第56話:空白の頁、あるいは見覚えのある筆跡
地鳴りが止んだ後の世界は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
窓の外に広がる景色は、見慣れた駅前の大通りではなかった。
左右のレンガ壁が天高くそびえ立ち、空が細い一筋の隙間に切り取られたような、文字通りの『迷宮の街』。
外からの干渉を完全に断つために、ユキが自らを楔として再構築した、この街の新しい姿だった。
「……カイト、その紙切れに、なんて書いてあるの?」
リザが俺の肩にそっと手を置き、床に落ちた日記帳の破片を見つめてきた。
彼女の指先が微かに震えている。王女として修羅場を潜ってきた彼女でさえ、ユキが遺した最後の言葉の重圧に本能的な危機感を抱いているようだった。
俺は声を出さずに、その黒いインクで汚れた紙切れをリザとみんなに見せた。
『その人は、先輩がよく知っている——』
そこで途切れた文字。だが、その文字の「癖」を見た瞬間、俺の心臓が不自然なほどドクンと跳ね上がった。
「……ねぇ、阿良多。この文字、ユキちゃんの筆跡じゃないニャ」
ミアがカウンターに身を乗り出し、鋭い視線で紙切れを凝視する。
彼女の言う通りだった。
内気なユキが書く小さく丸まった文字とは違う。
それは、流れるように美しく、それでいてどこか傲慢なほどに力強い、見覚えのある筆跡だった。
「……そうだね。これはユキちゃんの日記に、後から『上書き』された筆跡だ」
阿良多が眼鏡を指で押し上げ、その冷徹な瞳を限界まで細めた。
「カイトくん、現実世界の防衛組織がなぜ僕たちの存在をピンポイントで捕捉できたのか、これで繋がった。
お父様をあの場所に誘導し、扉を開けさせたのは、現実側にいる『この文字の主』だ。
システムを裏から操り、この箱庭を弄んでいた本物の調律者……。カイトくん、心当たりがあるんじゃないかい?」
俺は、きつく奥歯を噛み締めた。
ある。忘れるはずがない。
大学の講義ノート、あの退屈だった日常の中で、俺のすぐ隣でいつもこの風変わりな文字を走らせていた奴が一人だけいる。
「……千影」
俺の口から漏れた親友の名前に、店の空気が一瞬で凍りついた。
三年前、俺がこの世界に消える直前、最後に一緒に大学の学食で駄駄をこねていた男。
『この世界は効率が悪すぎる。一度、すべてを初期化してパッチワークみたいに繋ぎ直せたら面白いと思わないか?』
あいつが笑いながら言った冗談が、今、最悪の現実となって俺の脳裏に蘇ってくる。
あいつは行方不明になった俺を捜していたんじゃない。この実験場を、現実側からずっと観測していたんだ。
「……ルカ。お前たちの故郷を滅ぼした『先代の管理者』に、あの包帯の店主に知恵を与えたのも、もしかしたら……」
俺が振り返ると、ルカはリィナの手を握りしめたまま、静かに首を振った。
「わかりません。でも、あの店主が最期に言ったんです。『私をこの効率の毒に染めた、偉大なる調律者がいる』と。
それが、カイトさんの知るその人なら……僕たちの運命は、最初からその千影という人の手のひらの上だったことになります」
「おのれ……ッ! 人の命と絆を、そこまで玩具にする者が現実にいるというのか!」
シルヴィアが包帯の巻かれた腕でカウンターを叩き、激しい怒りを露わにする。
彼女の騎士としての正義感が、見えざる黒幕に対して激しく燃え上がっていた。
その時だった。
カウンターの上に咲いた、あの「時計の文字盤」を持つ白い花が、チク、タク、と小さな音を立てて逆回転を始めた。
花びらから一筋のホログラムのような光が立ち上がり、喫茶店『夜鴉』の店内の壁に、一本の「新しい時計の針」を映し出す。
その針が指し示しているのは、物置部屋にある、あの完全にロックされて鉄の壁になったはずの扉だった。
「カイト、あの壁から……また何かが来るニャ!」
ミアが野生の勘で即座に身構え、シルヴィアも木刀を左手一本で構え直す。
だが、そこから聞こえてきたのは、先ほどの激しい銃声や組織の足音ではなかった。
トントン、と。
まるで、放課後の部室のドアを叩くような、軽やかで、どこか人を食ったような規則的なノックの音。
そして、溶けて消えたはずの鍵穴の跡から、一枚の「白い手紙」が、滑り込むように床へと落ちてきた。
俺は警戒するリザを制し、その手紙を拾い上げて広げた。
そこには、あの流麗で傲慢な、千影の筆跡で、こう一言だけ書かれていた。
『迷宮の完成、おめでとう。カイト。
これで君たちは、現実からもシステムからも完全に孤立した。
……つまり、僕がそっち側へ遊びに行っても、誰にも邪魔されないってことだ。
すぐに行くよ。僕たちの、新しいパッチワークの日常を始めよう』
ノックの音が、もう一度響く。
今度は扉からではない。
俺たちがいる喫茶店『夜鴉』の、すぐ目の前の「レンガの壁」の向こう側から、コツン、コツンと、こちらへ近づいてくる足音が聞こえ始めた。
ユキが命を賭けて作った完璧な迷宮。その防壁を嘲笑うように、現実の悪意はすでに、この街の内部へと「直接」足を踏み入れていた。




