第57話:常連の足音、あるいは学食の幻影
コツン、コツン、と。
喫茶店『夜鴉』の正面玄関へと続く、新しいレンガの細道から、その足音は確実に近づいてきていた。
ユキがこの街を隠すために作った絶対不可侵の迷宮。その内側に、あいつは最初から「存在」していたかのような、あまりにも自然な歩調だった。
「……リザ、ミア、シルヴィア。みんな、俺の後ろに下がってくれ」
俺は鉄の棒を右手に引き抜き、店の扉の前に立ちはだかった。
手のひらに伝わる金属の冷たさだけが、俺の激しい動揺を辛うじて現実の境界に繋ぎ止めている。
「嫌よ、カイト。あなたを一人で前に出せるわけがないでしょう」
リザが俺の左腕を強く掴み、その位置から一歩も動こうとしない。
彼女の美しい碧眼には、俺の親友だという『千影』への警戒と、それ以上に、俺が再び独りで傷つくことへの強い拒絶が込められていた。
彼女のその頑固なまでの優しさが、今の俺にはたまらなく心強かった。
「そうニャ! どんな奴が来ようが、アタシの爪でズタズタにしてやるニャ!」
ミアが俺の足元で四肢を低く構え、喉を低く鳴らす。
シルヴィアも包帯の巻かれた腕の痛みを微塵も感じさせないほど堂々とした構えで、木刀の先端を扉へと向けた。
誰も怯んでいない。だから、俺も怯むわけにはいかないんだ。
「……開くよ。カイトくん、波形が完全に店の中と同期した」
阿良多がタブレットのキーを叩く。その画面には、接近する個体のデータが『UNKNOWN(未定義)』ではなく、驚くべきことにこの店の『常連客』として登録されていく奇妙なバグが映し出されていた。
カラン、カラン……。
あの古道具屋の不吉なベルではない。
この店に元からあった、聞き慣れた真鍮のドアベルが、軽やかな音を立てて鳴り響いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、夜の迷宮の霧を纏って現れたのは——。
仕立てのいい黒いロングコートを着崩し、三年前と全く変わらない、人を食ったような薄笑いを浮かべた青年だった。
「やあ、カイト。ずいぶんと物々しい歓迎じゃないか。……相変わらず、ここは良いコーヒーの匂いがするね」
千影だった。
大学の講義をサボって、学食のテラス席でいつも不敵に笑っていた、あの俺の親友。
「千影……っ! お前、どうやってここへ……! 現実の扉は完全に閉まったはずだろ!」
俺の怒声に、千影は気にする風もなく肩をすくめ、空いているカウンターの席へと滑り込むように腰掛けた。
その一連の動作があまりにも自然で、ミアやシルヴィアさえも一瞬、攻撃のタイミングを奪われたように動きを止めてしまう。
「扉? ああ、あの古臭い鉄の壁のことかい? あんなものはただの演出さ。
現実の防衛組織に君たちの位置を教えれば、君たちが必死になって『街を隠す迷宮』を完成させてくれると思ってね」
千影は長くて綺麗な指先で、カウンターの上に咲いた「時計の文字盤」を持つ白い花を優しく撫でた。
その瞬間、ユキの意思であるはずの白い花が、まるで彼に懐くように、淡い光を放ちながらその指に擦り寄ったのだ。
「なっ……ユキの力を、お前が支配しているのか!?」
「支配だなんて人聞きの悪い。彼女に『最後のページに僕の手紙を挟むバグ』を教えたのは僕だよ。
カイト、君は忘れているかもしれないけれど……この街の最初のプロトタイプを作ったのは、大学のゼミで君と僕が提出した、あの『不条理な箱庭のシミュレーション・アプリ』だ。
つまり、この世界の第一の調律者は、僕であり……君でもあるんだよ」
千影の言葉が、過去の記憶のパズルを音を立てて完成させていく。
三年前、俺たちが冗談半分で組んだプログラム。
あの日、俺がこの世界に引きずり込まれたのは事故ではない。千影がそのシステムを現実側から肥大化させ、俺を『最初の観測者(欠番)』として実験場に送り込んだのだ。
ルカの故郷を滅ぼした先代の店主に、そのシステムを横流ししたのも、すべてはデータの蓄積のため。
「……最低の男だな」
リザが、凍りつくような冷徹な声で千影を睨みつけた。
「他人の人生や、滅びた世界の悲しみを、すべて自分の実験の道具として扱ってきたというわけ?」
「まさか。僕は敬意を払っているよ、元王女様」
千影はリザを振り返り、その瞳に妖しい光を宿らせた。
「君たちがここで紡いだ不条理なドラマは、現実のどんな小説よりも美しかった。
だからこそ、僕はここを壊したくない。むしろ、もっと面白くしたいんだ。
……ねぇ、カイト。ゲームをしよう」
千影がコートのポケットから、古びた『一枚のコイン』を取り出し、カウンターの上で美しく回転させた。
「この迷宮の街のどこかに、ユキちゃんが自分自身の存在と引き換えに隠した『本物の現実へ戻るためのマスターキー』がある。
君たちがそれを先に見つければ、この街のデータのまま、全員で完全に安全な現実へ移住させてあげる。
だけど、僕が先に見つけたら……この街の住人の『感情データ』をすべて初期化して、また第一話から、新しい日常を始めてもらうよ」
コインがチリンと音を立てて倒れ、その表面には、かつてルカの鍵にあったものと同じ『黄金の十字の紋章』が刻まれていた。
「制限時間は、この白い花が枯れるまでの三日間。
さあ、僕の愛したパッチワークの日常を守ってみせてよ、カイト」
千影はそう言い残すと、陽炎のようにその姿をかき消した。
常連客の席に残されたのは、微かに回り続けるコインと、再び狂ったように進み始めた白い花の時計の針だけだった。
本当の黒幕であり、かつての親友。彼が仕掛けた、この街の存亡を賭けた最後の「かくれんぼ」が、今、幕を開ける。




