第59話:錆びた歯車、あるいは騎士の引き金
「シルヴィア、左から来るニャッ!!」
ミアの鋭い悲鳴のような警告と同時に、巨大な文字盤の怪物の影から、鋭利な秒針の槍が突き出された。
ガギィィィンッ!!
凄まじい火花を散らしながら、その一撃を受け止めたのはシルヴィアだった。
しかし、彼女が構えていたのはいつもの木刀ではない。
使えなくなった右腕の代わりに、左手一本で喫茶店『夜鴉』の重厚な「鉄製の看板」を盾のように掲げていたのだ。
「くっ……! なんという重量、そして冷徹な質量か……!」
シルヴィアの顔が苦痛に歪む。
現実世界の電磁パルスを受けた彼女の右腕は、いまだに感覚を失ったままだ。
それでも彼女は一歩も引かない。その凛とした佇まいと、主である俺を守ろうとする気高い横顔には、限界を超えた美しさがあった。
「シルヴィア、無理をするな! 一度下がれ!」
「断る、と言いたいところだが……カイト殿、今の私は少々、効率が悪いようだ!」
シルヴィアは不敵に微笑むと、鉄の看板で秒針の槍を強引に弾き飛ばした。
その隙を見逃さず、ミアが怪物の足元へ滑り込む。
「アタシの仲間をボロボロにしたツケは、高くつくニャアッ!!」
獣のような爆発的な躍動。
ミアは怪物の関節部にむき出しになっていた金色の歯車へと飛びかかり、その鋭い爪で精密な回路を容赦なく引きちぎった。
バチバチと紫色の火花が散り、怪物の巨体が大きく傾く。
「カイト、今よ! 私が道を固定するわ!」
背後からリザが凛烈な声を響かせた。
彼女が両手を掲げると、彼女の纏う「王女の威光」が目に見える波動となり、のたうち回る怪物の動きを完全に制動した。
システムや現実のルールではない。リザという一人の人間が持つ、圧倒的な存在の格が、空間そのものを支配しているのだ。
「おおおおおっ!!」
俺はユキの残した白銀の光を宿す鉄の棒を握り締め、怪物の中心、千影の紋章が刻まれたコアへと跳躍した。
渾身の力を込めて、その棒を突き立てる。
ドゴォォォォンッ!!
文字盤の怪物は激しい爆発音とともに、光の塵となって夜の迷宮へと霧散していった。
静寂が戻る。だが、俺たちの息は荒く、制限時間は容赦なく削られ続けている。
「……ハァ、ハァ……。やるな、みんな。怪我はないか?」
俺が振り返ると、シルヴィアがその場に片膝をついた。
左手一本で重い看板を支えていた代償は大きく、彼女の額からは大粒の汗が流れている。
「申し訳ない、カイト殿。足を引っ張った……。この腕が、どうしても言うことを聞かん……」
シルヴィアが悔しげに、感覚のない右腕を睨みつける。
かつて最強の騎士として戦場に立ち、システムの世界でも俺たちの盾であり続けた彼女にとって、戦えない自分は許せないのだろう。
その不器用なまでのプライドの高さが、今はひどく愛おしく、そして切なかった。
「シルヴィア、お前が盾になってくれたから、俺とミアが仕留められたんだ。足を引っ張ったなんて二度と言うな」
俺は彼女の前にしゃがみ込み、その傷だらけの左手を強く握りしめた。
「……ニャ。シルヴィアはアタシたちの最高の騎士ニャ。だから、アタシが右腕の代わりになってやるニャ」
ミアがシルヴィアの背中にポンと飛び乗り、その頬を自分の顔で擦り付ける。
シルヴィアは驚いたように目を見開き、それから、どこか照れくさそうに、だけど本当に嬉しそうに目を細めた。
「……感謝する、ミア、カイト殿。ならば私は、この左手一本でも貴殿らの剣となろう」
固い絆を取り戻した俺たちの前に、迷宮のレンガ壁がゆっくりとスライドを始めた。
現れたのは、かつてユキがいつも一人で座っていた、あの『図書室』の古びた木製の扉だった。
ここが、ユキの最初の記憶の拠り所。
「……カイトくん、聞こえるかい? 店の阿良多だ」
その時、俺の耳元で阿良多の声が響いた。
彼のハッキングによって、壊れたタブレットから一時的な通信回線が繋がったのだ。
「阿良多か! 街の構造解析はどうなった!?」
「……最悪の中間報告だよ。ユキちゃんが遺した『マスターキー』の波形を追ったんだが……。
その鍵、千影が持っていたあの『コイン』と、完全に同じバイナリ(データ構造)で構成されている」
阿良多の沈痛な声に、俺は息を呑んだ。
「どういうことだ?」
「千影は最初から、鍵の場所を知っていたんじゃない。
彼自身が、あのコインの形で『鍵の片割れ』をすでに握っているんだ。
ユキちゃんが隠した本物を見つけても、千影のコインと融合させなければ、現実への扉は開かない……。
つまり、このゲームは最初から、千影を『力尽くで倒す』ことでしかクリアできない仕様になっているんだよ」
阿良多の告白は、千影という男の底知れない邪悪さを物語っていた。
あいつはただのかくれんぼを楽しんでいるんじゃない。
俺たちが絶望し、足掻き、最終的に自分に牙を剥くその「熱量」すらも、データとして美味しく消費しようとしているのだ。
カチャリ。
俺たちの目の前で、図書室の扉が音もなく開いた。
その暗がりの奥、無数に並ぶ本棚の特等席に、あの黒いロングコートを着た親友が、楽しそうに本をめくりながら俺たちを待っていた。




