第65話:ガラス越しの宣戦、あるいは夜鴉の流儀
「……底地権の移転手続き、だ。ずいぶんと古典的な嫌がらせをしてくるじゃないか、あの男は」
阿良多がノートPCから視線を外し、ガラス扉の向こうに立つ黒スーツの男たちを冷ややかに見据えた。
その手元では、すでに男たちの背後に映る街頭防犯カメラの映像がハッキングされ、彼らの所属する『千影のフロント企業』の資金源が逆探知され始めている。
「条件、だと? 聞いてやろうじゃないか。ガラスを開けろ、カイト」
リザがエプロンを外してカウンターの前に立った。
その瞬間に彼女が放ったオーラは、先ほどまで不器用そうに野菜を刻んでいた少女のそれではない。
一国の命運を背負い、冷酷な外交交渉の場を支配してきた『王女』そのものの風格が、狭い店内を圧倒していく。
俺はリザの視線に頷き、ガラス扉の鍵を静かに開けた。
夜の商店街の、少し湿った冷たい風が店内に流れ込む。
「CHIKAGE様からの条件は至ってシンプルです」
中央の男が、感情の消えた声で書面を読み上げた。
「明日朝九時までに、カイト氏が持つ『最初のプログラムの権利』を譲渡すること。
さもなければ、この商店街全体の債権を一斉に執行し、明日中にすべての店舗を強制退去といたします。
この店だけでなく、あなたの愛するこの街の日常そのものを、明日で更地に変えるということです」
「人質を私から商店街に変えたというわけね。どこまでも姑息な計算だわ」
リザは冷たく微笑み、男が突きつけてきた書面を、その細い指先で受け取ることすら拒否した。
「持ち帰りなさい。カイトは一歩も引かないし、この街の日常はあなたたちの端金で買えるほど安くはないわ」
「……交渉決裂、ということでよろしいですね? では、明日の朝九時に」
男たちが機械的に頭を下げ、夜の闇へと背を向けようとした、その時だった。
「待てニャ」
ミアが音もなくガラス扉の隙間から外へすり抜け、男たちの行く手を阻むようにレンガの道へ着地した。
彼女の目は、夜の暗闇の中で怪しく金色に光っている。
猫耳がなくても、その全身から放たれる圧倒的な『捕食者』としてのプレッシャーに、スーツの男たちが初めて本能的な恐怖で身を震わせた。
「千影に伝えておけニャ。アタシたちの街に、これ以上泥足で入ってきたら……今度はスーツごと噛み殺してやるニャ」
ミアが低く喉を鳴らして牙を剥くと、男たちは取り繕うこともできずに、逃げるように商店街の闇へと消え去っていった。
店内に戻ってきたミアは、ふんと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように俺の腰に抱きついてくる。この野性と甘えん坊のギャップが、夜鴉のメンバーの心をいつも救ってくれるんだ。
「見事な威嚇だったぞ、ミア。……さて、カイト殿」
シルヴィアが、カウンターの上の真鍮の鍵を左手で包み込んだ。
「敵の狙いが『最初のプログラム』であるなら、ユキ殿がこの鍵で隠した『原典』こそが、明日の朝九時を突破する唯一の盾となるはずだ。
だが……この狭い店内のどこに、あの金庫が隠されているというのだ?」
全員の視線が、再び店の内装へと向けられた。
カウンター、珈琲サイフォン、窓際のユキの特等席。どこを見渡しても、金庫が収まるような不自然な隙間はない。
「……カイトさん、僕、思い当たる節があります」
ルカが、リィナの手を握ったまま静かに声を上げた。
彼の胸のエンブレムは、先ほどからチク、タクと、小さな時計の秒針のような音を立てて静かに脈打っている。
「ユキちゃんがこの店を現実に上書きしたとき、間取り(データ)を完璧に再現したはずです。
でも、一つだけ、あっちの世界の『夜鴉』にあって、こっちにない場所があります。
……店主さんがいつも籠もっていた、あの『カウンターの真下にある地下への配線口』です」
ルカの言葉に、俺と阿良多は顔を見合わせた。
そうだ。あっちの店では、店主がシステムのバグを調整するために、カウンターの床下にあるハッチをよく開けていた。
現実のこの店には、そんな地下室への入り口は存在しないはず――。
俺はカウンターの奥へ回り込み、古びた絨毯を力任せに剥ぎ取った。
すると、そこには木製の床板に紛れるようにして、一枚の『真鍮製の小さな鉄板』が埋め込まれていた。
その中央には、シルヴィアが持つ鍵と全く同じ大きさの、古めかしい鍵穴が口を開けていた。
「伏線は最初から、僕たちの足元に埋まっていたというわけか……!」
阿良多が興奮を抑えきれない様子で眼鏡を押し上げる。
制限時間は明日の朝九時。
千影の現実の牙が商店街を喰い破る前に、俺たちはユキが遺した最後の遺産を起動しなければならない。
俺はシルヴィアから真鍮の鍵を受け取り、ゆっくりと床の鍵穴へと差し込んだ。
カチャリ、と、世界の裏側が回転するような重厚な音が、静かな店内に響き渡った。




