30 美浜村ー陽菜を包む航太の潮風ー
美浜村の秋は、夏の賑わいを波がさらっていったかのように、どこか静かで穏やかな時間が流れていた。
西浜家の長男・航太は小学五年生の二学期を迎えていた。真っ黒に日焼けしていた肌も少し落ち着き、すっかり背も伸びた航太は、相変わらずクラスのリーダーとして元気に野山を駆け回る毎日を送っていた。
しかし、そんなある日の放課後、航太の足は自然と村の小さな浜辺へと向かっていた。
打ち寄せては返す白い波の際に、ぽつんと一人の少女が佇んでいる。
風にそよぐ栗色の髪、どこかサイズの合っていない大きめのカーディガン。2年前の航太が小3の夏休みにあの鎮守の神社で出会ったときの眩しい笑顔は影を潜め、うつむいた横顔は驚くほど青白く、すっかりやつれ切っていた。
東京からやってきた少女──沢村 陽菜だった。
東京の学校で何かがあって不登校になり、心をすり減らしてしまった陽菜は、二学期になってから美浜村のおばあちゃんの家で静養していたのだ。
(陽菜ちゃん……)
浜辺に力なく立つその姿を見た瞬間、航太の胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
夏休み、一緒にノコギリクワガタを追いかけ、夕暮れの防波堤でアイスを食べながら「また来ようね」と笑い合ったあの明るい陽菜の姿は、そこにはなかった。まるで波に削られた貝殻のように、今にも砕けてしまいそうな儚さをまとっていた。
航太は拳を強く握りしめると、波音に負けないように明るい声を張り上げて近づいた。
「よお、陽菜ちゃん! こんなところで何してんだ?」
陽菜は肩を小さく跳ねさせ、ゆっくりと振り返った。その瞳は影を落とし、光を失っている。
「……あ、航太くん」
消え入るような声だった。陽菜は無理に口角を上げようとしたが、うまく笑えず、すぐに視線を足元の濡れた砂浜へ落とした。
「ううん、別に……。ただ、海を見てただけ」
「そうか! 秋の海も気持ちいいだろ? ……あ、そうだ! これ見てくれよ!」
航太は胸ポケットから、大切に持ってきた手作りの仕掛けを取り出した。太い糸の先にあさりの身を結びつけた、小さな「カニ釣りセット」だ。
「これから潮が引いて、あそこの岩場にいい潮だまりができるんだ。デカいイソガニがいっぱいいるんだぜ。勝負しようぜ!」
航太はわざと大きく身振り手振りを交えて誘ったが、陽菜は力なく首を振った。
「ごめんね、航太くん……。私、いま……そういう気分になれなくて」
「陽菜ちゃん……」
「私ね……学校に行けなくなっちゃったの」
陽菜の目から、大きな涙の粒がポロポロとこぼれ落ち、砂浜に吸い込まれていった。波の音に紛れるように、陽菜はぽつりぽつりと話し始めた。
「友達の輪に入れなくなって……みんなの視線が怖くなって……息ができなくなっちゃったの。お母さんたちも困らせて、逃げるようにここに来て……。私、何をやっても駄目なんだよ。夏休みはあんなに楽しかったのに、今は何を見ても綺麗だなんて思えなくて……自分がすごく嫌いなの」
小さな肩を震わせて泣く陽菜。その背中はあまりにも小さく、今にも秋の冷たい海風に吹き飛ばされてしまいそうだった。
航太は言葉を失った。幼い自分には、東京の学校の難しさや、陽菜が抱える深い傷のすべてを理解することはできないかもしれない。
だが、航太の脳裏に、かつて母・ナギが抱えていた秘密と、父・青の言葉が鮮やかによみがえった。
母ちゃんも昔、人魚から人間になるとき、過去を捨てようとして苦しんでいた。自分は居場所がないんじゃないかと怯えていた。
けれど父ちゃんは言ったのだ。「過去のすべてを含めて、今のナギなんだ。否定する必要なんてどこにもない」と。
航太は大きく息を吸い込み、陽菜の目の前に立ちふさがった。そして、陽菜の両肩をしっかりと掴んだ。
「陽菜ちゃん、俺を見ろよ!」
驚いた陽菜が涙目で顔を上げる。航太の瞳は、美浜村の海のように澄み切り、真っ直ぐで力強かった。
「駄目なんかじゃない! 逃げたっていいんだよ! ここは美浜村だぞ? 東京で辛かったら、ここにずっといればいい。おばあちゃんもいるし、海もあるし……それに、俺たちがいるだろ!」
「航太くん……」
「学校に行けないくらいで、陽菜ちゃんの価値がなくなるわけないじゃないか! 夏休みにクワガタを見て『すごい!』って笑った陽菜ちゃんも、いま泣いてる陽菜ちゃんも、全部陽菜ちゃんだろ? 俺はさ、どんな陽菜ちゃんだって、大切な友達だと思ってるよ!」
航太の真っ直ぐで不器用な言葉が、陽菜の固く閉ざされていた心に、あたたかな光となって届いていく。
「逃げ場がないなら、俺が陽菜ちゃんの『秘密基地』になってやる。悲しいときはここに来て、俺に全部話せばいい。俺が全部聞いてやるから!」
航太は胸をどんと叩いた。その顔は、少年漫画の主人公のように頼もしく、眩しかった。
陽菜は目を見開き、溢れる涙を濡れた袖で何度も拭った。
「秘密……基地……?」
「おう! ほら、立つんだ陽菜ちゃん! 落ち込んでばかりいたら、腹が減るぞ。うちに行こう!」
航太は陽菜の細い手を力強く握りしめた。迷いのないその温もりに引っ張られるように、陽菜はゆっくりと立ち上がった。
