28 雨の日の小さな祈りと大きな手
美浜村の初夏。六月の雨が静かにアジサイの花びらを濡らし、西浜家の屋根を優しく叩いていた。
長男の航太は小学五年生になり、すっかり背も伸びて、近所の子供たちを率いる少年マンガの王道主人公のような頼もしい少年に育っていた。一方、弟の櫂は今年で小学四年生。ずっと兄の背中を追いかけ、航太のようになりたいと心から慕っていた。
しかし、そんな六月のある日、櫂は高熱を出して学校を休むことになった。体に赤いぽつぽつが広がり、診察の結果は水疱瘡だった。
「かゆい……喉も痛いよぉ……」
畳の上に敷かれた布団の中で、櫂は真っ赤な顔をして息を荒げていた。熱で体が重く、関節も痛む。何より、皮膚のあちこちが痒くてたまらないのに、掻いてはいけないと言われてじっと耐えるのは、幼い櫂にとって拷問のような苦しみだった。
「櫂、つらいなぁ。冷たいタオル、新しくするからね」
母のナギが、氷水で絞った手拭いをそっと櫂の額に当てた。その手は相変わらず温かく、海の底の優しさをそのまま包み込んだかのようだった。
「ほら櫂、ポカリスエット買ってきたぞ。少し飲めるか?」
仕事の合間に駆け戻ってきた父の青が、心配そうに櫂の背中を支えて水分を口に含ませてくれる。
放課後になると、濡れた泥の匂いをさせた航太が、ランドセルを放り投げて部屋に飛び込んできた。
「櫂! 大丈夫か!? 俺、学校帰りに神社で『櫂の水疱瘡が早く治りますように』って百度参りしてきたぞ! ほら、学級文庫からお前が好きそうな冒険の本も借りてきた!」
「にぃに……ありがとう……」
家族みんなが、自分ひとりのために必死になって看病してくれる。冷えピタを貼り替えてくれ、大好きなリンゴをすり下ろしてくれ、汗をかけば着替えさせてくれる。
けれど、発熱から三日が過ぎ、熱が少し下がって容体が落ち着いてくると、櫂の胸の中に別の苦しみがこみ上げてきた。
(おれ……また迷惑ばっかりかけてる……)
ふと窓の外を見ると、雨上がりの青空が広がり始めていた。きっと今頃、航太は友達と一緒に元気に校庭でサッカーをしたり、海辺で秘密基地を作ったりしているはずだ。航太はいつだってカッコよくて、クラスのリーダーで、誰からも頼りにされている。
それに比べて自分はどうだろう。
水疱瘡にかかって家から一歩も出られず、父ちゃんや母ちゃんに余計な仕事を増やし、にぃににも心配ばかりかけている。病気なのだから仕方がないと頭では分かっていても、自分があまりにも不甲斐なくて、無力に思えてならなかった。
「おれ、なんにもできないや……。ただ寝てて、ご飯作ってもらって……みんなの邪魔ばっかり……」
櫂は布団を引き上げ、口元まで覆い隠した。部屋の隅には、真っ白でふわふわの柴犬・二代目シロが座っていた。シロは心配そうに耳を伏せ、のそのそと櫂の布団の脇へ寄ってくると、冷たい鼻先を櫂の手にそっと擦り寄せた。
「シロ……ごめんな。散歩も連れて行ってあげられないや……」
櫂はシロの柔らかい頭を撫でながら、ぽろぽろと涙をこぼした。やがて、病み上がりの体は再び強い眠気に襲われ、櫂はまぶたを重く閉じていった。
*
どこか懐かしい、潮の香りが漂う不思議な空間だった。
櫂がふと気がつくと、自分はどこまでも広がる金色の原っぱの中に立っていた。空はどこまでも青く、温かい風が優しく吹き抜けている。水疱瘡の痒みも熱っぽさも、嘘のように消えていた。
「あれ……? ここ、どこだろう……?」
ポツリと呟いた櫂の前に、一匹の白い犬が歩いてきた。シロだった。しかし、いつものシロとは少し違う。シロは櫂の前でちょこんと腰を下ろすと、驚くほど澄んだ、優しい少年の声で語りかけてきたのだ。
『櫂くん。そんなに自分を責めないで』
「えっ……! シロ……? お前、喋れるの!?」
櫂が目を丸くすると、夢の中のシロは「ふふっ」と誇らしげに目を細めた。
『僕はいつだって櫂くんのことを見ているよ。病気なんだから、何もできないことを気にすることなんてないんだよ』
「でも……! にぃにを見てよ。にぃには5年生になって、みんなを引っ張って、すっごくカッコいいんだ。父ちゃんも海で魚をいっぱい獲ってくるし、母ちゃんは美味しいご飯を作ってくれる。おれだけ、何も役に立ってないんだ……」
櫂がうつむいて拳を握りしめると、シロは一歩近づき、温かい前足を櫂の膝の上にぽんと乗せた。
『そんなことないよ。人間にはね、元気に走り回って誰かを助ける役目の人もいれば、じっと休んで、誰かを思いやる役目のときもあるんだ』
「誰かを思いやる役目……?」
