第30話:名前のない英雄譚、あるいは泥濘のジャックポット
黒い影――「ガベージ・コレクタ」の群れが、音もなくアスファルトの上を滑るように迫ってくる。
かつてなら、俺の視界には奴らのHPゲージや弱点属性、そして「勝利の期待値」がパーセンテージで表示されていたはずだ。
だが、今の俺の視界にあるのは、ただの歪んだ街並みと、冷たい風の感触だけだ。
「……来るぞ! 三人一組だ! シルヴィアは正面、ミアは上を取れ!」
俺の叫びと共に、シルヴィアが重い鉄の棒――かつての聖剣の成れの果て――を構えて地を蹴った。
「はぁぁぁぁっ!!」
鋭い剣鳴が響く。だが、システム補正による「必中」も「攻撃力倍加」もそこにはない。
影はシルヴィアの刺突を紙一重でかわし、鎌のような腕を振り下ろす。
「くっ……重いな! だが、この手応えこそが私が求めていた修行の成果だ!」
シルヴィアはジャージの裾を翻し、泥臭く地面を転がって追撃を回避する。
上空からは、街灯から街灯へと飛び移るミアが、弾丸のような速度で影の頭上に躍り出た。
「ステータスなんて関係ないニャ! アタシの爪は、アタシが信じた分だけ鋭くなるニャ!」
ミアの鋭い爪が影の「核」を捉え、黒い霧が霧散する。
だが、倒しても倒しても、路地の奥からは新たな影が湧き出してくる。
「カイト、後ろよ!」
エリザベートの鋭い警告。俺は反射的に、手にした鉄の棒を背後へと振り抜いた。
ガツォォォォンッ!
腕に痺れるような衝撃が走る。
以前の俺なら、こんな重い一撃を受ければ一瞬でHPが削り切られていただろう。
だが、不思議と体は動く。
パチンコのハンドルを握り続け、スロットのレバーを叩き続けた、あの執念にも似た「感覚」が、俺の筋肉を突き動かしている。
「阿良多! 逃げ道を作れ! 数が多すぎる!」
「わかっている! ……ユキ、例の『隙間』を開放してくれ。僕が座標を固定する!」
阿良多がデバイスのない手を空にかざし、空気の流れを読み取る。
かつての「論理的な計算」ではなく、今はもっと直感的な、風の抵抗や光の屈折から世界の「継ぎ目」を探り当てていた。
「……開きます。皆さん、私の声が聞こえる方へ!」
ユキの声が、脳内に直接響くのではない。
街の喧騒の中に、確かに存在する「静寂」の方向から聞こえてきた。
「走れっ!!」
俺たちは、崩れかけたコンビニの自動ドアと、王宮の裏門が融合した奇妙な入り口へと飛び込んだ。
そこは、ユキが保存していた「止まった時間」の残滓が作り出した、静かな図書室のような空間だった。
外の喧騒が嘘のように遠のき、古い紙の匂いと、微かなコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「……ふぅ。なんとか撒けたみたいニャ。あの黒い連中、しつこすぎるニャよ」
ミアが床に座り込み、ふさふさの尻尾を毛繕いし始める。
「カイト、大丈夫? 手、擦りむいてるじゃない」
エリザベートが俺の手を取り、ハンカチで丁寧に汚れを拭ってくれる。
魔法のヒールはない。けれど、彼女の手の温もりは、どんな回復呪文よりも深く俺の胸に染み渡った。
「ああ、これくらい平気だ。……それより阿良多、今の影たちは一体何なんだ?」
「……おそらく、この世界の『免疫反応』だね」
阿良多は本棚から一冊の白紙の本を取り出し、それを指先でなぞった。
「パッチワークのように繋ぎ合わされたこの街は、まだ不安定だ。
システムは、未定義の存在――つまり、ステータスを持たない僕たちを『汚れ』として認識し、排除しようとしている」
「汚れ、か。……最高に贅沢な呼び名だな」
俺は苦笑いしながら、窓の外に広がる歪な空を見上げた。
「阿良多の言う通り、僕たちはもう『勇者』でも『聖女』でもない。
ただの、名前を失った異物だ。……でも、だからこそ何にでもなれる」
ユキが、俺たちの会話に静かに割って入った。
「先輩……。あの、ポケットの中の欠片……見せてもらえませんか?」
俺は言われるままに、粉々に砕けたスマートフォンの破片を机の上に並べた。
それはもう光を放つことも、情報を表示することもない、ただの燃えないゴミにしか見えない。
だが、ユキがその破片にそっと触れると、透明な水面を叩いたような波紋が広がった。
「……この破片の中に、まだ『約束』が眠っています。
私たちがこの世界で生きていくための、本当の鍵が」
『隠しクエスト:自分自身の名前を取り戻せ』
その文字が、脳裏に直接浮かび上がる。
それはシステムの命令ではなく、俺たちが俺たちであるための、最後の試練のように思えた。
「カイト、私は……貴方が誰であっても、たとえ名前がなくても、貴方についていくわ。
でも、貴方が貴方自身を誇れる名前を、もう一度見つけてほしい」
エリザベートの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「……ああ。約束するよ。期待値に頼る自分じゃなく、自分の足で立った俺の名前を、必ず見つけ出してやる」
その時、図書室の扉が激しく叩かれた。
ガベージ・コレクタではない。
もっと生々しい、重い「人の足音」が近づいてくる。
「……おい、そこにいるんだろ。……『特異点』の連中が」
扉の向こうから聞こえてきたのは、かつて俺たちが倒し、救えなかったはずの「最初の敵」の声に似ていた。
伏線は、この新しい世界の地平で、新たな敵……あるいは味方として芽吹き始めていた。
俺は鉄の棒を握り直し、不敵に笑う。
「ジャックポットの後は、いつだって次のゲームの始まりだ。……準備はいいか、みんな!」
「当然だ! 私の剣は、既に熱を帯びている!」
「ニャッ! 暴れ足りなかったところニャ!」
俺たちは、自分たちの「正解」を書き込むために、再び扉を開け放った。
そこには、現実と幻想が混ざり合った、眩しいほどの未知が広がっていた。```