◇
西浜家の玄関を開けると、美味しそうなデミグラスソースの香りが漂っていた。
「ただいまー! 母ちゃん、陽菜ちゃん連れてきたよ!」
「あら、陽菜ちゃん! いらっしゃい」
キッチンからエプロン姿のナギが優しい笑顔で顔を出した。ナギは陽菜のやつれた顔と赤い目を見ると、多くを尋ねることはせず、包み込むような眼差しで頷いた。
「ちょうどよかったわ。今日はお魚じゃなくて、航太と櫂が大好きな特製ハンバーグなの。陽菜ちゃんも一緒に食べていきなさい?」
「えっ……でも、お邪魔じゃ……」
「何言ってるんだよ! 母ちゃんのハンバーグは世界一なんだぞ!」
奥から弟の櫂(小学四年生)と、真っ白な柴犬の二代目シロが「わーい! 陽菜ちゃんだ!」と駆け寄ってきた。シロは嬉しそうに尻尾をパタパタと振り、陽菜の足元に体を擦り寄せる。
「シロ……」
陽菜がしゃがみ込んでシロの頭を撫でると、シロは「くぅ~ん」と甘い声を出し、陽菜の頬をペロリと舐めた。その温かい感触に、陽菜の引きつっていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
やがて、夕漁から戻ってきた父の青も加わり、西浜家の賑やかな夕食が始まった。
ちゃぶ台を囲み、ジュージューと音を立てる大きなハンバーグを前に、青が豪快に笑う。
「おう陽菜ちゃん! 飯はしっかり食べなきゃ力が出ねえぞ! 美浜村の空気を吸って、ナギの飯を食えば、どんな悩みも吹き飛んじまうからな!」
「青くん、大雑把な言い方はやめてあげて」とナギが苦笑しつつ、陽菜のお皿に大きなハンバーグを取り分けた。
「陽菜ちゃん。焦らなくていいのよ。ここは海の街だから。波みたいに、寄せては返して、ゆっくり進めばいいの」
ナギの静かで温かい言葉が、陽菜の心にしみ込んでいく。
陽菜は箸を伸ばし、一口ハンバーグを口に運んだ。口いっぱいに広がる柔らかい肉汁と優しいデミグラスソースの味。
「……すごく、美味しいです」
ぽろり、と再び涙が零れた。けれど今度の涙は、悲しい涙ではなかった。温かい食べ物と、自分を無条件に受け入れてくれる家族の温もりが、冷え切っていた心を内側から溶かしていく涙だった。
「だろー! 母ちゃんのハンバーグは最強なんだ!」と航太が誇らしげに胸を張り、櫂も「陽菜ちゃん、元気出た?」と覗き込む。
家族みんなの笑い声が、リビングいっぱいに響き渡っていた。
◇
夕食後、すっかり陽が落ちた外へ出ると、満天の星空が広がっていた。
航太は陽菜を送り届けるため、おばあちゃんの家までの夜道を並んで歩いた。
秋の夜風が心地よく頬を撫でる。美浜村の夜の海が、暗闇の中で静かにきらめいていた。
「航太くん……今日は、ありがとう」
陽菜がぽつりと言った。その声には、昼間の消え入るような暗さはもうなかった。
「私ね、東京にいたとき、自分がひとりぼっちで、どこにも居場所がないと思ってた。でも……今日、航太くんや西浜のみんなと一緒にご飯を食べて、すごく温かかった」
陽菜は歩みを止め、航太の方を振り向いた。街灯の光に照らされたその顔には、小さく、けれど確かな笑顔が戻っていた。
「私、もう少しここで休んでみるね。学校に行けなくても、自分が駄目なんだって責めるのをやめてみる。航太くんが『秘密基地になってやる』って言ってくれたから……すごく勇気が出たよ」
航太は一瞬照れくさそうに頭をかいたが、すぐにニッと歯を見せて笑った。
「おう! 任せとけって! 明日は日曜日だからさ、朝から秘密の防波堤に行こうぜ。櫂もシロも連れてさ。もっとすげえ景色見せてやるから!」
「うん! 約束ね!」
陽菜の瞳に、夜空の星たちがキラキラと反射して輝いていた。夏休みに出会ったときの、あの眩しい光が確かに戻ってきていた。
航太は大きく手を振り、おばあちゃんの家に入っていく陽菜の後ろ姿を見送った。
帰り道、一人で歩く浜辺の夜風はどこまでも優しかった。
母・ナギが人魚の過去を受け入れて人間として幸せになったように。
自分たちが家族の絆を深めて大きくなったように。
傷ついた陽菜もまた、この美浜村の青い海と温かい風に包まれて、少しずつ、自分のペースで歩き出そうとしている。
「よーし! 明日は早起きして、デカい魚釣って陽菜ちゃんに見せてやるぞ!」
航太は誰もいない夜の海岸に向かって、元気に声を張り上げた。
波が静かに寄せては返し、少年の決意を優しく包み込んでいく。
西浜航太、小学五年生の二学期。
少しずつ大人になっていく少年の胸には、誰かを守りたいという新しい強さと、どこまでも眩しい希望が満ちあふれていた。
陽菜が不登校になりました。小学校高学年の女子の間ではよくあることなのかも知れません。
美浜村で伸び伸び毎日を送って欲しいいる航太にはまだ分からないでしょうが。
でも、最近では都会も田舎も関係ないかも知れないですね。
不登校やいじめ被害者には、理解者がいれば深刻にならずに立ち直れるのだと思います。
子どもの友人関係根っこのところではまだ、その子が好きだから、楽しいから、信頼できるからというのが、友人を作る基準だと思いますよ。




