第45話:黒い日記帳、あるいは裏切りの頁
「……ユキ、どうしてそこに立っているの?」
リザの声が、冷たい風に混ざって響く。
その声は震えていた。かつて祖国を裏切った臣下たちを前にした時のような、深い悲しみがそこにはあった。
ユキは答えなかった。
ただ、その両手で抱きしめられた日記帳から、ドロリとした黒い文字の波が溢れ出し、彼女の足元のアスファルトを侵食していく。
彼女の本来の、どこか儚げで、けれど真っ直ぐだった瞳は、今は完全に光を失っていた。
「……遅かったね。ユキちゃんの役割は、最初からこの街の『記録係』じゃない」
背後から、息を切らせた阿良多が追いついてくる。
彼のタブレットの画面は、完全に赤く染まり、『警告:中核データの改ざん』という文字が激しく点滅していた。
「どういう意味だ、阿良多! ユキは俺たちの仲間だろ!?」
俺は鉄の棒を握りしめたまま、叫ぶように問いかける。
「……逆だよ、カイトくん。
彼女はこの街の記憶を記録していたんじゃない。
店主……いや、先代の管理者がこの街を奪い返すために埋め込んだ、『終わりの物語』を自動生成するための端末だったんだ」
阿良多の言葉が、俺の頭を殴りつけた。
あの日、図書室で出会ったユキ。
彼女がいつも大切に持っていた日記帳。
そこに書かれていた俺たちの日常は、店主がこの街のシステムをハッキングし、内側からすべてを書き換えるための『設計図』として利用されていたのだ。
「……ごめんなさい、先輩。私、ずっと知っていたんです」
ユキが、途切れ途切れに、掠れた声で呟いた。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「私が文字を書くたびに、この街が壊れていく。
でも、書かないと、私はシステムに消去されてしまうから……。
怖かった。消えたくなかった。……だから、みんなを裏切ったんです」
「ユキ……」
「……だから、もう私のことなんて、助けなくていいです。
この日記の最後のページが黒く染まった時、この街は完全にあの店主のものになります。
……先輩たちの日常も、全部、なかったことになる」
ユキが日記帳を高く掲げると、塔の周囲に無数の黒い頁が舞い散った。
一頁ごとに、街の景色が一つずつ消えていく。
駅前の喫茶店、あの公園、俺たちが笑い合った全ての場所が、黒いインクに塗りつぶされていく。
「……カイト。私は、彼女を責めることはできないわ」
リザが俺の隣に並び、ただの鉄の棒をユキに向けて構えた。
「誰だって、消えるのは怖い。生き延びるために足掻くのは、生命の本能よ。
……だからこそ、私たちは戦って、彼女をその恐怖から解放してあげなきゃいけない」
「ああ。……ユキ、お前がどれだけ怯えていたか、気づけなくて悪かった」
俺は一歩、ユキに向かって踏み出した。
足元の黒い泥が、俺の靴を掴んで引きずり込もうとする。
「だけどな、お前が書いた日記は、全部が偽物なんかじゃない!
エリザが料理を失敗したこと、シルヴィアが不器用にコーヒーを淹れたこと、ミアが美味しそうにパンを食べたこと!
お前がそれを楽しそうに書いていた時の笑顔まで、店主の命令だったなんて、俺は絶対に信じない!」
「……っ! 先輩……来ないで……!」
ユキの周りの黒い波動が、さらに激しさを増す。
その時、シルヴィアに背負われていたルカが、うっすらと目を開けた。
彼のひび割れた黄金の鍵が、ユキの日記帳と共鳴するように、激しく脈打ち始める。
「……カイトさん。彼女の日記帳を……僕の鍵で刺してください。
僕の残りの全リソースを逆流させれば、その日記の『書き換え』を強制停止できる。
……ただし、僕の鍵は、今度こそ完全に壊れます」
ルカは、自分の存在が消えかける恐怖を押し殺し、俺に鍵を差し出した。
ユキを救うために、ルカの命を完全に終わらせるのか。
それとも、ユキを倒して街を守るのか。
黒い嵐が吹き荒れる塔の前で、俺は再び、最悪の選択肢を突きつけられていた。