『そうだよ。もし、自分が何もできていないって悩むのなら──家族や、お友達や、世界中の人々が幸せになるように祈ったらどうかな? 櫂くんの優しい心が誰かの幸せを祈るとき、櫂くんの心もきっと軽くなるはずだよ。祈ることはね、どんなに遠くにいても、ベッドの上からでもできる、とっても大きくて温かいパワーなんだから』
「祈る……。おれが、みんなの幸せを……?」
『そうさ。櫂くんが“みんなが笑顔になりますように”って願うだけで、世界はほんの少し、優しくなるんだよ』
シロはそう言うと、満足そうに「ワン!」と一瞬だけ犬らしい声をあげ、くるりと向きを変えて走り出した。
「あ、待って、シロ──!」
*
「……ん……っ」
櫂が目を覚ますと、そこはいつもの自分の部屋だった。
夕方のオレンジ色の光が、障子越しに部屋を柔らかく照らしている。枕元を見ると、本物のシロがじっと櫂の顔を見つめていた。櫂が目を開けたのに気づくと、シロは嬉しそうにパタパタと勢いよく尻尾を振った。
「シロ……」
夢の中の出来事が、あまりにも鮮明だった。シロの言葉が、じんわりと櫂の傷ついた心に染み渡っていく。
(何もできないことを、気にしなくていいんだ……。おれにも、できることがある)
櫂はゆっくりと体を起こした。まだ少し体はだるかったけれど、胸の奥にあった重苦しい塊は、すっかり消え去っていた。
櫂は布団の上でそっと両手を合わせ、胸の前でキュッと握りしめた。そして、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
(父ちゃんが、今日も怪我なく安全にたくさん魚を獲れますように)
(母ちゃんの作ったご飯が、今日もみんなを笑顔にしますように)
(にぃにが、サッカーの試合で大活躍できますように)
(陽菜ちゃんが、東京で元気に笑っていますように)
(そして……世界中の病気の人たちが、早く良くなりますように)
ひとつひとつ、心を込めて丁寧に祈った。自分の小さな胸から、温かい光の粒がぽろぽろと零れ落ちて、風に乗って遠い空まで広がっていく──そんな不思議な感覚がした。
不思議なことに、みんなの幸せを祈れば祈るほど、自分の心が軽くなり、温かいエネルギーで満たされていくのが分かった。
「……ふぅ」
祈りを終えて櫂が目を開けると、シロが「くぅ〜ん」と優しく喉を鳴らし、櫂の頬をぺろりと舐めた。
「ありがとう、シロ。おれ、分かったよ」
その時、廊下からバタバタと賑やかな足音が近づいてきた。引き戸が勢いよく開くと、汗だくになった航太が顔を出した。
「櫂! 熱はどうだ!? 俺、今日のサッカーの練習で、めちゃくちゃすげえロングシュート決めたんだぞ! お前に一番に教えたくて走って帰ってきた!」
続いて、台所からエプロン姿のナギと、汗を拭き拭き入ってきた青が顔を覗かせた。
「航太ったら、玄関で靴も揃えないで飛び込んでいくんだから。櫂、体調はどう? 気分悪くない?」
「おーい櫂、お前の好きなプリン買ってきたぞ!」
賑やかで、どこまでも温かい家族の姿。
櫂は思わずニッコリと、心からの満面の笑顔を浮かべた。その笑顔は、病気になってから一度も見せていなかった、太陽のように明るい笑顔だった。
「にぃに、ロングシュートすごいね! 父ちゃん、母ちゃん、おれ、もう全然平気だよ! すごく胸がすっきりしたんだ!」
「おおっ! 笑顔が戻ったな!」
青が豪快に笑い、櫂の頭を大きくなでまわした。
ナギはハッとしたように目を丸くし、それから胸を撫でおろして優しく微笑んだ。
「よかった……。櫂の笑顔が見られて、お母さん本当に安心したわ」
航太は誇らしげに胸を張り、櫂の隣に腰掛けた。
「当たり前だろ! 俺の弟なんだからな! 早く治して、また海でヤドカリレースしようぜ!」
「うん! 絶対する!」
家族の笑い声が、西浜家のリビングにどこまでも高く響き渡った。
櫂は隣に座るシロの体をギュッと抱きしめた。シロは誇らしげに「ワン!」と一声鳴き、櫂の腕の中で気持ちよさそうに目を細めた。
自分は決して無力じゃない。誰かを思いやり、誰かの幸せを祈ることができる。
少年マンガの主人公のような眩しい兄の背中を追いかけながらも、櫂は自分だけの「優しさという強さ」を、この雨の日にしっかりと見つけ出したのだった。
美浜村の空には、いつの間にか大きな虹がかかり、西浜家を、そして広大な青い海をどこまでも優しく照らし出していた。
読んでいただき、ありがとうございます☺️
青ナギー星のゆりかごーは何度も完結にしましたが、
また新しい物語が浮かびました。
弟の櫂にスポットを当てていなかったので、こんな物語を作ってみました。




