31 桜貝のペンダント〜西浜家、男たちの母の日作戦〜
母の日の少し前、美浜村を包む風には、どこか甘い新緑と潮の香りが混じり合っていた。
西浜家の長男・航太は小学四年生になり、弟の櫂は小学三年生になった。二人の背丈は去年よりもひと回り大きくなり、相変わらず海原を駆け回る毎日のせいで、肌はすっかり眩しい小麦色だ。
「よし……いいか、お前たち。今日は西浜家の男どもによる、最高機密作戦の会議だ。母ちゃんには絶対に悟られるなよ」
リビングの畳の上。父・青が座卓を囲む二人の前に身を乗り出し、声をひそめて言った。足元では愛犬の二代目シロが、まるで作戦内容を理解しているかのように「くぅん」と低く鼻を鳴らしている。
「最高機密作戦……? 父ちゃん、何のこと?」
航太が首をかしげると、櫂も目を丸くして身を乗り出した。
「にぃに、もしかしてまたカメに乗ってどっか行くの!?」
「バカ言え、そんなわけねぇだろ。……もうすぐ母の日だろ?」
青がいたずらっぽく笑うと、航太と櫂はハッと顔を見合わせた。
「あっ! そうだ、五月の第二日曜日!」
「母ちゃんの日だ!」
「そうだ。いつも美味い飯を作ってくれて、俺たちを温かく包んでくれるナギに、今年は最高のサプライズを贈りたいんだよ」
青はそう言って、畳の上に一枚の古いノートを広げた。そこには青の不器用な字で、いくつかの計画が書き連ねてある。
「父ちゃん、何か良いアイデアがあるの?」
航太が尋ねると、青は少し照れくさそうに頭をかき、遠い目をした。その瞳には、懐かしい記憶の光が宿っている。
「……なぁ、お前たち。俺が初めてナギ……母ちゃんと出会ったときのこと、話したことあったか?」
「えっ? 父ちゃんが母ちゃんと出会ったとき?」
櫂が目を輝かせる。航太も興味津々で青の顔を覗き込んだ。
「ああ。俺がちょうど小学五年生の夏休みだった。浜の大きな岩場での……潮だまりを覗き込んでた俺の前に、すっと現れたのがナギだったんだ」
青は当時の光景を昨日のことのように思い出していた。太陽の光を浴びてキラキラと輝く海面。その水面からふわりと顔を出した少女の美しさと、どこかこの世のものとは思えない神秘的な空気。幼かった青の心は、一瞬で奪われたのだった。
「その時な、ナギの首元に小さくて綺麗なピンク色のペンダントが揺れてたんだ。……桜貝のペンダントだった」
「桜貝……?」
航太が言葉をなぞる。
「そうだ。透き通るような薄いピンク色で、まるで桜の花びらみたいな貝殻だ。ナギはそれを、すごく大切そうに指で触ってた。……でもな、ナギが人間になって俺たちのところへ来てくれたとき、そのペンダントは海の底に置いてきちゃったらしいんだ」
青は胸の奥がキュッと締め付けられるような切なさを感じていた。人魚としての過去を捨て、人間として自分を選んでくれたナギ。過去の焦げた写真の件でわかったように、ナギは過去を捨てようと必死だった。けれど、あの小さな桜貝に寄せられていたナギの愛おしそうな視線は、青の記憶に強く焼き付いていたのだ。
「ナギは『もういいの』って笑ってたけどな。俺は知ってるんだ。あの桜貝は、ナギにとって海の思い出であり、自分の生まれ故郷との繋がりだったんだって。……だからさ」
青は航太と櫂の目を真っ直ぐに見つめた。
「今年の母の日は、みんなで美浜村の浜辺で本物の桜貝を集めよう。それを俺の手で綺麗なネックレスに加工して、ナギにプレゼントしたいんだ」
「……!」
航太の胸の中で、カッと熱いものが込み上げた。
(母ちゃん、そんな大事なものを海の底に置いてきたんだ……。自分の思い出を全部捨ててまで、俺たちの母ちゃんになってくれたんだ……)
