飲みください」
男の一人が、冷酷な声で書面をガラス越しに突きつけてきた。
現実の法律という名の牙が、俺たちの新しい家のドアを叩いている。
だが、俺たちの誰も、もう怯んではいなかった。ミアは静かに牙を剥き、シルヴィアは木刀の柄に手をかけ、リザは気高く顎を引いた。
ここからが、俺たちの日常を買い戻すための、本当の反撃の始まりだ。




