第62話:数千度の決断、あるいは始まりの改札口
図書室の壁が硝子のようにひび割れ、その破片の向こう側に、見慣れた現実世界の街並みが重なっていく。
現実世界へ、みんなを連れて帰る。
そのために起動したユキの救済プログラムは、俺の手にある『鉄の棒』へと、パッチワークの街の全データを奔流となって流し込み始めていた。
ジジ、ジジジ……ッ!
「が、あぁぁぁ……ッ!!」
凄まじい激痛が俺の熱線を突き抜け、脳を直接灼く。
千影の言う通りだった。鉄の棒は一瞬で赤黒く変色し、数千度もの熱を帯びて俺の皮膚を融解させようと悲鳴を上げている。
手のひらから白い煙が立ち上り、肉が焦げる凄まじい臭いが図書室に満ちた。
「カイト殿! 離されよ! 頼むからその手を離してくれ!!」
シルヴィアが涙を流しながら、左手で俺の身体を引き剥がそうとする。
だが、その彼女の体を、ミアが泣き叫びながら強引に押し留めた。
「だめニャ、シルヴィア! 今カイトが手を離したら、転送が失敗してみんな消えちゃうニャ!
カイト……カイトォッ! 痛いのはアタシが半分貰ってやるから、絶対に耐えるニャアッ!!」
ミアが俺の足元にしがみつき、ボロボロと大粒の涙を床の絨毯に染み込ませていく。
その爪が俺の靴に深く食い込み、彼女の野生の魂が、俺の意識が途切れるのを必死に繋ぎ止めていた。
「……カイト」
前に出たのはリザだった。
彼女は、数千度の熱を発しているはずの俺の右手に、自らの美しい両手を迷うことなく重ねた。
ジュウッ、と、リザの白い肌からも容赦なく煙が立ち上る。
激痛に顔を歪めながらも、彼女は絶対にその手を離さず、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「元王女を……あなたの、一番の理解者を、侮らないで。
この程度の熱、あなたが背負ってきた痛みに比べれば、なんてことはないわ。
……最後まで、一緒に背負わせて。あなたの行く場所が、私の生きる現実よ!」
リザの碧眼に宿る、圧倒的な愛と気高さ。
彼女の体温が、鉄の棒の熱を押し返すように俺の心臓へと流れ込み、限界を迎えていた俺の身体に奇跡的な力を呼び起こす。
「……素晴らしいね。これほどの負荷に、人間の感情が打ち勝つなんて」
本棚に背を預けた千影が、初めて笑みを消し、畏怖の混じった瞳で俺たちを見つめていた。
「カイト、君の勝ちだ。……だけど、現実に帰った僕たちが、またただの退屈な日常に戻れると思わないことさ。
調律のゲームは、向こうでも続いているんだから」
千影の身体が、完全に現実の風景へと溶けて消えていく。
「――みんな、掴まってろォォォッ!!」
俺は残ったすべての力を振り絞り、赤熱した鉄の棒を、崩壊する図書室の床へと突き立てた。
白銀の光と、現実世界の夕暮れの光が完全に融合し、俺たちの視界を真っ白に塗りつぶしていく。
……チク、タク。
白い花の秒針が、静かにその役割を終えた音がした。
次に目を開けた時、俺の鼻を突いたのは、焦げたインクの臭いではなく、雨上がりのアスファルトの匂いだった。
「……ん、……ここは……?」
俺がゆっくりと上体を起こすと、そこは喫茶店『夜鴉』の物置部屋……ではなかった。
夕暮れ時の、寂れた駅の改札口。
かつて三年前、俺がこの街で行方不明になった、まさに『その場所』だった。
手のひらを見ると、あの鉄の棒はどこにもなく、火傷の痕だけが、綺麗な白い皮膚の下に微かな赤みとして残っている。
リザの手にも、傷一つ残っていなかった。
「カイトくん、成功……したみたいだね」
隣で、阿良多が地面に座り込んだまま、ぽつりと呟いた。
彼のハッキング用タブレットは完全にただのプラスチックの板に戻っていたが、その表情には晴れやかな笑みが浮かんでいる。
「カイト……!」
胸に飛び込んできたのはミアだった。
彼女の頭には、あのトレードマークの猫耳はなく、ただの少し髪の跳ねた人間の少女の姿になっていた。
シルヴィアも、動かなかった右腕を不思議そうに動かしながら、涙を浮かべて立ち尽くしている。
ルカとリィナも、しっかりと手を繋ぎ合い、現実の風を全身で受け止めていた。
全員、無事だ。肉体を持った『人間』として、現実世界へ帰還できたんだ。
「みんな、お疲れ様。……ここが、俺のいた世界だ」
俺が笑ってリザを振り返った、その時だった。
改札口の向こう側から、複数の足音がバタバタとこちらへ向かって走ってくるのが聞こえた。
現れたのは、三年前と変わらない制服を着た、駅員たち。
そして、その先頭を走っていたのは、作業着姿の、ひどく老け込んだ男の姿だった。
「カイト……? カイト! 本当にお前なのか!?」
親父だった。
三年間、俺を捜し続けてくれた、本物の親父が、信じられないものを見る目で俺を凝視している。
だが、親父の視線は、すぐに俺の背後にいるリザやミアたち、そして――
改札口の真横に、突如として『新築の店舗』のように出現していた、喫茶店『夜鴉』の建物へと注がれた。
「カイト、その人たちは……一体、誰なんだ……?」
親父の問いかけに、俺が口を開こうとした瞬間。
俺のスマートフォンの画面が、ポケットの中で不意に点灯した。
登録されていない番号からの、一条のメッセージ。
『現実世界へようこそ、カイト。
さて、駅員たちに囲まれたその状況から、君はどうやって“新しい日常”を説明するのかい?』
千影からの、現実世界での第一手。
守り抜いた仲間たちと、失われた三年間。その狭間で、俺たちの新しい現実の戦いが、今まさに始まろうとしていた。