航太は拳を強く握りしめた。母がどれほどの覚悟と優しさを持って自分たちを愛してくれているか、四年生になった今なら少しだけわかる気がした。
「俺、やる! 桜貝、絶対にたくさん見つけるよ!」
「おれも! おれもやる! 母ちゃんに綺麗なお首飾り、あげるんだ!」
櫂も小さな腕を突き上げて叫んだ。シロが「ワンッ!」と嬉しそうに吠える。
「よし! 声が大きいぞ、ナギに聞こえる!……それとな、もう一つだ。やっぱり母の日といえば、赤いカーネーションだろ? 桜貝のネックレスと一緒に、でっかいカーネーションの花束を贈るぞ」
青の作戦発表に、西浜家の男三人は固い握手を交わした。西浜家・母の日サプライズ作戦が、ここに始動したのだった。
◇
それからの数日間、航太と櫂、そして青の「怪しい行動」が始まった。
学校が休みの日の早朝。まだナギが朝食の準備をしている隙を突き、三人はシロを連れてこっそり家を出抜け出した。向かうは、美浜村でも特に綺麗な貝殻が打ち上げられる東の浜辺だ。
「うわぁ……広いなぁ。本当に見つかるのかな、父ちゃん?」
櫂がどこまでも続く砂浜を見渡しながら不安そうに呟く。
桜貝はとても繊細で、割れやすい。しかも、潮の流れやタイミングが合わなければ、滅多に美しい形のまま浜に打ち上げられることはなかった。
「大丈夫だ。根気よく探せば必ずある。波打ち際の、少し湿った砂のあたりをよく見るんだ」
青の指導のもと、三人は腰をかがめて砂浜を這うように歩き始めた。
「あっ! 父ちゃん、これじゃない!?」
航太が叫び、小さなピンク色の欠片を拾い上げた。だが、青が覗き込むと、苦笑いを浮かべて首を振った。
「うーん、惜しいな。これは普通の二枚貝の欠片だ。本物の桜貝はもっと薄くて、光にかざすと透けるんだよ。それに、割れてない綺麗な二枚が揃った形のがいい」
「えーっ、難しいんだなぁ……」
航太は拾った欠片をポケットにしまい、再び集中して砂を見つめた。
指先で砂を掻き分け、波が寄せては返すたびに目を凝らす。
一時間、二時間……。太陽が高く登り、額から汗がポタポタと落ちる。
(母ちゃんは、海の底で一人ぼっちだった時、あのペンダントを見てたのかな……。俺たちがプレゼントしたら、母ちゃん、喜んでくれるかな……)
航太は波の音を聞きながら、一生懸命に母の笑顔を思い浮かべていた。
母が笑うと、まるで家の中全体に太陽が射し込んだように温かくなる。あの笑顔をもう一度、いや、世界で一番の笑顔にして見せたい。
「……あった!!!」
突然、櫂の大きな叫び声が浜辺に響き渡った。
「櫂! 本当か!?」
青と航太が猛ダッシュで駆け寄る。
櫂の手のひらの上には、朝の光を浴びて薄桃色に輝く、奇跡のように完璧な形の小さな桜貝が乗っていた。光にかざすと、まるで桜の花びらが一枚、手の上に舞い降りたかのように透き通っている。
「すごい……! 本当に桜貝だ! どこも割れてない!」
航太が声を弾ませる。
「やったなぁ、櫂! これだ、まさにこれだ!」
青が櫂の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわすと、櫂は鼻の下をこすって誇らしげに笑った。
「へへっ、母ちゃんのために、おれが見つけたんだよ!」
その一言が引き金となり、三人の捜索にさらに熱が入った。シロもクンクンと鼻を鳴らしながら砂を掘り、お手伝いをする。
「あ! 俺のもあった! 綺麗なピンクだ!」
「俺ももう一個見つけたぞ!」
試行錯誤の末、その日の終わりには、ネックレスのトップにするのにふさわしい、見事な桜貝が三つ集まった。
◇
母の日の前日。
ナギが隣町のスーパーへ買い物に出かけている数時間の間、西浜家のリビングは突如として工作工房と化した。
「よし……ここからは父ちゃんの腕の見せ所だ」
