第61話:コンマ一秒の残光、あるいは不揃いな約束
宙を舞う黄金のコインが、図書室の薄暗い空間でスローモーションのように煌めく。
俺の右手が、そして蔦を引きちぎった千影の左手が、同時にその小さな輝きへと肉薄した。
指先が触れるまでの、わずかコンマ一秒。
「……させないニャアッ!!」
弾丸のように空中へ飛び込んできたのはミアだった。
彼女は俺の背中を力強く蹴り飛ばし、俺の身体をコインの軌道へと無理やり押し込んだ。
身を挺して俺の速度を極限まで引き上げたミアの野生の機転。その執念が、千影の計算を確実に狂わせる。
ガシッ、と、俺の右手がコインを力強く掴み取った。
「……あはは、見事だねカイト。まさかその猫に軌道を狂わされるとは、僕の数式にも入っていなかったよ」
千影は空を切った自らの手を眺めながら、不敵に、けれどどこか嬉しそうに笑った。
着地した俺の周囲に、リザとシルヴィアが即座に割って入り、千影への警戒の盾を形成する。
「千影、これで終わりよ。鍵は私たちの手にあるわ」
リザが凛とした声で言い放ち、千影を鋭く見据えた。
だが、千影はコートの埃を軽く払うと、カウンターの白い花に目を向けた。その花の時計の針は、コインが俺の手に渡った瞬間から、恐ろしいほどの速さで「逆回転」を始めていた。
「終わり? 違うよ元王女様。それは始まりの合図だ。
カイト、そのコインと、ルカくんの胸にあるエンブレムを重ねてごらんよ。
ユキちゃんが遺した『本当のプログラム』が起動するから」
千影の言葉に導かれるように、ルカが俺の隣へと歩み寄ってきた。
ルカの胸の紋章が、俺の握るコインと共鳴し、目も開けられないほどの純白の光を放ち始める。
「……カイトさん、僕の頭の中に、ユキちゃんの最後のメッセージが流れてきます」
ルカの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ユキちゃんは、最初から誰も犠牲にしないつもりだったんだ。
このコインと僕の紋章が合わさることで、この迷宮の街は、現実世界の『この喫茶店がある敷地内』にそのまま物理的な質量として上書きされる……。
つまり、誰も消えることなく、この街ごと全員で本物の現実へ引っ越せるんです!」
「なんだって……!?」
阿良多がタブレットの画面を凝視しながら、驚愕の声を上げた。
「本当だ……! 空間の座標データが、現実世界の特定の番地へと誘導されている。
この街の人間も、リィナさんの体も、すべてが物理的な存在として再構成される。完璧なハッピーエンドのプログラムだ……!」
誰も失わない。この泥臭く愛おしい日常のまま、本当の現実へと帰ることができる。
ユキが命を賭けて編み出した、奇跡のような救済のシステム。
「だけどね、カイト。現実はそこまで甘くない」
千影が冷徹な声を響かせた。
「そのハッピーエンドを執行するためには、この街の全データを現実の通信網へ一気に転送しなきゃいけない。
その膨大な負荷に耐えられる『器』は、この世界に一つしかないんだ」
千影の視線が、俺の右手に握られた「鉄の棒」へと注がれる。
「君の持っているその鉄の棒が、現実とこの街を繋ぐ唯一の『アンテナ』だ。
転送が始まれば、その棒は数千度の熱を帯びて融解する。……それを持っている人間は、ただでは済まないよ」
「そんなの、カイト殿にやらせるわけにいかん! 私が代わる!」
シルヴィアが動かない右腕を庇いながらも、左手で鉄の棒を掴もうとした。
「無理だよ、騎士様。その棒は『最初の観測者』であるカイトにしか同調しない仕様なんだ」
千影は残酷な事実を淡々と告げ、それから、三年前のあの学食でのように、ひどく寂しそうな目で俺を見た。
「さあ、選択の時間だ、カイト。
その棒を握り潰して、みんなを現実へ連れて行くか。
それとも、僕と一緒にこの偽物の箱庭で、永遠に終わらない一話をループし続けるか……。
君のその“熱量”の本当の価値を、僕に見せてよ」
白い花の時計の逆回転が、ついにゼロの瞬間を指そうとしていた。
図書室の壁がバラバラと崩れ始め、現実世界のあの懐かしい街の風景が、すぐ目の前に透けて見え始める。
みんなを救う代償は、俺自身の右腕か、あるいは命か。
リザが俺の服の袖を、泣きそうな顔で強く握りしめた。
俺は鉄の棒を両手で構え直し、最高の仲間たちに向かって、不敵に笑ってみせた。