青は道具箱から細いドリルと透明な樹脂、そして銀色の小さな金具を取り出した。青の手はゴツゴツとしていてデカいが、手先は驚くほど器用だ。
「父ちゃん、貝殻割らないでよ? 慎重にね……」
航太が息を呑んで見守る。櫂も膝立ちになって、青の手元を凝視していた。
「分かってる。ナギへのプレゼントだ、絶対に失敗しねぇ」
青の額にじわりと汗が滲む。小さな桜貝の端に、慎重に、慎重に極細の穴を開けていく。チュイーンというかすかな音とともに、見事に小さな穴が貫通した。
「よっしゃ……!」
青が小さくガッツポーズを決めると、航太と櫂は「すごーい!」と手を取り合って跳ね起きた。
青はその穴に小さな金具を通し、補強のために透明な樹脂で優しくコーティングした。そして、革紐に三つの桜貝を通す。両端には櫂と航太が見つけた貝、そして中央には一番大きくて美しい青の貝が並んだ。
光に透かすと、三つの桜貝が寄り添うように揺れ、まるで小さな桜の花束のようだった。
「出来た……『桜貝のペンダント』だ」
青が満足そうにつぶやくと、航太の胸にも熱い達成感がこみ上げてきた。
「すごく綺麗……! 本物の売り物みたいだよ、父ちゃん!」
「うん! 母ちゃん、絶対びっくりするよ!」
「よし、次はカーネーションだぞ」
航太と櫂は、自分たちのお小遣いを握りしめて、近所のお花屋さんへ走った。
お小遣いを出し合って買ったのは、真っ赤でフリルのような花弁がぎっしりと詰まった、大きなカーネーションの花束だ。
「お兄ちゃん、お母さん喜ぶといいね」
花屋のおばちゃんにそう言われ、二人「うん!」と元気に頷いた。
準備はすべて整った。あとは、明日を迎えるだけだ。
◇
そして迎えた、母の日の当日。
美浜村は爽やかな快晴に恵まれた。
朝食が終わった直後、リビングの空気がわずかに緊張を帯びた。
キッチンで食器を洗っていたナギが、「ふぅ」と息をついて振り向く。
「航太、櫂。今日はいい天気だから、後でお布団干しましょうか」
「母ちゃん! ちょっと待って!」
航太が声をかけると、ナギは「え?」と手を止めた。
青が合図を送ると、航太と櫂は後ろに隠していたものを取り出し、ナギの前に進み出た。櫂の手には真っ赤なカーネーションの花束、そして航太の手には、青が丁寧に包んだ小さな小箱が握られている。
「母ちゃん……いつも、おいしいご飯を作ってくれてありがとう!」
航太が真っ直ぐナギの目を見て言った。
「おれたちを、いーっぱい愛してくれてありがとう! これ、母ちゃんにプレゼント!」
櫂が背伸びをして、カーネーションの花束をナギに手渡した。
ナギは目を丸くし、それから胸に手を出て固まった。
「えっ……これ、私に……? 母の日の……?」
「そうだぞ、ナギ。西浜家の男どもからの日頃の感謝だ。……さあ、航太、箱を渡してやれ」
後ろで腕を組んでいた青が、優しく微笑みながら促した。
航太は小さな箱をナギの両手にそっと乗せた。
「母ちゃん、開けてみて」
ナギは戸惑いながらも、愛おしそうにリボンを解き、箱のフタを開けた。
箱の中、白い綿の上に鎮座していたのは——透き通るようなピンク色の光を放つ、三つの桜貝のペンダントだった。
「あ……」
ナギの動きが完全に止まった。
その瞳が大きく見開かれ、やがてみるみるうちに大きな涙粒が溜まっていく。
「これ……桜貝……?」
「父ちゃんから聞いたんだ」
航太が一生懸命に説明を始めた。
「母ちゃんが人間になるとき、海の底に置いてきちゃったって……。昔、父ちゃんと出会ったときに着けてたって聞いたから。俺と櫂と父ちゃんで、浜辺でずっと探したんだよ! 割れてない綺麗なやつ、みんなで見つけたんだ!」
「おれが一番最初に大きいの見つけたんだよ! 母ちゃん、泣かないで!」
櫂が心配そうにナギのエプロンの裾を引っ張る。
ナギは震える手でペンダントを包み込み、胸に強く抱きしめた。
ポロポロと、真珠のような涙がナギの頬を伝って落ちていく。
(私の……私の大切な思い出……。全部捨てたつもりだったのに……みんな、覚えていてくれたんだ……)
ナギの胸の中に、温かい感情の波が押し寄せていた。
人魚として生きていた頃の寂しさも、人間になると決めたときの不安も、すべてがこの温かい家族の愛によって、光となって昇華されていくような感覚だった。
「ナギ」
青が歩み寄り、ナギの肩を優しく抱き寄せた。
「お前が海で生きていた過去も、俺たちと生きている今も、全部大切な思い出なんだよ。お前が無理に過去を消す必要なんてない。俺たちが、お前の思い出も全部包み込んでやるからさ」
「青くん……航太……櫂……」
ナギは声を詰まらせながら、三人に向かって深く深く深呼吸をした。そして、今まで見たこともないほど眩しく、美しい笑顔を咲かせたのだった。
「ありがとう……! 私、世界で……ううん、この宇宙で一番幸せな母親よ……!」
ナギはしゃがみ込み、航太と櫂をぎゅっと力いっぱいに抱きしめた。
二人の幼い体から伝わってくる温もりが、ナギの心を満たしていく。
「母ちゃん、ペンダント着けてあげる!」
航太がペンダントを受け取り、ナギの首の後ろで金具を留めてやった。
水色のブラウスの上に、淡いピンク色の桜貝が三つ、優しく揺れる。
それはまるで、青、航太、櫂の三人が、永遠にナギを守り続けるという誓いのようだった。
「似合ってるよ、母ちゃん! すごく可愛い!」
「うん! カーネーションと同じくらい綺麗!」
櫂と航太が口々に言うと、ナギは涙を拭きながら何度も何度も頷いた。
「ふふ、ありがとう。一生の宝物にするわね」
足元ではシロが嬉しそうに尾を振り、ナギの足元に体をすり寄せている。
窓から差し込む初夏の光が、リビング全体を黄金色に包み込んでいた。
「よし! 今日は特別な日だ! 夕飯はみんなで特大のカレーでも作るか!」
青が豪快に笑うと、航太と櫂が「やったー!」と歓声を上げた。
「もう、青くんったら。今日は私が美味しいものを作るって言ったのに」
ナギが可憐に微笑み、首元の桜貝をそっと指で撫でた。
美浜村の潮風が、窓枠を揺らして心地よく吹き抜けていく。
海は今日も青く、どこまでも広がっている。
けれど、かつて一人ぼっちで海を見つめていた少女はもういない。
愛する夫と、強く優しい二人の息子たち。
世界で一番温かい家族に囲まれて、ナギの心は、永遠の凪のように穏やかに、そして深く満たされているのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
青い海のナギー潮のゆりかごーこの掌編は、何度も完結させたのに、次々と新しい物語が浮かびます。
(お騒がせしております)
本編の青い海のナギ(メインは人魚のナギと少年青の物語)では、初めの設定では、青はナギを海に返して、青が大人になって別のお嫁さんをもらってから、沖海で、海の女神になったと思われたナギに語りかけるシーンで終わろうと思っていました。勿論、海にはナギの姿も登場させないつもりでした。
でも、本編を考えていたら、青とナギに悲しい別れは似合わないと思うようになり、2人を高校生の時に再会させたという流れになりました。今度はナギは人間になるために人魚の掟を守らなければならなかったので、青のそばにいても、名乗ることができなかったのですが。
変装はしていますよ。
こうして、2人を再会させたら、掌編も本編を上回るくらいの量の物語ができました。
不思議ですね。




